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死んデ……いる…?
アマンダ、が……?
男の言っている意味が全く分からない。脳の許容量を超える男の返答に私の動きがピタリと止まる。
「ご、五年前に部下から聞いているんだ……。組織に反抗したアマンダを消したって、アマンダの抹殺に成功したって!!」
「抹殺……?……成功…??…何…言ってンだ……」
「ほら、あそこの棚の右から五番目の心臓のホルマリン漬け。あれが部下から送られてきた証拠の品、アマンダの心臓だ!!」
ロドリゲスの指差す棚の先には、液体の入った瓶が並べてあり、その中には生き物の内臓らしきものが浮かんでいた。
ーーあれが、アマンダの心臓?
何を言っているんだ、この男は。そんなことあるわけないじゃないか。この五年間、たまにだけどアマンダの「感情」を直接感じている。彼女の熱く激しくそれでいてどこか優しいあの感情をーー、私は感じている。それに、先月だってちゃんと700万ジェニー払っているし、毎月手渡される写真は間違いなく年月を刻んでいて、この五年で写真の中のアマンダも年を取っている。それなのに、この男は何を言っているのだろう。意味がわからない。
「俺は正直に答えた!だから外せ!!早く外せぇぇ!!」
ロドリゲスが手足をバタつかせながら何かを喚いている。組織を逃亡してからずっとアマンダを執拗に狙っていたのも、五年前の満月の日にアマンダを襲撃したのも、この男で間違いないはずだ。それなのに、この男はアマンダの居場所を知らないと言い、あまつさえアマンダは死んでいると言っている。意味が分からない。頭が割れそうなほど痛かった。
『逃げるなよ、全てを思い出せよ』
声が聞こえた。私の後ろから。真っ赤に染まった血塗れの自分が、ニヤリと唇を吊り上げながら笑っている気がした。
ズキン。頭が痛い。ズキンズキン。頭が痛い頭が痛い。ズキンズキンズキンズキン。頭が割れそうに痛い。ズキンズキンズキンズキンズキンーーーー。パンっと頭の中で何かが弾けた。フラッシュバック。記憶の洪水。明かりの消えた部屋。天窓から差し込む黄色い月明かり。倒れ伏す女性。床に広がるウェーブのかかった黒い髪。そして、どんどんと広がってゆく真っ赤な血。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……私が貴方を一人にしてしまったから……私が貴方の言いつけを破って外に出てしまったから……。記憶の奥底に沈めたはずの、あの日の光景がチカチカと頭に蘇る。
「いやぁぁぁぁぁぁーーーーー!!!」
むせ返る血の匂い。男達の足音。引き金を引く音。手から落ちた白百合。血の匂いと甘い匂いが混ざり合う。記憶の海の底で、苛立たしげに吐き捨てる自分が見えた。
時間は巻き戻り、あの日の出来事が頭に流れ出す。あの日ーー、『私も貴方を愛しています』そう伝えたくて彼女の好きな花を探しに行ったあの日、白百合を手に家に戻った私が一番最初に感じたのは、あの鼻につく甘い匂いだった。借りていたアパルトメントの出入り口には鍵がかかり、窓には雨戸が下ろされている。嫌な予感がする。壁に耳を付けると中から複数人の人間の靴音を感じた。アマンダが危ない。
「くそっ!」
嫌な予感で胸がいっぱいになった私は急いで裏手に回り雨樋を伝って屋根に登った。オーラは使えない。暴れ出しそうになるオーラを抑えるだけでいっぱいいっぱいだからだ。それでも、私は数分後には屋根の天窓付近に辿り着いた。
何が……、いったい何がーー。
焦る私の耳に追い打ちをかけるように乾いた銃声が鳴り響く。アマンダーー。そこからはもう、条件反射だった。レンガ瓦を屋根から剥がし、天窓のガラスに振り落とし、窓ガラスとともにそのまま中に飛び込む。
ガラス片と共に天窓から落ちてきた私に向かって男たちが驚きの目を向けている中、私は床に倒れ伏す一人の女性を見つけた。明かりの消えた薄暗い部屋。天窓から差し込む黄色い光。床に広がるウェーブのかかった黒い髪、投げ出された白い四肢、そしてどんどんと広がっていく赤い液体。
ドクン…ドクン……心臓が煩い。ドクン…ドク…ドクン……男の一人が手に持つ拳銃から硝煙の香りが漂ってくる。ドクン…ドクン…ドクン……胸元から床へと広がってゆく赤…朱…緋…紅…あか…アカ。
私は女性の元にふらふらと近寄り、それを指先にとった。どろり、ぬるりとした鉄臭い匂いを放つソレ。血だ。血。血。血。間違いない。赤い血。どろりとした液体。アマンダから流れている。止まらない、血液。鼻にクる、ツンとした刺激臭。鉄臭いこの臭い。甘ったるい香水と混ざって、私の頭をかき混ぜる。
「あああぁぁああああぁあぁぁぁーーーーー!!!」
アマンダが、アマンダが、アマンダがーー。頭が痛い。ガンガンする。心臓が喉まで競り上がり、内蔵が体の中で捻れ、目の前に火花が散る。熱い。熱い。熱い。体中が熱くて血液が沸騰しそうだ。
「ハァ……ハァ、ミズキ……逃げて……」
私の声に薄っすらと目を明けたアマンダが、息を途切らせながら言う。激しい痛みに襲われているにも関わらず、アマンダの瞳には優しい色合いが映っていた。痛いはずなのに。苦しいはずなのに。こんな時にまでも私のことを思って私を心配しているだなんてーー。アマンダ、アマンダ、アマンダ、アマンダ……私の女神。私の救い。私の希望。私の光。この世の何よりも尊く美しいアマンダ。彼女の為ならこの命を失っても惜しくない。何よりも大切に思っていたのに。心の全てを捧げていたのに。私の全てだったのに。それなのに、それなノに、ソレなノに、ソレナノニ、アイツラガーーーーー
許 サ ナ イ
バンッと頭の中で何かが弾けると同時に体の奥底から黒い感情が這い上がる。髪がゾワゾワと逆立ち、目の奥で炎が踊り狂う。ゾッとするほど冷たいのにまるでマグマのように熱く激しく沸き上がり続けるソレは、生まれてからずっと自分の感情を犠牲にしてでも押さえ付けていたモノだった。激しい怒りと深い絶望と燃え上がる憎しみが同居するソレは、何百人もの怨恨が溶け込んだ禍々しいオーラと混ざり合って、まるで竜巻のようになって私の体から噴出した。一度溢れ出したソレは、決壊したダムのように止まることはない。
行き場を失ったオーラが、まるで意思を持つように触手を伸ばして男たちに纏わり付く。初めて遭遇する悪意と敵意に満ちたそのオーラに、男たちは恐怖でその場に立ち尽くし、カタカタと体を震わせていた。
溢れ出した感情。暴れだしたオーラ。もう制御不能。
止まらない。止まラない。止まラなイ。止マラなイ。止マラナイ。
衝動が、
憎しみが、
怒りが、
トマラナイーーーー
私はトンと地面を蹴り、硝煙の匂いを漂わせる男の元へ飛んだ。アマンダとの生活を壊したアマンダを撃った男。憎い憎い憎い男。右手を振り下ろす。ザシュと肉が裂け、男の腕が空中に飛んだ。飛び散る血しぶき。噴き出す血液。温かかった。
「ぎィやァァァ!!」
男の叫び声が鼓膜を震わしていたけれど、まだまだ足りない。私は男の喉を突き、肋骨に手を入れ、肺を握り潰した。ぐぽっ、と音にならない音が潰れた喉から聞こえる。もっと……もっと……。腹に手を刺し、奥の背骨を掴んで引きずり出す。ぐちゅ、ぬちゃ、と粘ついた音とともに、骨の折れる鈍い音がした。
「ひっ……ヒィーー!!」
男たちが無様な叫び声をあげながら一斉に出口に向かう。逃がさない。千切り取った男の脚を手に私は飛び、そのまま男たちを薙ぎ払った。尻餅をついて私を見上げる男たちの恐怖にひきつった顔が心地良かった。
「ふっ。フフッ」
自然と笑いが込み上げる。手には男のモノだった右足。それを恐怖で失禁している男の腹に思い切り突き刺す。鍋をかき回すおたまのように男の腹をぐちゃぐちゃと掻き回すと、男が夕食に食べた物と汚物と内臓が腹の中でぐちゃ……ねちゃ……と粘っこい音を立てた。生臭い匂いがより一層強くなる。
「アハッ、アハハ!」
引き裂かれた皮膚。噴き出す血液。剥き出しの白い骨。全てが全て、可笑しかった。目からは涙。鼻からは鼻水。口からは泡。股間からは尿。無様で不恰好で惨めなその姿。まるで生ゴミだ。お前らにお似合いだ。ハハッ、お前らはアマンダの髪の毛一本にすら値しない。思いしれ、糞どもが。
耳を千切り、腕を引き抜き、顎を砕き、喉を潰し、内臓を掻き混ぜ、腰を砕き、脚を捻じ曲げる。それでもまだまだ足りなかった。焦点の定まらない瞳でこちらを見上げる男の視線が不快だった。気にくわない。腕を伸ばし、男の目の窪みに指先を当てると、男が怯えた声を上げた。蛆虫に相応しい鳴き声だ。柔らかい感触。指先に力を込めると、ぶちゅっと体液が噴き出した。視神経の付いたままの眼球。男の叫び声。赤が垂れる白い球体。目の無い男が血の涙を流しながらこちらを見ている。
ああ、楽しい。何もかもが可笑しかった。取り出した眼球の虹彩に、愉悦に歪んだ私の顔が映っていた。
「うあぁぁーー!!」
片足を失った男が、足を引きずりながら扉から飛び出してゆく。あら、逃げるの?次は鬼ごっこ? うふふ、いいわよ、付き合ってあげる。
止まラない 衝動
止まラなイ 怒り
止マラなイ 憎しみ
人として形を成さない無数の肉片が転がる床に立ち、私は数を数えた。いーち、にぃー、さぁーん、しぃー。天窓から差し込む満月の黄色い光が、真っ赤に染まった私の身体を照らしていた。
「逃ぃガさァなぁイよォ。うふふふ、アハハハハ!!」
次の獲物を狩るために、私はトンと床を蹴る。逃がさない、逃がサない、逃ガサない、逃ガサなイ、逃ガサナイ。アマンダとの平穏を壊した男たち。誰一人として逃がさない。殺してやる。ぐちゃぐちゃに。めちゃめちゃに。死よりも辛い痛みを奴等に。目に映る全ての命を引き裂いてやる。
ーー皆殺し。頭の先から足の先まで怒り一色に染まっていたその時の私は他の事は何一つ考えられなかった。獲物以外、目に入っていなかった。
だから、想像もしなかった。
考えもしなかった。
見もしなかった。
アマンダが、今、『どんな状態か』だなんてーー。
*
「違ウ…オレは殺しテなイ…殺しナんカ、いナイ…」
違う違う違う。私はやっていない。アマンダを殺してなんかいない。そんなはずあるわけないじゃないか。痛い、痛い、痛い。頭が痛くてこれ以上考えたくなかった。寒くもないのに全身がガタガタと震え出し、視界がチカチカと点滅した。
あやふやな記憶。今はもう、断片的にしか思い出すことが出来ない、満月の夜の出来事。撃たれたアマンダを見て暴走した私と、原型もわからない程ぐちゃぐちゃになった男たち。おびただしい量の肉片。そして、消え去ったアマンダ。あの夜からどんなにどんなにどんなに探しているにも関わらず見つけることの出来ない彼女。
ジョンと初めて会った時に聞いたアマンダの肉声と、毎月渡される写真。そして、時折胸に感じる彼女の強く熱い感情。それだけが、私がアマンダが生きていると信じ続ける拠り所だった。客観的に見ればそれがどんなに不確かなものか子供でも分かるというのに、私はアマンダの写真が遠方から撮られているものばかりであることだとか、アマンダに一度も会わせてもらっていないことだとか、そんな諸々のことを追求することを一度たりともしなかった。いや、考えることさえしていなかった。
『あの肉片の中にアマンダがいないって、どうして言い切れるんだ?』
声が聞こえる。私の頭の中で。記憶を消し去りながらも心のどこかでずっと燻り続けていたその疑問。その疑問を真っ赤に血塗られた私が唇を吊り上げながら口にする。
「違う違ウ違う、そんナはずアルわけナい……」
お洒落とは程遠いボロボロの衣服を着て、今にも崩れそうな廃墟での寝泊まりをし、生き長らえるだけの粗末な食事を口にしながら、憎くて堪らない男からの命令に狗のように従い続けたこの五年間。それは屈辱の日々だった。
しかし、望みさえすれば私はいつだってそんな生活から抜け出すことが出来た。違和感の正体にきちんと向き合い、全てを受け入れ、自分の中で折り合いをつけさえすれば、私はいつだって昔のように平穏な日常に戻ることが出来たのだ。
それにもかかわらず、「愛する人を殺してしまったかもしれない」という恐怖はまるで鍋底の焦げのように私の心にこびり付き、私から正常な判断を奪い続けた。不都合な記憶に蓋をして、全てを忘れてしまっても、私は常に言いようのない焦燥感に襲われていた。何かをしなくてはーー。何か……何かをーーーー。
私を駆り立てる正体不明の焦燥感に、何かをしていなければ、呼吸をすることもままならなかった。そして私は、目の前にちらつかされた微かな希望にすがりつき、全てのものから目を反らし、言われるままに仕事をこなす日々を選んだのだった。
「…違ウ…オレじゃ、ナい…違う…私、ハ…やっテ、なイ…」
強く優しく何よりも美しいアマンダ。彼女は私の女神。私の救い。私の希望。私の光。彼女の為ならこの命を失っても惜しくない。何よりも大切に思い、心の全てを捧げてきた私の全て。その彼女を、私は、私ハ、わタしハ、ワタしハ、ワタシハーー。
「違ウ……違ウ、違う違ウ違う!私じャナい!!オ前ダ!!!お前なンダ!!!」
私が彼女を殺すはずがない。そんなことあるはずない。あるはずないんだ。こいつが、こイつが、こイツが、こイツガ、コイツガーー。ソウ、コいツが悪いンダ。
認められない現実は私の思考を停止させ、凝りついた妄執を助長させた。私はおもむろに持っていた鋲をロドリゲスの左胸に突き刺した。
「いぎゃゃぁぁぁ!!」
「アハッ、肺に穴ガ空いチゃっタなァ……。デモ、オ前が悪いンだゼ?嘘を吐くカラ!」
「カハッ…く、ハァ…嘘……じゃ、な…い……」
「嘘だ!!!嘘ダ嘘ダ!!!!嘘、…嘘嘘……嘘嘘嘘嘘嘘嘘ダ!!!!」
ロドリゲスの頭を掴んでソファの木枠に殴りつける。ブチブチと何本もの髪の毛が千切れるのも気に止めず、私はロドリゲスの頭を打ち付け続けた。
「ハァ……ハァ……息が漏レて苦しソウだなァ?あァ?」
ロドリゲスが息をするたびに先ほど開けた穴からヒューヒューと空気が漏れている。満足に息が吸えずに顔を歪めるロドリゲスに笑いかけると、私はその穴に指を突っ込んだ。
「ぐぁっ!!」
指をグリグリと回転させて奥に奥にと指を進めると、ロドリゲスが面白いほどに悲鳴を上げた。
「アハッ、アハハ!!…嘘ツキにハお仕置キだ!!」
そう言うと私はロドリゲスの上に馬乗りになって、イルミから貰った鋲を振り下ろした。刺し込むたびにロドリゲスが面白いほどに声を上げる。太股、二の腕、脇腹、肩。致命傷にならない部分に何度も何度も針を突き立てる。イルミの針は細く、長さも10cm程度しかないため急所を狙えば一撃で致命傷となるが、逆に言えば急所さえ狙わなければいつまでも相手を生かしておくことができた。意識を失うことさえも出来ない。
「サァ、正直ニ言え」
腕を降り下ろすと、ぶしゅり、と血が飛んだ。
「アマンダはドコダ」
金切り声が聞こえ、赤黒い血が顔にべちゃり、と付いた。それでも私ははまた腕を振り上げた。まるでその動きしか知らない人形のように。
皮膚が裂け、筋肉が千切れ、骨が顔を出したとしても、その動きは止まらなかった。カチコチと、壁に掛けた古時計が静かに時を刻む。ぐちゃ、べちゃ、と血肉をかき混ぜる粘りつく音だけが空間を満たし、時間ともに濃くなる血の匂いが私の狂気を加速させた。
「…アァ、ソウダ…忘レテタ…」
動きを止めて小さく呟くと、私は緩慢な動きでペットボトルの蓋を開けた。これなら、嘘がつけない。私は水にオーラを込めると念を発動させた。
【操られたマリオネット(ディレクションウォーター)】
【ターゲット:ナルシッソ=ロドリゲス】
【ディレクション:私の問いに嘘偽りなく答える】
念を込めた水をロドリゲスがむせるのも構わずに、無理矢理飲ませる。
「ゴホッ……ゴホッ……」
「サァ、質問ダ…アマンダハ、ドコニ居ル」
「…し、知ら…ない…」
「…アマンダヲ拐ッタノハ、オ前ダロ?」
「ち……違、う……」
「ア、レ?…念ガ…効カ…ナイ…オカ…シイ……コンナ、ハズジャ……アマンダ…何処ニ、居ルンダ…」
「どこにも、居ない。あの女は死んで、いる…」
「嘘ダ!!」
「嘘、じゃ……ない……」
「嘘ダ嘘ダ嘘ダ!!!」
私は再び水に念を込めた。アマンダは生きている。生きているんだ。こいつが本当のことを言うまで何度でも何度でも繰り返してやる。私は水をロドリゲスの口に流し込んだ。壁に掛かった古時計が、ボーンと静かに悲しい音を響かせた。
[ 14.襲撃 3/4 ]
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