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エベレッジ・ハーバーの倉庫群から大通りに向かう途中の薄暗い小道で、私は一人の男を見つけた。取引をしていた三人の男の中の一人だった。数メートル先に車がある。あの車で帰るつもりだろう。私は加速して後ろから男の襟首を掴むと、倉庫の壁に叩きつけた。男からあの匂いはしなかった。


「残り二人の素性を教えろ」


襟首をギュッと締め上げ問いかける。酸欠で見開かれた男の瞳に私の血走った顔が映り込んでいた。「グッ……はっ……」まともな返答をしない男の腹に、膝を打ち付ける。ボキッと骨の折れる鈍い音が暗闇に響き、男が口から血を吐いた。


「二人の素性を教えろ」


男の口を片手で塞ぎながら、空いた片手で男の腕を握り潰す。くぐもった悲鳴を無視して、男の頭をそのまま倉庫の壁に叩きつけた。

「言え」
「グッ……は……、トル、ティッタファミリー……のカルロス=ド……」
「知っている」
トルティッタファミリーのシンボルマークは指輪だ。私は男の頭を今一度壁に叩きつけた。
「もう一人の方だ」
「……くっ……ぁ……」
「早く言え」
もう一度男の頭を叩きつける。ミキッと頭蓋骨のくぼむ音がした。
「……び、ビター……ラッドファミ、リー……」
「本拠地は?」
「……ぁ……た、タナトン……」

私は男を放り捨て、大通りに向かって走り出した。ぐしゃりと倒れこんだ男はもうくぐもった呻き声の一つ発していなかった。


「危ねえな!このガキ!!」


通りに飛び出した私に怒鳴り声を上げる男を運転席から引き摺り出して、私はアクセルを思い切り踏んだ。ギュルギュルギュルと音を立てて発進する車の後ろで、男が「泥棒!!」と叫んでいる気がしたが、全く気にはならなかった。タナトンまで飛ばせば車で一時間だ。私は携帯を取り出した。


「タナトンのビターラッドファミリーの本拠地の住所を送ってくれ、大至急だ」


私の使っている情報屋のレベルはさほど高くない。しかし、詳しい情報があれば話は別だ。


「はぁ!? そんな事言うんじゃねぇよ!!大至急だ、特急料金は払う。120万?構わない、前金で払う。30分以内にしろ!!」


普段、高くても三十万程度の仕事しか依頼をしない私からその言葉が出たからだろうか、電話の向こうで情報屋が息を飲んだのが分かった。百万越えの仕事なんか普段なら絶対しないのだがアマンダの居場所が分かるなら別だ。


「今から送金する。いいか、30分以内に送らなかったらお前をぶっ殺すからな!!」


私は速度の遅い車を右に左に避けながら、携帯を操作して情報屋の口座に120万を送金した。途中、すれ違う車と接触してドアミラーが吹き飛んで行ったが、そんな事はどうでも良かった。やっと、やっと、やっと、やっと、アマンダを助けることが出来る。それだけが頭の中を占めていた。


一時間後、私はビターラッドファミリーの屋敷から一キロと離れていない場所にいた。タナトンは港町だ。乗ってきた車は人気のない港で海に沈めてきた。車内にあった車検証や車のナンバープレート、その他足がつきそうなものは、他の場所に捨ておいた。

情報屋から入手した住所にあった屋敷は、想像していたより小さかった。小さいと言っても、他のマフィアの屋敷と比べたらの話だ。一般の家屋と比べたらそれこそ豪邸と呼ぶのに相応しいほど大きく、周囲には有刺鉄線付きの塀がぐるりとあり、明らかに銃を装備していると思える厳つい男たちが周辺の警戒に当たっていた。

あの中にアマンダがーー。

ジョンから手渡された写真の中に写っていたアマンダの姿が頭に浮かぶ。豪華でありながらもどこか温度味のない家具に囲まれる中で、アマンダは私に手渡されることが分かっているのだろうか無理して作った笑顔をカメラに向けていた。その手首には"凝"をしないと見えない念の手枷がついている。アマンダは念が使えるとは言え普通の人間だ、手枷の念を振り払い屈強なマフィアの人間を倒して逃げ出すほどの力はない。


早く、早く、早くーー。


今もあの屋敷のどこかで彼女が幽閉されているかと思うと、腸が煮えくり返りそうだった。私は一歩一歩と屋敷に向かって近付いていった。焼け付くような痛みはまだ治まっていないかった。相変わらず視界はぐにゃぐにゃと歪み、屋敷までの距離が近付いているのか遠ざかっているのかさえ、私には分からなかった。

風が吹き抜ける。甘い甘い匂いが鼻を突き、胃液がぐっと込み上げる。一個人が着けている香水の匂いがこんなところまで来るはずがないのに、屋敷に近づけば近づくほど匂いが強まっている気がした。


「おぇ……ぐぇ……」


コンクリート壁に手を付きながら私は吐いた。手を付いている壁がドクンドクンと脈打っている気がする。ここにはあの黒いもやなんかあるはずがないのに、ここはあの場所じゃないのに。視界の隅で、屋敷を警備している人間がこちらに向かっているのが見えた。フラフラ近づきながら嘔吐しているだなんて不審人物以外何者でもない。


「そこのガキ、何をしている」


甘い匂いが鼻を突く。抑え込んでいるオーラが今にも暴れ出しそうだった。「何でもねぇ。さ……酒をしこたま飲んだ、だけだ……」どうにかそれだけを答え、私は壁伝いに道を戻った。後ろから「チッ、酔っ払いか。紛らわしいやつだぜ」と言っているのが聞こえた。

あと少し。あんな目と鼻の先にアマンダがいるのに、何もできない自分が恨めしかった。早く助け出したいのに。早くあんな場所から解放してあげたいのに。アマンダ、アマンダ、アマンダ、アマンダ……



誰か助けてーーーー


私は朦朧とする意識の中で、携帯電話を取り出した。








プルルルルル……


携帯電話の呼び出し音が、ゆったりと空を飛ぶ飛行船のプライベートルームの一角で鳴り響く。男は読んでいた雑誌をパタリと閉じて携帯電話の側に歩み寄った。画面に表示されていたのは登録されていない番号だった。男は自身の赤い髪を撫でた後、携帯電話にそっと手を伸ばした。


「ちょっとヒソカ、人の電話出ないでよ。」


シャワールームから顔を出したイルミがヒソカにピシャリと言う。


「手の塞がっているキミの代わりに出てあげようと思って◆」
「余計なお世話。それ、オレの仕事用の電話だよ?ヒソカに出られたらオレのイメージが悪くなるじゃん。」
「なかなか酷いことをさらりと言うね、キミは♣」

腰にバスローブを巻いたままの姿でシャワールームから出てきたイルミは、ヒソカの言葉を無視して携帯電話を手に取った。画面に表示される番号にイルミは心当たりはなかった。しかし、この番号を知っている人間は多くはない。


「……もしもし?」
『…………』
「………もしもし?」
『…………』


反応がない。間違い電話だろうか。そう思いイルミが電源ボタンを押そうとした瞬間、今にも泣き出しそうなミズキのか細い声が電話の向こうから聞こえた。


『……けて』
「ん?なに?」
『イルミ……助けて』


ミズキのこんな弱々しい声を聞くのは初めてだった。イルミはヒソカにチラリと視線を送った後、おもむろに部屋から廊下に出た。

「どうしたの?」
『……殺、したい奴が、いる…のに……殺せない。動け、ない……ぐっ…オレに、は…無理……だ』
「何があったの?」
『…アマンダ、が……見つかって、皆殺し……。匂い、が気持ち悪いから…動け、ない、だから……依頼』
ミズキの話は要領を得なかったが、しかし、自分に暗殺の依頼をしていることだろうことだけはわかった。
「依頼?暗殺の?」
『そう……オレもやるから…助けて。アイツラ、殺したい、んだ。あの組織は……許さ、ない』
「組織?マフィアンコミュニティを一つ潰したいの?」
『そう……だ。金は、ねぇけ……ど、一生かけて払う、から…だから……』


悲痛な声だった。普段の様子からは想像できないほど弱々しい今にも消え入りそうなミズキの声。何があったのかイルミには分からなかったが、こんな声で自分にすがり付くほどに追い詰められたミズキを頭に思い描くだけで、携帯を握りしめる手に自然と力が入った。


「いいよ、いらない。」
『……え?』
「お金は要らないって言ったの。その依頼、タダで引き受けてあげる。」
『ほ、ホント……か?』
「うん。ミズキだけ特別。でも、一回だけだよ?」
『あり、がとう……イルミ』
「で、ターゲットはどんな奴?いつやればいいの?」
『ターゲットは、ビターラッド…ファミリー。今すぐ、にだ……。出来るだけ早く……早くタナトンに来てくれ。このままじゃ、オレ……おかしく、なっちまう……』
「大丈夫?ねえ、ミズキ、本当に何があったの?」
『ぐっ…大丈夫、じゃねぇ、かも……。場所は携帯を逆探知して、くれ……』
「わかった。タナトンならここから三時間くらいで行ける。」
『悪い、な……待って、る……ぜ……』

その言葉を最後にミズキからの反応はなくなった。イルミは携帯の電源ボタンをピッと押すと、廊下から部屋に戻った。


「何かあったのかい?」


シャワールームに戻って服を着始めたイルミが声の方向に目を向けると、ソファに座って雑誌を読んでいたはずのヒソカが入り口に持たれかけるようにして立っていた。


「仕事が入った。」
「本当かい?」
「うん。だから、ヒソカをプルゥースト公国まで送っていく約束はなしね。その辺で降ろすから後は飛行船をチャーターして自分で向かって。」
「友達より仕事を取るのかい?」
「当たり前でしょ。」

冷たく言い放つイルミに、ヒソカは大げさに肩をすくめた。イルミはそんなヒソカを無視して内線電話を取ると、「行き先変更。この辺の飛行船ポートにヒソカを置いた後、タナトンに向かって。」と告げた。

操舵室に向かって指示をするそんなイルミの背中を、ヒソカは雑誌を広げながらもじっと見つめていた。






『悪い、な……待って、る……ぜ……』


最後の気力を振り絞ってイルミにそう言った後、私の意識はプツリと切れた。深い深い闇へと堕ちていく。その中で、私は夢を見た。遥か昔の懐かしい夢をーー。


「あらあらどうしたの?」


優しい声が聞こえる。霧散していた意識がだんだんと集まり、ぼやけていた視界が定まってゆく。クリアになった視界の先のいたのは、慈愛に満ちた優しい笑顔を向ける彼女の姿だった。彼女は私を抱きかかえ、おでこにそっとキスを落とす。彼女のウェーブのかかった長い髪が私の頬をくすぐった。アマンダさんーー。声を出そうとしたけれど、私の口はピクリとも動かなかった。


「オシメかしら?ミルクかしら?」


あの異様な空間から出た先で、私はアマンダさんの赤ちゃんとなっていた。あんなに帰りたいとーー、それこそ呪うほどに願ったのに。この手を血で染めてまだ帰りたかったのに。私は未だにこの世界にいた。

絶望。それは一寸の光もない絶望だった。あの世界で狂気に蝕まれながらも生きてこれたのは、いつかは元の世界に戻れると信じていたからだった。それなのにその希望は幻でしかなく、私の心は、右も左も分からない、自分の姿さえ分からない深海よりもさらに深い闇の中で、粉々に砕け散った。もう、何も感じなかった。


「ミズキ、泣かないで。私はいつもあなたの側にいるわ、愛してる」


名前を呼ばれて初めて私は自分が泣いていることに気づいた。もう何も感じないのに私の体は意思とは裏腹に生きていて、食べ物を求めては泣き、排泄をしては泣いていた。私はただの生きる屍だった。

笑い方を忘れてしまった。楽しいという感情を忘れてしまった。嬉しいという感情も忘れてしまった。悲しいという感情も忘れてしまった。

残ったのは、怒り、憎しみ、苦しみ。果てしない絶望感と虚無感がどろどろぐちゃぐちゃとまとわりついて、まるでヘドロでできた黒い沼の底にいるようだった。もう、全てがどうでもよかった。


それでも、アマンダさんは私に笑顔を向ける。慈愛に満ちた優しい笑みを。「愛してるわ、ミズキ」と囁きながら。何年も何年も、季節が巡って満開だった桜がその葉を落とし枝に雪を積もらせても、アマンダさんは変わらず私に溢れるほどの愛を注いでくれた。


そんなある日の事だった、私はあの香りを嗅いだのだったーー





[ 13.夢と現の交錯点 5/6 ]


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