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もう全てが嫌だった。目に映る全てが嫌だった。この手に残る感触も、ぐちゃりと粘つく足音も、鼻に纏わり付く臭いも、なにもかもが嫌だった。





12.水辺の争奪戦





誰のものと分からない血液が身体に顔にも髪にもべっとりついていて、身体を動かすとたびに乾いてパリパリになった血液がポロポロと地面に落ちていく。爪の間に挟まった赤黒い肉片が妙に気になったけれど、私にはもうそれを取り除く気力も余力も何もなかった。

ペタペタペタ……足音だけが響いてる。ペタペタペタ……止まることなくいつまでも。お気に入りだったピンクの靴は、とうの昔に脱ぎ捨てた。剥き出しになった私の足は、見るも無残に汚れている。闇が私を取り囲み、もっと…もっと…と責め立てる。狂気と正気のこの連鎖、いつになったら終わるのかーー。答えは問えども分からない。ペタペタペタ……足跡だけが続いている。真っ赤な真っ赤な足跡がーーーー


「あ……あ……、まただ……また……私が……」


私の足元にあったのは、まだ新しい血の海。まだ温かい。凝固した血液で赤黒くなっていた私の手が、鮮血でまた朱に染まっていた。ガクリと膝から崩れ落ちた私は、人型のまま血の海に横たわる服まで這い寄って「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」と懺悔の言葉を繰り返した。


ーーソんナこと、言うナヨ、楽しカッタだろ?


どこかから声が聞こえる。
嘘だ、嘘だ、そんなわけがない。そんなはずがない。楽しいわけないじゃないか。断末魔の叫びに、辺りに充満する生臭い匂いに、死してなお私を見続ける目玉。朧げながらも断片的に覚えているこれらが私をさいなみ苦しめる。こんなの。もう嫌だ、もうたくさんだ、こんなの。もうやめてくれ……。胸の前で両手を組み、どこにいるとも分からない神や仏に願いを告げる。全身全霊の願いーーそれを何度も繰り返しただろうか。でも、どんな願っても目の前の現実が変わらることはなかった。


暗い暗い闇がどこまでも続いている。歩いても、歩いても……出口は見つからない。辺りを取り巻く闇が忍び寄り、私を浸食する。コロセ…コロセ…と追い立てながらーー。気が狂いそうだ。気が狂いそうだ。気が狂いそうだ。気が狂いそうだ……。誰カ、タスケテーー。


もうどれくらいの時間、この空間をさ迷い歩いているのだろうか。一日なのか、一週間なのか、はたまた一年なのか……、もう分からない。どれくらいの人を殺したのかもーー私はもう、分からなかった。

私の中にある黒いもやがどくりと跳ねる。人を殺すたびに私の中に入り込み、頭蓋骨をハンマーでかち割るような耐え難い痛みと、胸を掻き毟りたくなるほどの殺戮衝動を与えてきたそれらは、今や私の身体の中に居座って私のオーラの一部となっていた。

今、この体の中には何人分のオーラがあるのだろうか。五人分?十人分?二十人分?……分からない。だけど確かに今の私の身体の中には、クルスと修行を始めた頃の私とは比べ物にならないくらいのオーラが眠っていた。


「あ……う……ぐっ……」


足を引きずりながら前へ進む。闇が私を取り囲んで、もっと…もっと…と責め立ててくる。人殺しの快感をーー、暴力の絶対的支配の快感を私に教え込む。嫌だ嫌だ誰か、タスケテ……。出口なんて知らない。どこに行ったらいいのかも分からない。だけど、一歩でも足を止めたら、自分が自分で無くなりそうで、私は足を止めることが出来なかった。


ーーもウ、諦めチマえヨ。コッチにおいデ……


私の中の悪魔が囁く。黒いオーラが増えるに従って強くなる誘惑の声に、今にも堕ちてしまいそうになる。だって、あのゴミどもの恐怖に引きつった顔。絶対的強者による支配の快感、無惨に蹂躙していく時のあの爽快感。誰も私に逆らえない。

『自分の身を守れない弱者』はゴミも同然。行き着く先は『死』しかない。クルスも言っていたじゃないか『自分の身は自分で守れ、さもなければ弱い奴から死んでいくーー』って。あいつらは『弱い奴』で、私は『強い者』。だから、何をされても、何をしたってーー殺したって……


「違ウ、違う……私ハ、望んでいナい、殺しナんテ、嫌なんだ!」


違う違う違う。私は殺しなんてしたくない。誰も殺したくない。もう嫌なんだ。本当に嫌なんだ。ただ私はここから出たいだけ、元の世界に……私の世界に帰りたいだけ、それだけなんだ。


「帰りタい……私ノ世界に……帰リたイ……。デモ、帰るニハ、最後の一人に……帰りタい……最後の一人に……、殺さナきゃ、最後の一人に……殺さないと、殺さナいと………殺さナイと…私ガ殺サレル…殺セ……殺セ、殺セ!!!アハハハハハ!!!!」


私の口から、思ってもいない言葉が次々と発される。もう、ダメだ。少しでも意識を緩めると完全に持ってかれる。闇に落ちる……誰カ、タスケテーーーー


「アマンダさ、ん……アマンダさん、アマンダさ……アマンダアマンダアマンダ……」


私は彼女の名前を繰り返し何度も何度も繰り返した。この異様な出来事が起こってからも、アマンダさんの熱くて優しい感情は時折私の体に届いていて、天から降り注ぐ福音のような、彼女の優しくて、暖かくて、蕩けるように甘い声は、極限を生きる私の唯一の救いだった。


『愛してるわ……』
『大丈夫、怖いことなんて一つもないのよ』
『安心して眠りなさい』
『大丈夫。私が守ってあげるから、心配しないで』
『愛してる……愛してる……貴方の事が大好きよ』


相手を大切に思うアマンダさんの気持ちが、相手の身を案じる想いが、心からの愛がーー、私を闇から救った。私に向けた感情じゃないかもしれない。恋人に向けた思いを私が勝手に受信しているだけなのかもしれない。それでも……それでも、彼女の声が聞こえるたびに私は正気を取り戻し、前に進むことが出来たのだった。

貴方の声は私の救い。貴方の声は私の光。貴方の声は私の希望ーー。私は必死に彼女の声にすがり付いていた。少しでも気を抜くと私は私ではなくなる、それはピンと張り詰めた糸のようだった。ほんの少しでも力を加えれば糸はたちどころに切れ、この世から「私」という存在が消え去って血に飢えた「獣」が生まれるのだ。私は、擦り切れそうな意識の中でただひたすらに彼女の名前を唱え続けた。


「アマンダさ、ん……アマンダさん、アマンダさ……アマンダアマンダアマンダ……」


それからどれくらいの時が経っただろうか。彼女の名前を唱え続けてもなお続く正気と狂気の意識の狭間で、私は遥か彼方に光を見つけた。豆粒のように小さな小さな頼りない光、しかしそれは私が探し求めていた出口に違いなかった。ああ、やっとーー。やっと帰れる。その思いだけが精も根も尽き果てた私の最後の原動力だった。

私は歩いた、出口を求めて。私は歩いた、自由を求めて。私は歩いた、阻むもの全てを超えて……。この時の私はあの出口を抜ければ元の世界に戻れるのだと、あの出口に辿り着けば全てが終わるのだとーー、そう疑いもなく信じていた。それがただの幻想に過ぎないことをこの時の私はまだ知らない。アカに染まった手がまた赤く紅く朱く濡れる。それでも私は歩き続けた、「元の世界の戻れる」と信じながら。


[ 12.水辺の争奪戦 1/5 ]


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