63




風が吹き抜ける。地上より風が数段強く吹き付けるビルの屋上で、私は忙しなくはためく髪や服を気にもかけず、ただ遥か足元にある人々の生活の様子を、屋上の縁に腰掛けながらぼーっと見下ろしていた。重なり合う看板のライトの下を何台もの車のヘッドライトが通り過ぎ、豆粒のような人間が道沿いの歩道の中で右に左へと動いている。この世界で生きている人々の生活の光だ。


「……またお前か」


背後の風がふと揺らめくのを感じ、私は振り返りもせずにそう言った。その言葉に誰もいなかった空間から一人の男が姿を現す。


「……よくわかったね。」
男がぼそりという。
「こんなところに来るのはお前しかいねぇだろ、イルミ。……ったく、事前に連絡しろっていつも言ってんのに」
私は大袈裟に肩をすくめ、立ち上がった。
「あ。オレがそっちに行くからいいよ。」
そう言うとイルミはフェンスに手を掛けふわりと飛んだ。


「落っこちんなよ」トンっと軽やかな足音を立てて着地したイルミに向かってそう言うと、「誰に向かって言ってるの?」と言わんばかりにイルミが目を細めた。ハハッ、相変わらず自信満々な男だ。


「ここ、風が気持ちいいね。」


私の横にちょこんと座りそう言った黒目がちなイルミの瞳に、眼下の街明かりが映り込んでいる。ビルの壁を伝って地面から吹き上げる風が、隣に座るイルミの髪を揺らしていた。

「あぁ……」


私はただ一言だけ言葉を返すと、そのままビルの下に視線を戻した。人々は私の目の下で相も変わらず好き勝手に動いている。気を張る必要も取り繕う必要もないイルミの隣は正直心地良く、私は口を開くことなくずっと下を眺め続けていた。


「今日、オレの誕生日なんだ……」


雲間に見え隠れする月が綺麗なせいだろうか、それともこのイルミ=ゾルディックに心を許しているせいなのだろうか、私は普段は決して言わない自分のことを自然と口にしていた。


「あ、そうなの?」
興味のなさそうな平坦な声が返ってくる。その無関心さが嬉しかった。
「うん、そう……。今日はオレが『この世界』に『生まれ出でて』から15回目の誕生日なんだ」
「ふーん、おめでと。」


それ以上会話をする気がないのか、イルミはそう無感情に答えると口を閉じた。雲間から顔を出した月が、私をそっと見下ろしている。月は好きだ。人を殺そうと誰かから盗みをしようと変わらずに私を照らし続けてくれるから。私はまるで彼女のように慈悲深いその光を、言葉を発することなく全身で受け止めていた。


「アマ、ンダ……」


この世界に私が生まれ出でてから15年ーー。目を閉じれば昨日のことのように思い出せるのに、あの黒いもやの立ち込める異様な空間から抜け出してからもうそんなに月日が経っていることが、私には信じられなかった。

今でも私は夢を見る。正気と狂気の狭間で狂いそうになりながらひたすら歩き続ける夢を。今この瞬間だって手が赤く濡れている気がしてならない。私は手に視線を落とし爪の間に肉片が挟まっていないことを確認してから、ふぅーと大きく息を吐いた。

生まれる前に経験した壮絶な殺し合いは、本当に現実の出来事だったのだろうか?

私は今でも分からなかった。あそこで三百人近い人間が殺し合ったことを証明する術はなく、誰かに「それは夢だよ」と言われれば私は反論することが出来なかった。鼻に付く血生臭さも、鼓膜を震わせた断末魔も、喉をえづく嘔吐感も、手に残る骨を断つ感触も、こんなにもリアルに感じられるのにーー。

時折、何が現実で何が夢なのか分からなくなる。もしかしたらこの世界は私が作り上げた夢の中の世界で、私はまだ長い長い夢を見ているだけなのかもしれない。そう思うことがある。

本当の私は学校の教室や部屋のベットで馬鹿みたいに眠りこけていて、目を覚ました私は「あー、変な夢見た……。怖かったなぁ」と夢の感想を一言だけ言って、あとは日常の生活にーー、血とは無縁の穏やかで暖かい平和な日常に戻るのだ。

ああ、何て都合のいい話だろうか。私は月を仰ぎ見ながら首を大きく左右に降った。夢想。これは夢想なのだ。私はこの想像が叶わない事を知っている。何度も何度も何度も何度もそれこそ呪うほどに何度も願ったのだ、叶う願いならもうとっくの昔に叶っている。

それに、目が覚めた時はあれほど鮮明に覚えていた過去の記憶も、月日が経つごとにどんどん薄れていき、今ではもうあんなに仲良かった友達の顔も私に溢れるほどの愛を注いでくれた両親の顔も、朧げにしか思い出すことが出来なかった。

向こうの出来事が夢で、今のこの世界が現実。そう考えた方が辻褄が合う。私は「物心つく前に見て覚えていたドラマや映画の世界を思い描く内に、それがいつしか現実のものだと思い込むようになった」、そんな憐れな人間なのだ。殺しも盗みもなにもない平和で穏やかなあの世界も、三百人近い人間が殺し合いをしたあの悲惨な出来事も、全てが全て私が心の中で創り上げた妄想に過ぎないのだ。

ーーそう考えれば、全てに説明がつく。それなのに、そうは思えない自分がいた。そう、あの世界はあまりにもリアル過ぎたのだ。

『何が現実で何が夢なのか分からない』どこぞの精神病者が口走りそうな内容だったが、私は何が現実で何が夢なのか、本当に分からなかった。


以前ライスに「なんでミズキはそんな危ないことばっかりするの?怖くないの?」と尋ねられたことがあった。私はその言葉に驚いた。私に危ないことをしている自覚はなかったからだ。

思い返せば向こうの世界で生きていた頃には考えられなかったような無茶を数え切れないほどしている気がする。でも、自分が自分でないような現実感のなさが常にあるせいで、薄汚れた格好をしていようと風の吹き込む粗末なベットで寝ていようと銃を突きつけられようと全身が傷だらけになろうと、自分のことなのにまるで映画でも見ているような感覚にしか感じることができず、私はその無茶が無茶だと認識することができなかったのだった。

この世がこの世と思えない感覚。それは生まれてからずっと私を蝕んでいるものだった。自分の記憶も、自分の感覚も、自分の存在さえ信頼できない偽りだらけのこの世界。この世界に信頼できるものなど何一つもなかった。


いや、違う。一つだけあった。確かだと言えるものが、たった一つだけあった。それはこの胸に感じる感情ーー、アマンダさんを大切に思う私の気持ち。彼女を助けたいと思うこの熱く燃え上がるような激しい感情。それだけは確かにここに存在していた。

彼女は私の光。
彼女は私の救い。
彼女は私の希望。

偽りだらけの世界で出会ったたった一つの真実。彼女と交わした約束、誓った想い、願った未来。それだけが私の生きる意味。


「貴方を護るために私は闘いましょう」
「貴方を護るために私は嘘をつきましょう」
「貴方を護るために私は己を偽りましょう」


身を焦がすほどの熱い想い。それが私が生きる全て。例えこの世界が偽物だったとしてもこの想いだけは本物だ。アマンダさん、アマンダさん、アマンダさ……ん、アマンダさ……、アマンダ、アマンダ、アマンダ、アマンダ、アマンダ………。私は天を仰ぎながら彼女の名前を呟いた。何度も何度も何度も何度もーー。


「そういえばミズキって15歳だったんだね、初めて知った。」


イルミのそんな言葉で私の意識は現実に引き戻された。ふと横を見ると、イルミが猫みたいな瞳でこちらをじっと見ている。


「あ、あぁ……言ってなかったか?」
「うん、初めて聞いた。それに……」
「それに?」
「もっと下だと思ってた。」
「くっそ、悪かったな、背ぇ低くてよ!!」
「はは、ホント低いよねミズキは。年下のキルと同じくらいじゃん。」
「ったく、ちっとはフォローしろよ。これでも気にしてんだから……って、キルって誰?」
「ん?キルはオレの弟だよ。」
「お前に弟か……なんか意外だな」
「あれ、言ってなかった?オレが長男で、下にあと四人いる。」
「五人兄弟なのか?子沢山だなゾルディック……」
「五人兄弟って珍しいの?」
「んー、まぁ、珍しいほうだな。オレは一人っ子だし。それよりも他の兄弟ってどんな感じだ?みんなお前みたいな感じなのか?」
「うーん、どうだろ?母さん似、父さん似ってのはあるけど。」
「お前はどっち似なんだ?」
「母さん似だね。オレの下のミルキはオレと同じで母さん似。その下の跡取りのキルアは父さん似。アルカ、カルトは母さん似だね。」
「イルミ……ミルキ、キルア、アルカに……カルト?」
「うん。」
「ぶっは!なんだよそれ、続いてんのかよ!?」
「続いてる?」
「いやいやいや、いいんだ、こっちの話……ぶはっ」


天下のゾルディック家の子供の名前がしりとりになっているだなんて、ここ最近で一番のネタだ。突然笑い出した私をイルミは首を傾げながら見ているけれど、面白いものは面白い。声を上げて笑うと、先ほどまでの陰鬱な気持ちが一気に吹き飛んでいくようだった。


「あーー、笑った笑った。こんな笑ったの久々だぜ」


目尻に浮かんだ涙を拭いながらそう言うと、こちらを黒目がちな瞳で見つめるイルミと目があった。いつもと変わらない能面のような顔。しかし、その瞳の奥には間違いなく優しい色合いが映っていた。


「なんでミズキがそんなに笑っているのかよく分からないけど。……元気になったみたいで良かった。」
「……イルミ」


「すまねぇ、心配かけちまって……」そう言いたかったのに、久々に感じた誰かからの純粋な優しさに、胸が詰まって言葉が上手く出てこなかった。イルミ……イルミ……。

お前はここに実在してるよな?オレが創り出した虚構の存在なんかじゃないよな?な?

そう言いたくなる心を抑えて、私は膝を抱えた。イルミはそんな私の頭にそっと手を置き、髪に触れるか触れないかのギリギリの距離で私の頭をそろそろと撫でた。イルミのーー、伝説とさえ言われる孤高の暗殺者の優しい優しい温もり。その温もりに、人を慰め慣れていないたどたどしいその手つきに、胸に熱いものが込み上げた。ありがとう、ありがとう……イルミ。


目頭が熱くなる。だけど涙は流さない。彼とのーークロロとの別れを決めた時に私は誓ったのだ。弱い自分とは決別しようと、もう涙は流さないとーー、そう誓ったのだ。私は唇をキュッと噛みしめて、天を仰ぎ見た。月が眩しかった。


でも……だけど……だけれどもーー。

彼のこの手を振り払わずにいてもいいですか?今しばらく……今しばらくだけでいいので、このまま彼の優しさに甘えてもいいですか?……ほんの五分、ほんの五分だけだから。アマンダ。貴方から逃げることも、貴方を忘れることも、貴方を諦めることも、もうしないからーー。だから、お願い……今だけは、今だけはーー、このままで、このままで……………。


喧騒が遠ざかる。イルミのたどたどしい温もりを感じながら、私はぐっと手に力を込めた。心を吹き曝していくように思えた冷たいビル風は、いつのまにか穏やかなものになっていた。はるか上空では月が笑っていた。


[ 13.夢と現の交錯点 2/6 ]


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