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私の頭を撫でるイルミの、ゆっくりとしながらも確かな手の動きが心地よかった。一撫でごとに、胸にあったつかえが溶けていくよう。くしゃくしゃになった前髪の隙間から、月の光が差し込んでいた。

月を見る度に私は彼女を想う。生まれてから別れるまでの十年と少し、彼女はまるで月の光のように暖かな愛情を私に注いでくれた。所属していた組織から逃亡している彼女の生活は決して裕福とは言えず、むしろ迫りくる影に怯える日々は彼女を心身共に蝕んでいたはずなのに、彼女の私に向ける笑顔はいつも愛に溢れていた。


「ミズキ、大好きよ」


彼女は、昼と夜と問わず私にその言葉を贈ってくれた。けれど、その時の私は、自分の中に渦巻く今にも決壊しそうなオーラと感情を抑え込むのに精一杯で、彼女の言葉に何一つ反応することが出来なかった。


笑い方を忘れてしまった。
楽しいという感情を忘れてしまった。
嬉しいという感情も忘れてしまった。
悲しいという感情も忘れてしまった。

残ったのは、怒り、憎しみ、苦しみ。
そして、絶望感と果てしない虚無感。
どろどろでぐちゃぐちゃでまとわりつく。
まるでヘドロでできた黒い沼の底にいるよう。


ーーもう、何も感じなかった。


人としてあるべき感情が全て抜け落ちてしまった私。周りの出来事が薄い膜で隔てられた別世界の出来事にしか思えず、視界は常に白く霞がかかり、聞こえる音にはノイズが混じり、物を触っても手袋を何重にもつけているような鈍い感覚でしか感じることが出来なかった。

今になって思う。これは一種の防衛反応だったのだと。自分の中に渦巻く、怒り・憎しみ・苦しみの感情に心が壊れないよう、そして、莫大なオーラに身体が潰れてしまわないよう、生命維持機能以外の機能をあらかじめ鈍化させていたのだと思う。

後になって聞いた話だけど、アマンダの血族の間ではしばしば『白い子供』と呼ばれる、言葉を掛けても何も反応しないまるで生きた人形のような子供が生まれていたらしい。アマンダの『吸い尽くす生命力(バキュームオーラ)』は、彼女の一族の間で婚礼の心構えとして母から娘へと人知れず伝わっていた「房中術」が元となっているらしく、これは、男女が互いを慈しみながら肌を重ねる時間を楽しむというスローセックスにヨガや太極拳のような呼吸法を組み入れたようなものだった。

深く愛し合えば合うほど互いの身体を往き来するオーラの量は多くなり、そして、女性の子宮に溜まるオーラも多くなってゆく。生まれた子供は生まれながらにして通常より多いオーラを体内に有し、その結果、オーラが身体に馴染むまで生命維持機能以外の機能を制限するーーー『白い子供』となった。

『白い子供』は忌み嫌われる存在ではなくむしろ喜ばしい存在だった。人一倍オーラが多いために生まれてしばらくは生きた人形のような状態になってしまうが、それさえ過ぎれば心身共に強く元気な子として育つ仲睦まじい夫婦の間に生まれた幸せな子供ーーそれが『白い子供』だった。

しかし、幸か不幸かアマンダは「房中術」を元にして『吸い尽くす生命力(バキュームオーラ)』の念を創り上げ、そして、自分を救ってくれた「グランパ」のために、数多くの男と寝て余りあるオーラを吸い続けてしまった。桁外れのオーラ量。普通なら、人一倍多いオーラを持って生まれてきたとしても『白い子供』の『白い期間』は一年か長くても二年程度で終わるはずだった。

私が生まれながらに持っていたオーラの量は通常の何倍ーーいや、何十倍も多く、私の『白い子供』としての『白い期間』も桁違いに長かったーー。そう、十年間。正確に言うなら生まれてから九年と七ヶ月、私はずっと白い子供として居続けたのだった。


十年もの間、彼女は言葉も反応も返さない人形のような子供を前にして、どんな事を思ったのだろうか?


彼女の真意は分からない。だけど、浮き沈みする意識の中、目を開けた時に一番最初に視界に入り込むのはいつもアマンダの慈しみに満ちた笑顔で、「ミズキ……大好きよ」と、そう言われる度に私の中の凍てついた心が溶けていく気がした。



怒りに溢れていた私に微笑んでくれたのは、貴方だった。
憎しみにまみれていた私を包み込んでくれたのは、貴方だった。
苦しみに喘いでいた私を抱き締めてくれたのは、貴方だった。
絶望にうちひしがれていた私を愛してくれたのは、貴方だった。

貴方がいたから私は壊れなかった。
貴方がいたから私は希望がもてた。
貴方がいたから私は生きてこれた。


貴方は私の唯一の光


始めはただの憧れだった。夢の中で見る美しい女性。どこにでもいる大学生だった私は、彼女の美しさ、機転の早さ、そして、何者にも屈せず決して諦めない彼女の強さにーー、憧れるようになっていた。その憧れはあのネジで頭をキリキリと締め上げられてゆくような凄惨な空間の中で、次第に熱く深く掛け替えのないものへと変容していった。

それはこの世界に生まれてからも褪せることはなく、むしろ、物言わぬ人形のような私に食べ物を与え髪をとかし服を着せ微笑みながら語りかける彼女を見る度に想いは募ってゆき、今では彼女は私の中で神を超越した何よりも尊い存在となっていた。

彼女は私の光で、私の希望で、私の救いーー。胸を占めるこの想いをどんな言葉で表現したらいいか、未だに私は分からない。「好き」なんて言葉では表せない、「愛している」なんて言葉でも表せない。

この世の何よりも尊い存在。自分の胸から脈打つ心臓を抜き出し彼女に捧げても構わないくらい深く熱く、私は彼女に心を囚われていた。彼女を取り戻せるのなら……彼女がもう一度笑ってくれるのなら……、そのためなら私の命なんか惜しくはなかった。


「イルミ……オレ、そろそろ行くわ」


そう言って顔を上げると、イルミが私の頭から手をそっとどけた。頭頂部にイルミの熱がじんわりと残っている。あれほど心を乱していた地面が沈んでゆくような不安感は、いつのまにかなくなっていた。


「もう、いいの?」
「あぁ。カッコ悪いところ見せて悪かったな」
「別に、これくらい。」
そう言ってイルミも立ち上がった。
「ん?お前も行くのか?」
「うん。ミズキも泣き止んだところだし。知り合いを通り道のプルゥースト公国まで送っていく約束になっているから。」
「ちょ、ちょっと、イルミ?お前なんて言った?……言っとくけど。オレ、泣いてないからな?」
「え?泣いてたじゃん。」
「泣いてねぇって!!ほら、オレの顔見てみろよ!!涙を流した跡なんてないだろ!?」
「泣いてたじゃん。」
「泣いてねぇーって!!涙の一滴も流してねぇーよっ!!」
「……はいはい。」


涙を流していないことを強調してみたけれど、イルミに軽く流されてしまった。イルミは一度こうと思ったことは決して変えない男だった。私も頑固者だけど、イルミも相当な頑固者だ。


「はぁ……。ま、いっか。それよりもイルミ、今度からはちゃんと連絡入れろよ?こんな異国の地でも会うとなると、さすがにストーキングされている気分になるぜ?」
「え?でも、通り道にミズキがいたから……」
「あーあーあー!本っ当にお前んところの執事たちは優秀だな!アレからオレ携帯のセキュリティー強化したんだぜ?簡単に追跡出来ない仕様にしたってのに……。ったく、しょうがねぇな」

私はポケットから取り出した紙切れに数字をさらさらと書き込んだ。携帯の番号だ。


「はい!コレ、オレの番号。知っていると思うけど。ちゃんと『オレ』から『お前』に直接教えたからな?今度からはちゃんと掛けてこいよ?」
「うん。」
「じゃ、お前の番号も教えろ。前はアドレスしか知らなかったからな」


今更なやり取りだけど、こういった儀式をちゃんとしないとイルミはこれからずっとストーキング行為を続けそうな気がする。しかも、自覚なしに。

別にイルミに知られて困るようなやましい事はしていないけど、「近くを通りがかった」なんて理由で仕事の最中に突然来られたらそれこそ大問題だ。私はイルミの目の前で、イルミから聞いた番号を携帯を登録していった。


「じゃな!」
「じゃ。」


それから二、三言葉を交わした後、私とイルミは手をお互いに軽く上げあって別れた。月はもう空高く上がっており、ビルの下の生活音は随分と静かになっていた。表を歩けない裏社会の人間が動き出す時間の始まりだ。私は、今宵の目的地であるエベレッジ・ハーバーに足を向けた。この後に起こる血みどろの出来事が嘘のように、この時の月は私の行く先を明るく照らしていた。




[ 13.夢と現の交錯点 3/6 ]


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