「リリー、顔色悪いよ?」
あれからまたリリーと普通に話せるようになったことに、十二分に満足していたある日のことだった。
変身術の授業を終え、共に大広間へと向かっているリリーの顔色が酷く悪いことにクロユリは気がついた。
いつも桜色の唇は紫になり、肌もいつも以上に白くなっている。さながら読書に集中しすぎて徹夜してしまったセブルスのような顔色だとクロユリは思った。
「朝からだよね? 朝食もあまり食べてなかったし」
「あまり食欲無くて。風邪かしら」
「んんんー」
相変わらずフラフラと歩くリリーの手を引きその場で止めると、クロユリは彼女の白くなった両頬に手を添え、ゆっくりと顔を近づける。近くを通りかかったグリフィンドール生が息を飲む音が聞こえた。
ーーこつん。
合わさったのはリリーの額と、クロユリの額。
「うわ、熱いよリリー」
「あら、本当? クロユリが冷たいだけじゃないの?」
「それはこの間の態度のこと言ってるのかなリリーさぁーん……」
鼻先が触れ合う距離でジト目で見れば、同じくジト目をしたエメラルドグリーンにクロユリの顔が写った。
「まだ怒ってる?」
「怒ってないわよ」
「ほーらおこってるー!」
「怒ってないってば!」
少し、強く言われた言葉にクロユリの口がピタリと止まる。そして、数秒も立たずに二人同時に噴き出した。
「あはは、なにこれ!」
「やり出したのはクロユリでしょ」
「乗って来たのはリリーじゃん」
クスクスと笑い声を上げるリリー。顔色は良くないが、それでも浮かべている笑顔はとても楽しそうだ。
自分がしたこととは言え、リリーもろくに話さなかった数日間を淋しく思ってくれたのかもしれない。
そう思えば、クロユリの胸に言いようの無いほどの愛おしさが湧き上がり、思わず出そうになった"本気"をリリーの少し血色の悪い頬にキスを落とすことでなんとか抑えた。未だ見ていたグリフィンドールの生徒が小さく驚きの声をあげる。
「さってとー。私のリリー補給も出来たし、医務室いこっか」
「え? あぁ…大丈夫よ。ただの風邪でしょ?」
「耳から煙だしたくないなら早めに行くべきだと思いまーす」
返事をあまり聞かないまま、クロユリはリリーの腕の中から教科書の小さな山を抜き取る。それはクロユリの腕の中にあった山をさらに大きくしていた。
なんとか空いた手でグイグイと背中を押せば、ようやく観念したかのようにリリーの足が動き始める。
「いいわ、1人で行く。代わりに教科書ベッドの上に置いておいてくれる? もしかしたら午後の授業も遅れるかもしれないからその時は先生に言っておいて頂戴」
「1人で大丈夫?」
「医務室くらい1人で行けるわ、大丈夫。じゃあ、よろしくね」
いつもより覚束無い足取りでトロトロと歩いてくリリーの後ろ姿。非常に心配にはなったが、見舞いに行くにしろ何にしろ教科書を置いてからだ、とクロユリも少し早足でその場を後にした。
◇
寮に戻った直後、恋バナで盛り上がっていた同寮の女子に運悪く捕まってしまった。大声でリリーが好きだと叫んで来たのはいいが、その行動により予想外に時間を喰ってしまったクロユリは、近道だ、といつも曲がる場所とは違う角を曲がった。
「卑怯者のスニベルス!」
突如聞こえて来た不愉快な、しかしそれでいて聞き覚えのある声にクロユリの顔が歪む。声がしたのはすぐ近くにある空き教室からだった。
いじめだろうが関係ない。自分が巻き込まれてるわけでもないし。そもそもリリーが医務室で待っているのだ。こんなことに構ってる暇はーー。
声のした教室の扉の前を三歩通り過ぎたクロユリは、ピタリと足を止めた。数秒考えるように俯き、そして勢い良く踵を返す。
「なにやってんだこらーーっ!」
蹴破る、と言うのが一番正しいだろう。クロユリはドアのノブに手を触れること無く、少し汚れたローファーでその扉を蹴り飛ばしたのだ。随分使われていなかった空き教室の扉の蝶番は簡単に弾け飛び、少し埃の被っていた扉は”くの字”に曲がり教室に転がった。
教室の中はひどい状況だった。明らかに呪いを飛ばしあったのであろう焦げ跡などが壁一面を覆い尽くさんばかりにあり、椅子は壊れ長机は大きく吹き飛ばされている。
部屋の中心には尻餅をつき杖を掲げた格好のままのセブルス、そんな彼に前後から杖を突きつける男子が2人。壁際でみていたのであろう男子が2人。セブルス以外の胸元では紅いタイが揺れている。
「……ほんっと、揃いも揃って何してんの。リーマス、ブラック、ペティグリュー……ポッター」
セブルスを囲むように立つ面々に、クロユリの顔が更に歪んだ。予想はついていたが、こうしてしっかりと視界に光景を映してしまうと、先程見捨てようとした自分にも嫌気がさすような気がした。
「クロユリじゃねえか。何か用か?」
「頭の悪い犬に用は無いかな。用があるのは、スネイプ」
口元に笑みを浮かべて近づいてきたのは、ポッター率いる"悪戯仕掛人"の1人シリウス・ブラックだった。
クロユリは伸ばされた手を乱雑に払うと、大股で歩み進め未だ座り込むセブルスにその手を差し出す。
「スネイプ、リリーが探してたよ」
「リリーが?」
女に手を貸されるなんて、と思っていたのだろうか。少しだけそっぽを向き差し出された手に目を向けることをしなかったセブルス。しかし、それもクロユリの予想内の行動であり、すぐさまリリーの名前を出せば彼にクロユリの手を握らせることは至極簡単なことだった。
「エバンズはどこにいるんだい?」
しかし、彼女の名前をだせばこうして煩わしい外野も釣れる。それをすっかり失念していたクロユリは盛大に溜息を吐き出すと、忌ま忌ましいと言わんばかりの鋭い眼光でジェームズを睨みつけた。
「あんたには関係ないでしょ。…ーー卑怯者のポッター」
「なっ」
わなわなと震えるジェームズを一瞥すると、クロユリは右手でセブルスの左手を捕まえたまま、やはり大股で扉へと向かう。何処かに怪我をしたのだろうか、クロユリの後を引っ張られるようにしてついて行くセブルスの足元は、少しおぼつかない。
「クロユリ……」
「リーマスも友達は選んだ方がいいんじゃない」
扉のそばで気まずそうに立っていたピーターとリーマスが、クロユリの台詞に視線を下に降ろした。その光景に鼻を鳴らし、扉を跨ごうとクロユリは片足を大きくあげる。
「待てクロユリ! エバンズはどこにーー」
「気安くリリーを呼ばないで!」
振り向きざまにクロユリが振るった杖の先端からは、緑色の閃光がが真っ直ぐに放たれた。ジェームズの顔スレスレを通ったそれは、彼のメガネのフチを壊し顔から離すと後ろの壁にぶつかり弾ける。
ひどい静寂の中にクロユリの荒々しくあがった息だけが響いている。
「……行こう、グレース」
掴んでいたはずの腕は、いつの間にか逆転し手首を掴まれており、クロユリは中ばセブルスに引きずられるようにして空き教室を後にした。
◇
「ちょ、ちょーっ! どこ行くのスネイプ」
「リリーのところに決まってるだろ」
「リリー寮に居ないって!」
軽く振り払うようにして白い腕から逃れれば、ようやく先を歩くセブルスの足が止まった。振り向いたその顔は一瞬驚きに染まっていたものの、すぐにいつも通りの仏頂面が浮かぶ。
「いない?」
「ったく、痛いっつーの。何気握力あるんだから……リリー、熱だして医務室」
「熱!?」
「そっ。朝から具合悪そうでさぁ……多分昨日スネイプを庇ったからじゃない?」
クロユリとセブルスの脳裏に浮かんだのは、昨日の夕方の風景だった。性懲りも無く何時ものようにセブルスにイタズラを仕掛けていたジェームズ達だったが、それに気がついたリリーがセブルスを庇ったのだ。
「あの後乾かしなよーって言ってもしばらく乾かさなかったし」
自分のことになると適当になるんだから、とクロユリは頬を膨らませここに居ないリリーを睨む。
普段あれやこれやと世話を湧いてくるリリーだが、基本自分のことは後回しなのだ。ーージェームズの存在よりは優先されるが。
クロユリの少し前でいつの間にか俯いていたセブルスが、ポツリとつぶやいた。
「情けない……」
「スネイプ?」
「僕は、情けない」
少しだけ震えているようにも聞こえるその声に、クロユリは膨らませていた頬を萎ませて、真剣な顔で垂れた黒髪を見つめる。
「ポッター達にまともに勝ったことも無い。挙げ句の果てに、リリーまで巻き込んで……僕がリリーを守らなきゃいけないのに。なんて、なんて情けなーー」
「てぇい」
「いっ!?」
ゴッ、と鈍い音がセブルスの言葉を遮った。頭頂から伝わった痛みに若干涙目になったセブルスがようやく顔を覗かせる。
クロユリの右手は手刀の形を取り、セブルスのつむじに的確に振り下ろされていた。
「い、痛いじゃないか!なにするんだ」
「だって根暗すぎるんだもん」
「本当のことだから仕方ないだろ。ただ、根暗じゃない」
「陰険?」
「呪うぞ」
「きゃー」
ふざけた叫び声とともにようやく黒髪を離れたその手は、流れるようにセブルスの頬を撫ぜ、そしてその白い肌をーー。
「いだだだだ!」
爪を立てて摘まんだ。誰も居ない廊下にセブルスの必死の声が反響する。
「情けなくないよ、スネイプいつもリリーの為に一生懸命だし。リリーといるからって逐一ちょっかいかけてくるポッターとか、楽しそうに参加するシリウスとか、誰かが居ないと行動できないペティグリューとか、傍観してるだけのリーマスの方がよっぽど情けない!」
「わ、わかった!わかったからとりあえず離せ!」
懇願により離された頬はそこだけ赤く染まり、若干爪の後が残っている。
やりすぎたか、と思いながらも話の腰を折りたくないクロユリはそのまま真っ直ぐにセブルスを見つめながら再度口を開いた。
「いつも卑屈。もう少し自信持ちなよ。なんだかんだ頼りにしてるんだからさ、私も、リリーも」
「グレース……」
「あっ、でもリリーは絶対渡さないからね!!」
ビシッと大きな鉤鼻に、人差し指を押し付ける。
一瞬の静寂の後、どちらともなく小さな笑い声が漏れた。
「お前はいつもそれだな、気持ち悪いぞ」
「ちょっと、相変わらず酷いな。渓谷深くなってしまえ」
「呪うぞ」
「さーせん」
お互いにいつも通りの会話と、いつも通りの表情、そしてすこしだけ笑い声を漏らしながらようやくその場から足を動かし始める。
廊下には誰も居ない。窓から差し込む太陽は少し、移動したようだ。
「もう授業始まってんなぁー、しっかたないなー。一時間だけサボっちゃうか」
「医務室に行くのか?」
「こんな時間にお見舞いに行くとマダムポンフリーに雷が落ちるに1ガリオン」
「掛けにならないだろ、それじゃ」
「ばれたか。じゃあスネイプも魔法薬学の本持ってることだし、次のテストの場所のご教授でも!」
「こんな頭に教えるだけ時間の無駄だろ」
ダラダラとした歩みで肩を並べて歩く二人の影は、皆が授業している間中庭へと真っ直ぐに向かっていた。
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