彼と彼女
「クロユリったら、昨日どこにいたの!? 夜も帰ってこないで、朝食にも来ず、ようやく来たのは授業の途中。心配するでしょ!」
「いやー、ごめんね。ちょっと空き教室で疲れて仮眠してたら寝過ごしちゃって」


 教室を移動しながら、クロユリはリリーのお説教に耳を貸していた。
 あれから罰則の疲れもあり、空き教室でそのまま寝てしまったクロユリが起きたのは翌日だった。慌てて時間を確認すれば朝食の時間はとっくに終わり、既に2限目が始まっている時間だった。

 慌てて教室に向かったはいいが、教科書を全て寮に置いて来たクロユリは同寮の生徒達に笑い者にされ、先生にも怒られ、授業が終わった途端リリーに捕まりこうして説教をされている。


「ごめんね、次からは何かしらで連絡いれるから」
「何かしらって、何?」
「あー……、フクロウ?」


 ゴスン、と鈍い音と共にクロユリの頭に教科書の角が落ちた。つむじに直撃した本の角が与えてくる痛みはそれは酷いもので、クロユリは目に涙を滲ませながらリリーを見上げる。


「いったぁー……。えっ、な、なんかリリー機嫌悪い?」
「クロユリが帰って来なかったからでしょ」


 ふん、と鼻を鳴らしてついに先を歩き出してしまったリリーに、クロユリは顔を青く染めて小走りで隣に並んだ。
 謝罪の言葉を何度か投げかけて見るが、リリーはクロユリの方をチラリと見ただけで、後は知らないの一点張りだった。

 こんなに機嫌の悪いリリーは珍しい。ポッターに対してはよくこんな態度を示しているが、こうして自分自身にこの態度が向けられていることにクロユリは動揺していた。
 彼女が心配性だということは知ってはいるが、流石にこれはおかしい。何か、彼女を苛立たせるようなことがあったのだろうか。


「ねぇ、リリー。ごめんね、本当にごめーー」
「リリー!」


 謝罪に被ってきた必死な声は、背後から聞こえてきた。足を止めて振り返れば、そこには眉を潜めてこちらに早足で近づいてくるセブルスの姿。一見いつも通りな光景だが、何かがおかしい。


「行くわよ」
「えっ、ちょっと」


 グイグイと腕を引っ張るリリーの手にはいつも以上に力が入っている。
 リリーが苛立っている理由はセブルスなのだと理解したクロユリは引きずられるようにして、歩きながら追ってくるセブルスを振り返った。


「すまない、すまなかった、リリー!あんなこと言うつもりはなかったんだ。あの時は、その…。リ、リリー、話を聞いてくれ、お願いだ」
「……ねえ、リリー。スネイプが」
「ほっときなさいよクロユリ、スニベルスなんて。あいつも結局純潔主義のスリザリンなんだから」


 クロユリは目を見開いた。
 彼女の口からスニベルスだなんて言葉が出てくるとは思っても見なかったのだ。ジェームズ達に呼び方を辞めるように言った時ですら「そんな言い方」と濁していたリリーが。


「で、でもあんなに謝って…」


 角を曲がったところで、リリーの足がようやく止まる。慌ててクロユリも止まれば、ずっと後をついてきたセブルスが少しだけ嬉しそうな表情を見せた。


「リ、リリー」


 パシンッ、とひどく乾いた音が天井の高い廊下に何度も反射した。左の頬を赤くしたセブルスも、思わず息を飲んだクロユリも、指一本動かさない。いや動けないのだ。
 静寂が三人を突き刺す中、漸くリリーが桜色の唇を開いた。

「貴方が汚れた血の助けが必要無いように、私にもスリザリンの助けなんていらないわ。二度と話しかけないで」


 いつも歌うように奏でられていた声は、地を這うような、絞り出されたような。初めて聞く低い低い声は、如何にリリーが憤慨しているのかを突きつけているようだった。

 突然のことに何も言えないままのクロユリの腕を、リリーが掴み再び歩き出す。

 頬を打たれた時のまま微動だにしないセブルスを振り返ってから、クロユリは掴まれた腕に目をやる。
 掴まれた腕の先も、掴んでいるリリーの手も、青白くなっていた。

 痛い。そう言えたらどんなにいいのだろう。ーー自分では無く、リリーも、セブルスも。

「……リリー、好きだよ」

 ポツリと呟いたその言葉は、結局リリーには届かなかった。





 大広間での食事は静かなものだった。広間自体はいつも通りの喧騒に包まれているが、隣り合って座るリリーとクロユリの間に会話はない。リリーは目の前の料理を黙々と食べ続け、クロユリはそんなリリーの顔色を伺いながらいつもより大分少ない量を食べた。

 彼女達から少し離れた席ではいつも通り悪戯仕掛け人達がワイワイと盛り上がっているが、やはりそこでも1人沈んでいる男、シリウスがモソモソとベーコンを口に運んでいる。

 グリフィンドールでいつも騒ぐ二人が黙って食事をするということは想像以上の影響があるらしく、グリフィンドールの机はいつも通り賑やかながら何処か緊張したような空気をまとっていた。


「クロユリ」


 カチャリとなった小さな金属音は直ぐに喧騒に飲まれたが、クロユリの耳には確かに届いていた。少し跳ねるようにして隣に視線を送れば、卵が少しついたフォークを置いて俯くリリーがいる。


「クロユリ」


 もう一度呼ばれ、クロユリもリリーに習うようにしてフォークを置いた。椅子に置いた手を、未だ俯くリリーの指が這い、何度か手の甲を撫でるようにしてやがて一方的に繋がる。


「なぁに、リリー」
「クロユリは、クロユリは私と居てくれる?」


 リリーの制服のスカートに、小さなシミが一つだけできた。


「血だとか、そんなの関係なしに、居てくれる?」


 手は、震えていた。
 クロユリは少しだけリリーに背を向けて一方的に繋がれた手から逃れると、直ぐ様指を絡め直した。
 背を向けた瞬間、手が離れた瞬間、リリーの肩が跳ねたのをしっかりと見ていたクロユリは、一つだけ溜息を吐いて見せた。


「リリーったら、馬鹿だなぁ」


 目を閉じて少し昔を思い出し、そして直ぐに目を開ける。
 色鮮やかな過去を与えてくれた人物の笑顔を思い浮かべて、クロユリは空いている手でフォークを取ると半熟の卵を適当に掬った。


「好きだよ、リリー。ずっと」


 ぎゅう、と握り返された手に笑みを浮かべながらクロユリは口の端をあげて笑う。ボタリと黄身が皿に垂れたのを視界の隅に収めながら口に含む。

 なぜだかいつもよりもしょっぱく感じた卵を咀嚼しながら、クロユリは大広間から皆がいなくなるまで特に何を言うでもなくリリーの隣に寄り添っていた。
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