彼なら
 授業が終わり、生徒たちがそれぞれが自由に行動を始めるホグワーツの夕方。クロユリは珍しく1人その廊下を歩いていた。


「罰則とか……罰則とかないわー」


 口を尖らせてブツブツと呟く彼女の顔は心なしか疲労が浮かんでおり、広い廊下を踏みしめる足もどこかフラフラとおぼつかない。

 最近同僚の女の子から借りた同性愛ものの本が予想以上に面白く、思わず深夜まで読みふけってしまっていたクロユリは午前中の変身術の時間にグッスリと眠ってしまっていた。
 もちろん、それを良しとするはずもなくクロユリは放課後に部屋掃除の罰則をさせられていたのだ。


「ちょーっと寝ただけなのに、マクゴナガル先生ったら厳しんだから……ん?」


 ボロボロと零れてくる不平不満が、ピタリと止まる。クロユリが首を傾げながら見つめるのは、校舎内からでは少し目の付きにくい位置にある小さな池。その傍で蹲る黒に、クロユリは十二分に見覚えがあった。
 クロユリは窓を乗り越えて外に出ると、なるべく音を立てないようにゆったりと歩く。


「スネーイプ」


 びくり、と肩を震わせたその黒い塊はやはりセブルスだった。しかし、いつもは呼べばすぐに返ってくる返事が今はない。

 クロユリは、はてと首を傾げた。
 見間違いだろうか。いや、そんなはずはない。あと少しねっとりしたような髪も、大きな鉤鼻も、お世辞でも健康的と言えないような肌の色も、ほぼ毎日行動を共にしている彼のモノだ。


「どうしたの?具合でも悪い?」
「うるさい触るな!」


 肩に置こうとした一般的な白さのクロユリの手は、それよりも遥かに白い手によって弾かれた。パシン、と小気味の良い音が響き、クロユリの目が大きく開かれる。

 弾かれヒリヒリと痛む手。しかしそれと同じくらい、否それよりも酷く胸が痛んだ。
 少しずつ赤くなる手で、そっと胸元の服を握りしめる。少し深呼吸をすれば痛みはゆったりと滲むように胸全体に広がり、やがて消えた。

 いつもなんだかんだで仲良くしているセブルスに拒絶されたことが、ショックだったのかもしれない。そう、クロユリは思った。


「機嫌悪いね、スネイプ」
「あ、いや、その……すまない、怒鳴ったりして」
「どっちかっていうと、怒鳴ったことより叩いたこと謝ってよね。仮にも女の子なんだけどー」
「あぁ、すまない」
「……え、どうしたの」


 すんなり聞かされた謝罪の言葉に、とうとうクロユリはセブルスの隣にしゃがみ込みその顔を覗き込む。普段なら謝罪の前に嫌味の一つや二つ、飛んでくるものだというのに。

 油っぽい髪が触れるのも気にせず、未だ少し俯くその顔にペトリと手を当てて見るが、肌を通して伝わってくる温度はいつも通り冷たい。


「熱、じゃないか……なに、悪いものでも食べた?」
「いイライラして八つ当たりしただけだ。……わるかった」
「あー、たまにそういうことあるよね。別に良いって良いって。あっ、でも私のリリーには当たらないようにしてよね、私のリリー!」


 いつも通りの気楽な言葉に、返事は返ってこなかった。
 クロユリの隣で蹲るようして座っていたセブルスが、スッと立ち上がる。相変わらず趣味の魔法役の実験やら闇の魔術付けなのだろうか、彼のローブからはスッと鼻を抜けるような葉の匂いと、反対に焦げたような燻った匂いがした。


「あれ、寮戻るの?」
「リリーに、謝ってくる」
「げぇ、もうあたってたの?殴るよ?私のリリーに何してんの?」
「……殴るなら、好きにしろ」
「……スネイプ、あんた、リリーに何言ったの」


 クロユリの声が真剣味を帯びた、すこしだけ低い声に変わった。眉を寄せ怒りを抑えるようにゆっくりと立ち上がったクロユリは、背を向けるセブルスの肩に手を掛ける。


「私、スネイプのことリリーを狙うムカつく奴って思ってるけど、でもちゃんと私の気持ちわかった上で争ってくれるライバルだとも思ってる。だから、流石に言った内容は分からなくてもスネイプがリリーに酷いことを言って、それをすごい後悔してるの分かる」


 相変わらず真っ黒な瞳が、ネットリした髪の隙間からチラリと覗いてくる。その目には後悔と苛立ち、それか少しの助けを請うようなものが混じっているような気がした。


「私が分かってるってことは、幼馴染のリリーだって分かってるよきっと。だから、誠心誠意謝ってきて」
「リリーは、許してくれるだろうか」
「だーいじょうぶだって、きっとね。ほら行く行く」
「呼び止めたのはお前だろ、まったく」


 グイグイと背を押せばようやく、少しだけセブルスの口元に笑みが浮かんだ。それに釣られるようにしてクロユリの顔にも笑顔が戻る。
 少し早足で校舎へと戻っていくセブルスの背中を見ながら、クロユリは彼らが仲直りした暁には暫くこれをネタに弄ってやろう、と口をニンマリと歪めた。


「何気持ち悪い顔してるんだ?」
「うひぃっ!?」


 唐突にかけられた声に、クロユリは飛び上がるようにして反応した。バクバクと鳴る心臓を服の上から押さえつけながら振り向いたクロユリの顔は、一瞬驚きを浮かべたがそれもすぐに不愉快そうな仏頂面へと変わる。


「なに、何か用、ブラック」
「相変わらず冷てぇなぁ」


 可愛くねえやつ、と続けたのは同寮の男子生徒であるシリウス・ブラックだった。この間のセブルスいじめの事もあり、クロユリが彼を見る目はいつも以上に冷たい。
 しかし、シリウスはそんなことも慣れていると言うようにクロユリの肩に手を置くと、その場に座るように指示をする。

 肩に手を置かれている以上逃げられないだろうし、と大人しくその場に腰を下ろしたことをクロユリは数分後にひどく後悔した。






「煩い煩いクソブラック!」
「お、おいそこまでキレることねえだろ?」


 庭に響いたのはクロユリの怒号。立ち上がり隣に座っていたシリウスを見下ろすその顔に、怒りと共に悲しみの色が浮かぶ。


「私がリリーのこと好きなのはお遊びなんかじゃない!」


 出せるだけの声でそう叫んだクロユリは、うっと嗚咽を一つ漏らすと制服の裾を掴み俯いた。
 流れ落ちた髪の毛の奥では、悔しそうに下唇が噛み締められている。

「ポッターも、ブラックも。なんなの、私がリリーを好きじゃいけないの? なんで酷いこと平気で言えるの、不機嫌になる私を見て楽しいわけ?」
「そんなわけねえだろ! クロユリ」


 癇癪を起こしたように怒鳴り散らせば、とうとうシリウスも立ち上がった。骨ばった手が、ふるふると怒りや悲しみで震えるクロユリの肩にゆっくりと伸び、宥めるように撫でる。


「お前がリリーのことを本気じゃないって言ったことは悪い。だけどな、クロユリ。俺はお前のことーー」
「やめて!」


 シリウスが口にした言葉。その後になにが続くのか、リリーに恋をするクロユリには考えるまでもなく分かった。

 荒げた声で言葉を遮り、肩に置かれた手を強く払いのける。それは払いのけたクロユリの手が痺れるほどの力で、シリウスの手は簡単にクロユリの体から離れ宙に放り出された。


「やめて気持ち悪い! 男になんか、好かれたくない!」
「なっ……」


 とうとうボロボロと涙を流し始めたクロユリに、シリウスはなにも言えなかった。
 その場に縫い付けられたように動かなくなったシリウスを背に、クロユリは夕焼けをいっぱいに受ける校舎へと駆け出す。追ってくる足跡は、なかった。



   ◇



 どのくらい走っただろうか。大広間に食事に行く気分にも、かと言って寮に戻る気にもなれず、クロユリは目に入った空き教室に飛び込んだ。

 その教室は、つい最近セブルスが苛められていた部屋だ。クロユリが盛大に蹴破った扉もきちんと直されており、部屋の中も何事もなかったかのように整頓されている。ひとつ変わったことといえば、埃が無くなったことくらいだろうか。

 クロユリはひとまず一番奥にある椅子に腰掛け、走って上がった息を整えた。ついで、ぐしゃぐしゃと己の髪をかき混ぜ倒れるようにして机に突っ伏す。冷えた机がクロユリの火照った頬を冷やしていく。


「あー……もう、なんなのぉ…」


 酷く情けない声が零れて消えた。
 ぐるぐると彼女の頭の中を回るのは、先程のシリウスの告白擬いの行動。もちろん"擬い"にしたのはクロユリだが。

 いつもいつも嫌っていた相手に告白されるなんて、クロユリは夢にも思って居なかった。しかし、それでも告白擬い事をされたという喜びはある。

 男になんか、好かれたくない。

 そんなの、嘘だった。
 クロユリはふたたびクシャクシャと頭をかき混ぜると、机の上に投げ出した己の腕に顔を押し付ける。


「スネイプになら……なんて、なんで思ったんだろう」


 シリウスの手が体に触れた瞬間、クロユリはその手が見慣れたスネイプのもので無いことに酷く嫌悪した。

 自分はもしかしてリリーのことが好きでは無いのだろうか。

 そんな不安にかられて、クロユリは慌てて記憶の中のリリーをかき集める。
 ふわふわとした髪、エメラルドグリーンの瞳、抱きしめてくれる腕に、人を気遣う癖に自分のことは後回しな性格、サプライズに酷く喜ぶ純粋さ。
 トクン、と胸が高鳴ったことに、クロユリは安堵の息を漏らした。


「うぅ、リリー……」


 情けない声で愛しい人の名を呼ぶが、もちろん返事はない。鼻をすすれば、ズッと水の音がした。

 既に教室に差し込む夕日は無くなっているが、まだ戻る気にはなれない。リリーに抱きついて頭を撫でてもらったりしたいのだが、寮にシリウス達がいたり、謝りに行ったセブルスがまだいるかもしれないと思うと、どうにも足が竦む。

 結局クロユリは纏まらない考えから逃れるようにして、机の上に伏せて時間を潰すことにした。
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