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夏の日の出は早い。

いつものようにライスと会ったミズキが、牛乳瓶に念をかけ終わって帰る頃にはすっかり太陽が顔を出し、照りつけられたアスファルトからかげろうがもうもうと立ち上っていた。

「よっし……」

大通りから一本入ったとこにある、日干しレンガで作られた壁に辿り着いたミズキは、その壁の隣に立ち唇を吊り上げた。日干しレンガで作られたこの黄土色の壁は、街の開発から取り残された古い街並みの一部で、大通り近くにあるにも関わらず半分朽ちかけていた。崩れた壁のそこかしこに、ガムの包み紙やちり紙、タバコの吸い殻が押し込まれている。その中の、特に紙ゴミが押し込めれている一角に立つと、ミズキは押し込まれた紙を一枚一枚取り出していった。

「しけてんな……5枚だけかよ」


手に取った紙くずは五枚。どれも黒いボールペンで文字が殴り書きしてあった。ミズキはこのような紙をこの二年半で既に300枚ほど入手しており、この紙には『ある男』の情報が書き込まれているのだった。


「なになに……。『なんで、あいつばかりが昇進、するん……だ。売り上げは俺の方が高い……のに。絶対……裏で何か工作、しているに決まってる……そうでなければ、俺の方が給料が低い理由がつかない……』だぁ?また、つまらない事を書きやがって。もっといい情報書けっつーの!」


苛立たしげにそう吐き捨てると、ミズキは手にした紙をくしゃっと握りつぶし、別の紙を読み始めた。


「『あいつの上への媚びへつらいには……反吐が出る。外面がいいだけのハリボテ野郎が。空出張ばかりしている最低人間のくせに、あんなヤツがニュースティ支社の渉外部次長だなんて信じられない……。地位へ執着する姿はさながら宝に執着するハンターのようだ……』か。ったく。相変わらず、嫉妬深い奴だぜ……はぁ。そんなに執着しているなら独自にあいつの裏を探るくらいしてみろっつーの……」


ミズキはため息を尽いて目元を手で覆った。この紙は、ある男ーージョンの情報が書き込まれているものだった。ジョンの勤めている会社内には、順当に昇進しているジョンを目の敵にしている人間が多く、不平不満を抱えている彼らはほんのちょっとの暗示ーー例えば、毎朝飲む牛乳に掛けられた弱い暗示ーーにでも簡単に掛かり、このようにジョンや仕事に関する情報を「愚痴を吐き出す」と言った形で外部に漏らすのだった。

彼らに外部に情報を漏らしている自覚はない。ただ、不平不満が溜まった時に日記に愚痴を吐き出すように紙に愚痴を書き込み、それを通勤途中の汚い壁の隙間に、ガムを捨てるように押し込むという習慣が出来ているだけだった。ーーミズキの念のせいで。


「あーあ、ろくな情報なかったな。毎朝毎朝苦労して念を掛けているっつーのに、労力に対しての成果が割りに合わないぜ。……でも、金を掛けずに内部の情報を知るとなるとこういう地道な方法しかねぇし。それともあれか?明日からジョンへの憎しみが増すような念にするべきか?……いや、ダメだ。下手売ってこいつらが左遷でもされたら情報源が無くなるし、そもそもこっちの願いはジョンの失脚じゃねーし……」


ジョンの裏にある組織に辿り着けるような有益な情報は今回もなく、ミズキはぶちぶちと不満を漏らした。もしかしたらこの念を掛ける方法自体が悪いのかもしれない。そう思いつつも金もない・時間もない今の状況で、これ以外の有効な手段は思いつかなかった。


「定期的に変わる社員パスと社員のスケジュールを手に入れるだけでも、結構な金を払ってるもんなぁ……。あーぁ、私にハッキング技術があればもっと奥深いところまで入り込めるのに……なんて。ハッキングなんて出来っこないのに。つーか、その前に情報屋を雇う金を貯めろって話だな……はぁ……」


愚痴を言い出したら切りが無い。ミズキはキュッと口を結ぶと顔を上げた。とりあえず今回は少なくとも「ジョンが空出張をしているかもしれない」という情報が得られた。盗み出した記録簿を見る限りジョンは複数のアポイントメント先と真面目に商談をしていて空出張をしているようには思えなかったが、記録上の文言なんかどうにでもなる。これは一度出張記録を洗い直すべきだなとミズキが自分の自由になる空きスケジュールを頭に思い浮かべた。その時だった。ミズキの視界の隅に見覚えのある人物の姿が映り込んだ。

ミズキの目が驚愕で限界まで見開かれる。腰近くまであるサラサラの黒髪、パンクテイストと表現するには無理のある鋲の刺さっている服、そして、猫のような黒目がちの瞳。間違いなくイルミ=ゾルディックだった。


ーーなんであいつがここにいる!?逆探知出来ないように携帯のセキュリティーは強化したはずだぞ!?


突然の出来事にミズキの心臓がバクバクと音を立てる。ホームから遠く離れた「ガストゥーヤ」のような街なら問題ないが、ジョンやその他の関係者がうろついているようなこの街で「ゾルディック」と顔を合わせるのはまずい。非常にまずい。ミズキは、右手を上げて「や。」と言いいかけているイルミから即座に顔を反らし、手に取った紙をポケットに強引に捻じ込むと競歩のようなスピードで歩き出した。


「……オ、オレは気づいていねぇぞ?イルミになんて気づいていねぇ……」


そう呟きながら、ミズキは全速力で"歩く"。イルミ専用の「外部サポートスタッフ」になると言った手前、イルミの姿を見て逃げ出すのは体裁が悪い。気づかなかった振りをするのが一番いいだろう。ミズキはそう考えたのだった。

真面目な顔をして、駅に向かう人々の群れに逆らって超高速で歩くミズキ。至極真面目な表情を貫く顔と、その顔つきからは想像できないくらいシャカシャカと忙しなく動く手足。もはや駆け足と言っても問題無いくらいの速さで"歩く"ミズキに、すれ違った人々は不審な目を向けていた。


「……オレは気づいていねぇ……イルミになんて気づいていねぇ……」


周囲から奇異の目を向けられながらも、ミズキは最高速歩行を続ける。普通、駅前で知り合いなんかを見かけた時、相手が凄く忙しそうにしていたなら声をかけずにそのままにしておくものだ。イルミも"超忙しそう"な自分を見たのだから、そのまま声を掛けるのを諦めて自分の用事に戻って行ったはずだろう。そう思いスピードを緩めたミズキが感じたのは、迫り来る一つの気配だった。足音は全く聞こえてこなかったが、それが一つの可能性を示していた。


ーーま、まさか……


振り返ったミズキが見たのは、同じように"超高速"で歩いてくるイルミの姿。顔はいつもの無表情のままなのに、手足だけがシャカシャカと動いている。瞬きを一切しない猫目の瞳がその異様さをさらに際立たせていた。


ーーう、うぎゃぁぁぁぁ


ミズキは心の中で悲鳴を上げ、最高速歩行を再開させた。石畳の歩道の上を、無表情の顔のまま走るよう"歩く"二人。あまりの速度に通り過ぎた人たち衣服を一陣の風が巻き上がる。すれ違った人々は一様に何があったのかと目を白黒さていた。


「はぁ……はぁ……はぁ……。おい、イルミ!なんで追いかけてくるんだよ!!」


街の外れまで来たところで痺れを切らしたミズキは、後ろを追って来ていたイルミに苛立たしげに声を掛けた。


「え?だってミズキが逃げるから。」
「オ、オレは逃げてねぇ!!」
「……逃げてたじゃん。」
「逃げてねぇって!!これは……その……アレだ、トイレに行こうと急いでただけだ!!」
「トイレ?」
「そうだ、ションベンだ。たまったま、トイレに行こうと急いでた時にお前が来ただけだ。オレは断じて逃げてねぇ」
「ふーん、そ。じゃあそこですれば?見ないであげるから。」
「…………え?」
「ミズキはオレから逃げてたわけじゃなくて、トイレに行きたくて急いでたんでしょ?だったらそこですれば?もう街外れまで来たんだし。誰も見てないよ?」


イルミが顎で指した先にあったのは、粗末な農具小屋だった。レンガで出来たついたてと数本の低木に囲まれており、少し中に入れば局部を見られずに用が足せるようなーーそう『男』なら問題がないはずの場所だった。


「え?ここで、オレにしろ……と?」


イルミはコクンと頷いた。そんな無理をーー。そう言いかけてミズキは言葉を飲み込んだ。今の自分は男なのだ。ミズキの戸籍上の性別もミズキが装いたい性別も「男」であったが、ミズキの肉体は間違いなく「女」であり、イルミの目の前で無いものを取り出して立ちションすることは物理的に不可能だった。


「た、立ちションは、犯罪なんだぞ!?軽犯罪法違反にもなるし、近くに井戸があった場合汚いもんが流れ込んで飲めなくなっちまうし、公衆の面前で行った場合には『公然わいせつ』にもなるんだぞ!?」


『立ちション』が出来ない理由をペラペラ喋り出したミズキを、イルミは眉一つ動かさずにじっと見つめている。そして、ミズキの長々とした説明が終わるとイルミは冷めた瞳のままその口をそっと開いた。


「御託はいいよ。するの?しないの?」
「…………」
「オレさぁ、嘘つかれるの、嫌いなんだよね。」


イルミの寒々としたオーラに、ミズキの背中に冷たいものが流れる。怒っている。間違いなく怒っている。イルミの表情はいつもと全く変わっていなかったが、その声には苛立ちが過分に含まれていた。


「も、申し訳ありませんでしたっっっ!!!!」


恥も外聞も関係ない。ミズキはその場で地面に頭がめり込む勢いで土下座をしたのだった。




[ 12.水辺の争奪戦 2/5 ]


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