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匂いと記憶には密接な関わりがあると言われている。人が鼻から吸い込んだ臭気分子は、味覚や触覚と異なる経路を通って脳に伝達される。他の経路を通ることなく直接感情を司る器官である大脳辺縁系に伝達される嗅覚情報は、他のどの感覚より飛び抜けて記憶・感情と関わりが深いと言われており、プルースト現象ーー特定の“匂い”によってそれにまつわる記憶が呼び覚まされる現象、それが今まさにミズキの身に起きていた。


「あ……グッ……ぃや……」


鐘を打ち鳴らすような響く痛みが頭を襲ってまともに立っていられない。視界がぐにゃぐにゃと揺れていて、どちらが前でどちらが後ろか分からなくなってくる。甘い匂いーー。明かりの消えた部屋。天窓から差し込む黄色い月明かり。倒れ伏す女性。床に広がるウェーブのかかった黒い髪。そして、どんどんと広がってゆく真っ赤な血。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……私がわがままを言ったから……私が貴方を困らせたから……。記憶の奥底に沈めたはずの、あの満月の日の光景がチカチカとフラッシュバックする。記憶の混濁。むせ返る血の匂い。男達の足音。引き金を引く音。血の匂いと甘い匂いが混ざり合いーー。目の奥がチカチカして意識が朦朧とする。気づけばミズキは叫んでいた。



ーーもウ、殺シたくナい


狂気と正気の狭間でそう叫んだのはいつのことだっただろうか。つい最近のようでもあるし、何十年も昔のことのようでもある。記憶は記憶を呼び覚まし、ミズキを混沌の渦へと引きずりこんだ。何が現実で何が夢か分からない、そんな混沌へとーー。


脈動を打つ生暖かい壁。暗く延々と続く洞窟のような空間。ミズキを取り込もうと周囲に漂う黒いもや。そして、一面の赤、紅、朱、あか、アカ……。血の匂いが充満する死の世界。ココはミズキが『狂ってしまった』場所ーー、ミズキがミズキで無くなった場所であった。


『殺セ…コロセ……いや、殺したくナい……こ、コ、ころ、い、嫌……コ、こロ…コロセェェェェ!!!』


身体に入り込んだ黒いもやが暴れ出し、残っていた理性が握り潰される。焦点の失われた瞳、半笑いをする釣り上がった唇。血肉と悲鳴を愛する狂気が身体を支配し、血に濡れた手がまた血に濡れるのだ。


「いや……やだ、ダメ……だめ……アマ…ダ、アマンダアマンダ……助けて……」


両肩を抱きしめながら突然「アマンダ」と呟き出したミズキに、イルミはどうしたらいいのか分からないといった顔で、顎に手を当てながら右に左にと歩いていた。一般人と同じように垂れ流しになっていたミズキのオーラが、今やどす黒く膨れ上がり、まるで触手を伸ばすように辺りに広がっている。異様だ。いくらなんでもこれは異様すぎる。イルミは慌ててミズキに声を掛けた。


「ミズキ……?…ミズキ、ミズキ……!!」


何度声を掛けてもミズキは虚ろな瞳をしたまま反応を返さない。このままではミズキが危険だ。イルミは躊躇なくミズキの頬を引っ叩いた。バシンと乾いた音が何度も鳴り響き、しばらくしてようやくミズキの目に光が戻り出した。

「……あ、イ……イル、ミ?」
「ミズキ、どうしたの?」
「あ……ぐ………オーラが……オーラが……、制御でき、ねぇ……、このままじゃ……このままじゃ……周りに……」


その言葉だけでイルミは全てを理解した。喋っている間も、震えるミズキの身体から禍々しいオーラが漏れ続けている。念能力者ではない人間にとってオーラは危険極まりないもので、それに触れたが最後、精孔がこじ開けられてしまいオーラを放出し尽くして死ぬのだった。いくら暗くなってきたとは言えここは公園。犬の散歩をしている人やデート途中のカップルがまだそこかしこにいた。ミズキのオーラ量をイルミは知らなかったが、このままミズキのオーラが放出され続けたら、それに当てられる人間は間違いなく出てくるだろう。


「どうして欲しい?」
「イ……イルミ……お願いだ……。オレを……オレを、誰もいないところに……」


イルミの服を掴みながらミズキは、涙の滲んだ瞳で願いを言う。それを聞いたイルミはこくんと頷くと、ミズキを抱き上げてタンと地面を蹴ったのだった。






ぴちゃん、と蛇口から漏れた水が小さな音を立てる。骨太の鉄骨と剥き出しのコンクリート壁がそこかしこにある建築中のビルの一角に、二人はいた。落下物防止のために設置された灰色のシートの隙間から月明かり入り込み、二人の横顔を暗闇の中で浮かび上がらせていた。



「はぁ……はぁ……ん、……ぐっ」



血の出るほど強く手首を握りながらミズキは、部屋の隅にうずくまって必死にオーラの調整をしていた。ミズキを中心に這い出る黒く禍々しいオーラが、アメーバーのように触手を伸ばしながらうねうねと動いている。ミズキの額から何筋もの脂汗がたらりと垂れた。


「もう、大丈夫だ……」


しばらくしてそう言うと、ミズキは細く長く息を吐き、壁にもたれかかった。汗で前髪がべったりと額についていたが、どうやら危険な状態は山場を過ぎたようで、ミズキのオーラはいつもと同じ状態に戻っていた。


「ねぇ。どういうこと?」


低く無感情な声が上から聞こえ鈍重に顔を上げると、イルミの黒い双眸がじっとミズキを見下ろしていた。無機質な瞳。その黒い瞳の奥には明らかにミズキに対する苛立ちーーいや、疑惑の感情のようなものが含まれていた。

隣に座っていた人間が突然おかしな状況になったら誰でも戸惑うものだろう。言うべきか否かミズキは一瞬逡巡するも、周りに被害の及ばないこの場所に連れてきてくれたのは間違いなくイルミなのだ、感謝こそすれ隠し立てする必要はないだろうと、ミズキはその口をゆっくりと開いた。


「……匂いのせいなんだ」
「匂い?」
「オレ、生まれた時から……そうだな、この仕事をする五年くらい前までの十年間、ずっと追われる生活をしてたんだ……。どこのどいつが追ってきているのか、なんで追ってきているのか……。幼かったオレは教えて貰えなくて、それは今でも分からねぇ」
「……」
「ただ一つ、分かっているのは奴らがお揃いの香水を付けているってことだけ。イルミ、お前が気づいたかどうか分からねぇが。さっきの公園ですれ違ったカップル。そのカップルの男が付けていた甘く鼻にまとわりつくあの匂い……あの匂いに近い匂いを奴らはいつも漂わせていたんだ……」


目を閉じてもミズキはその匂いを鮮明に思い出すことが出来た。それは、彼女を辿る唯一の手がかり。決して忘れてはいけない。


「小さかったオレは、最初、何でこんなに頻繁に引越しをするのかちっとも分からなかった。でも、あの匂いがするたびに確かにオレらは住む場所を変えていて……。それが何回か繰り返された頃にはもう分かっていた。あの匂いを漂わせている奴らがオレらを『追っているやつら』なんだってーー」


イルミはミズキの話をじっと聞いている。その瞳が語りかける、「それで?」と。ミズキはその視線に無言で頷くと、言葉を続けた。


「その匂いを最後に嗅いだのは、五年前……オレが探している人が消えたのと同じ時で。オレはその日、『危ないから外にでちゃダメだよ』って言われていたにも関わらず、外に出てしまったんだ」


満月の綺麗な夜だった。街灯がなくても道がわかるほど明るいその夜、ミズキは彼女が『綺麗ね……』と呟いていた白百合をどうしても彼女に見せたくて、約束を破って外に行ってしまったのだった。白百合を手に家に戻ったミズキが嗅いだ匂いは、甘く鼻につくあの匂いーー、そして、むせるような血の匂いだった。


「……その夜のことは、よく覚えていねぇ。思い出せないんだ。さっき、匂いを嗅いだ時、何かを思い出しそうになったんだが……やっぱり、よく思い出せない」
「……」
「ただ、分かっているのは、あの夜何かがあってーーそして、彼女の姿が消えたってことだけ。たぶん、その匂いの奴らが彼女を連れ去ったんだと思うんだけど……証拠は……証拠は、何もねぇんだ……」


ミズキは小さくなって頭を抱えた。ジョンがあの匂いを漂わせているのならーーあの組織の一員なのならば話は早いのだが、いくら背後を探ってもジョンの後ろからそのような組織を見つけることは出来なかった。夏の夜風とは思えない冷たい風が、剥き出しとなった鉄骨を無遠慮に撫でてゆく。


「……そういうこった!さっきは突然似た匂いを嗅いでちょっとテンパっちまったんだよ、迷惑かけて悪かったなイルミ!」


話はこれでお終いだと言わんばかりに、ミズキは空元気な声を出して立ち上がった。しかし、イルミはまだ何か言いたげな瞳でミズキを見たまま、微動だにしなかった。


「話は分かった。で、それはどういうこと?」


イルミの指差す先にはミズキがいた。振り返ったミズキとイルミの視線が静かに交差する。匂い以外のことでの心当たりは、一つしかない。ミズキは唇をキュッと噛み締めた。ぴちゃん、という蛇口から漏れた水音が二人の間を通り抜ける。


「……オレのこのオーラは生まれつきだ」


それだけ言い放つとミズキはくるりと背を向けて歩き出した。距離の出来た二人の間を、どこかの蛇口から漏れたぴちゃんという水音が、静かに通り過ぎていった。




[ 11.ひとときの語らい 5/6 ]


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