一番の親友
 ようやく日が昇り始め、周りの生き物たちが起き出す時間。それと同時に、一件の家からけたたましいベルの音が鳴り響いた。家の近くに止まっていた鳥たちが、慌てたように飛び立って行く。

 数十秒ほどだろうか。喧しく鳴いていたベルの音は、荒々しい音とともに喚くことをやめた。
 にょきり、と布団から生えた一本の腕が騒音の原因であった目覚まし時計を掴んでいる。もそもそと布団がさらに動き、心底眠たそうな顔を覗かせたのはこの家の主であるクロユリだった。


「6時か……いい加減起きないと……」


 眠い眠いとぼやきながらも、ズルリと布団から這い出す。なんの抵抗もなくベッドから落ちたクロユリは、打ち付けた痛みに漸く意識をはっきりさせ、部屋のカーテンと窓を開け放った。昇り立ての朝日が部屋と身体を照らし、やっとクロユリの朝が始まる。


「おはようございます、お嬢様!」


 バチンと弾ける様な音に続き、目覚まし時計に負けず劣らず喧しい挨拶が部屋に響いた。少しだけ煩わしそうにクロユリが振り向けば、そこには一匹のしもべ妖精と、白い湯気の立つ食事が並べられた机。


「おはよ、チャター。相変わらず朝から元気だね」
「お嬢様にお褒めいただくなんて!チャターボックスにはなんて勿体無いお言葉!勿体無い勿体無い!」
「あーごめん褒めてないんだけどー……聞いてないな、もう」


 チャター、そうクロユリに呼ばれたしもべ妖精は、両頬に手を添えて恍惚とした表情を浮かべる。それを呆れたように見つめるクロユリ。
 これも毎朝の恒例行事のようなものになっている。

 これは戻ってくるまでに時間がかかるだろう。
 はぁ、と溜息を一つ零してクロユリはチャターをそのままにクローゼットへと足を進めた。

 適当に今日着る服を見繕い、次々に袖を通してゆく。少し伸びた髪をまとめ振り向いた頃には漸くチャターの意識も現実に戻ってきており、自分の失態に指を噛み締めていた。


「あーもー。チャター、そんなことしなくて良いって。ご飯食べよ?ね?」
「お嬢様!チャターボックスは悪い子にございます!お嬢様様を放り、夢を見ているなんて。チャターボックスの夢では毎日かけてくださるお嬢様のお優しいお言葉が渦を巻くように流れておりお嬢様が」
「はいはい。朝ごはん食べるよー」


 ガシガシと適当に頭を撫でて止まりそうになかった彼女の口を、多少強引に閉じさせる。こうでもしないとチャターボックスの"お嬢様トーク"は終わらないのだ。

 席に着いてフォークで目玉焼きを刺せば、薄い膜に出来た小さな穴から半熟の黄身が流れ出す。クロユリは適当な大きさに切った白身に、それを十分に絡め口に運んだ。


「新聞とか手紙は?」
「はい、お嬢様。本日の郵便はこちらにございます」


 サッと取り出された新聞と、数通の手紙が机の端に置かれた。新聞は食後に読むとして、手紙は食後誰からだろうかと視線を滑らせれば思わず溢れる溜息。


「まーた来てる」


 クロユリが片手で取り上げた手紙には、綺麗な字で「愛しい我が子へ」と記されていた。差出人は、彼女たちは確認せずとも分かる。


「暇だなーあの人たちも」
「旦那様も奥方様も、お一人で暮らすお嬢様が心配なのでしょう」
「もー、チャターいるのに。で?もう一通、誰から?」

 親からの手紙をポイと机の端に投げ、クロユリは再度目玉焼きにフォークを刺して次の言葉を待った。


「リリー・エバンズ・ポッター様からです」


 びちゃ、と汚い音が部屋に小さく響いた。落ちた黄身が皿の上で飛び散っている。

 
「り、りー?」


 これ以上ないほどに大きく見開かれた目。久方ぶりに聞いた愛おしい人の名前には、聞きなれた名前が付け足されていた。
 フォークを置いて、震える手で手紙の封を開ける。
 懐かしい匂いが、クロユリの鼻をくすぐった。



***



「チャター。これ、仕舞っておいて」
「お返事は書かなくてよろしいんですか?」
「……仕舞っておいて」


 心配そうに寄せられた眉から視線を逸らし、クロユリは食事もそこそこに窓際の椅子に腰かけた。ぎし、と軋んだ音と、引き出しが締まる音が部屋に響く。

 外は随分と明るくなっており、綺麗な青色だけが遥か上空を彩っていた。こんなにも心は淀んでいるというのに、なんとも皮肉なものだ。窓枠に肘をついて、ふうと一つ息を吐く。
 並ぶ文字が告げる言葉の数々が告げる言葉は、信じ難いものだった。


「結婚、か」


 風も吹かない中、ぽつりと呟いた言葉は何に攫われる事なく部屋に染み付く。

 リリーが結婚する。それも、あのジェームズ・ポッターと。なによりも毛嫌いしていたあの人物となによりも愛していた内の一人が結婚するという知らせに、忌々しさと同時に酷い虚しさを覚えた。

 リリーが生涯を共に過ごすのは、一人だと思っていた。うねった黒髪の、陰険な、分かりにくい優しさと直向きな愛を持つ、"彼"。

 じん、と目の奥が熱くなった。

 もう忘れるんだ、と"彼女"と"彼"に対する気持ちに蓋をし、距離を置いたあの日。涙を流しながらも行動に移すと決めたあの日から、結局どちらのことも忘れることも諦めることも出来ていないのだ。

 なんて女々しい性格なのか。
 再びため息をついて、サイドテーブルに置いてあったカレンダーに視線をやる。
 彼女の結婚式まで、あと一ヶ月。




****




 分からない。
 一ヶ月。そう、一ヶ月あったのだ。
 それだというのに、一日一日は恐ろしいほど早く進み、いつしか月も変わって。いつもはそんなことはないのに、気にしないようにしていたつもりが随分気にしてしまっていたらしい。

 だからこそ、わからない。

 何故、結婚式の前日だというのに我が家の玄関で仁王立ちしている女がいるのか。
 何故、仁王立ちしている女の額に青筋が浮かんで見えるのか。

 我が家で香るはずのない懐かしい匂いが、玄関に充満して鼻腔をくすぐる。


「……リリー」


 唇も、舌も、手も、震えた。口内がカラカラに乾いている。
 名前を呼ぶのが、ひどく苦しかった。しかし、同時に本人を前にしてそれを音にしてしまえば、あの日から一度たりとも満たされなかった心に途端に日が差す。

 リリーの視界に映り、リリーを視界に移すことに。
 名前を呼び、呼ばれる事に。
 リリーに触れられることに。
 なんとも形容しがたい感情がクロユリの心を満たす。しかしそれは、限りなく喜びに近いものだった。

 ーー例えそれが、強烈なビンタであったとしても。

 弾けるような音とともに、視界が変わった。
 姿くらましをしたわけではない。それなのに、視界が変わった。
 ジクジクと痛む頬が徐々に混乱する頭を冷やし、クロユリはようやく彼女の白い手に叩かれたのだと理解する。


「リ、リー。怒ってるの?」
「怒ってるの?ですって?当たり前でしょう!怒るわよ!」


 まるでガルルと唸り声が聞こえてきそうだ。
 未だ少しぼうっとしているクロユリの胸倉を、リリーが掴み軽く引き寄せる。その力は随分と強いものだったが。


「あの日の返事をしに来たの」


 クロユリの目が見開かれた。

 ーー愛してるよ。リリー。

 歪んだクロユリの顔は、それ以上聞きたくないと告げている。首を振って耳を塞ごうとする手を掴み、リリーはさらに続けた。


「申し訳ないけど、私ソッチの気はないから貴女の気持ちには答えられないわ」


 とうとうクロユリの瞳が揺れた。ぼんやりと水幕の張った瞳。
 わざわざ家に来てまで、押しかけてまで、こんな苦しい思いをさせたいのか。
 じわじわと更に溜まっていく涙。こぼれ落ちるか、落ちないか。


「でもね」


 ぐいと引き寄せられ、唇のすぐ横に当たる柔らかいもの。ぼろり、と溜まっていた涙が一つ零れると同時に、クロユリの後ろで見ていたチャターが小さくきゃあと悲鳴をあげた。
 リリーの顔がすぐ近くにある。
 は、と軽く漏れた息がクロユリの顔にかかった。


「クロユリは私の唯一無二の親友だと思ってる。だから、明日の結婚式、欠席なんて許さないからね!」


 パタン、と静かに扉の締められた玄関。ぼんやりとその扉を見つめるクロユリの頭の中では、何度も同じ言葉が繰り返されている。

 唯一無二の"親友"。その言葉は静かに、しかし着実に全身に染み渡り、やがて何かがストンと落ち着いた。そんな感覚をクロユリに覚えさせる。

 トクトクとなる心音。壊れていた時計が動き出すような。景色が鮮やかに動き始めるような。言い知れない感覚が、クロユリの世界をうごめき始める。


「リリー」


 クロユリはチャターに声をかけられるまでの十数分、震える手で口元を押さえていた。


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