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切り立った岩肌の上にひっそりと鎮座する森の一角で、一人の男が樹齢200年はあるかと思われる大樹の枝に座りながら喉をくつくつと鳴らしていた。


「クックック、何か嫌なことでもあったのかな?」


トランプの束を右から左へと器用に移動させながら見つめるヒソカの視線の先には、湖に浸かりながら一心不乱に念の鍛錬をするミズキの姿があった。ミズキはオーラを込めたトラック一台分はある大量の水を、二等分、四等分、八等分、十六等分と段々と細かくし、そして、最終的には数え切れないほど無数に出来上がったそれらを向こう岸の木に向けてドパパパパパと発射させていた。全ての発射が終わると今度は水をジェット噴射のように射出させ、それを鞭のようにして操る鍛錬に移行する。


「頑張るネェ、ミズキ。でも、そんなにオーラを使うと……ホラ◆」


ヒソカがトランプ片手に呟いた後、ヒソカの予想通りミズキの纏うオーラが変容していった。黒く禍々しいそのオーラ、それはヒソカが一月ほど前にこの場所で見たオーラと全く同じだった。タイミングが当たったのが嬉しいのか、ヒソカは木の上でさらに喉を鳴らす。


「ぐっ……クッ……はっ、アハ!アハハハハハ!!!!」


ミズキが突然弾けたように笑い出した。ミズキの瞳から光が消え、その口元が醜く歪み出す。焦点の合わない瞳で虚空をにらみ続けるミズキの顔からは、怒りと憎しみと苦しみが混じり合ったなんとも言えない感情が見て取れた。以前同じような状況に遭遇した時、ミズキはヒソカに「酷い破壊衝動と殺戮衝動に襲われて…訳がわからなくなっちまうんだ…」と言っていたが、今もおそらくその状況に陥っているのだろう。


「アハハハ、ブっ壊しテやるヨ、何モカも!!!」


ミズキは周りに浮いていた水弾を砲弾くらいに大きさに統合し、それを遠くにそびえる大木に向かって飛ばし出した。禍々しいオーラを纏いながら飛んでいくそれは威力も破壊力も先ほどまでとは段違いで、10秒と立たずに大木はミシミシと音を立てて倒れてゆく。


「アハハハハハ!!ほラ、もット、モット!!!」


大量のオーラを消費しながら、多量の水をまるで空を翔ける龍のように動かし始めたミズキを見て、ヒソカは「ん〜、もうそろそろかな♠」と淡々と呟いた。その言葉から数秒も経たないうちにミズキは一切の動きを止めてしまった。その様子はまるでゼンマイの切れた人形のよう。表情も一変し、凶悪な笑みは消え去って代わりに能面のような感情の無い顔がそこにはあった。


「ククク……」


破壊音の消えた中で、ヒソカの笑い声が静かに響く。ヒソカの視線の先のミズキは、能面のような顔のままカクカクとロボットのように体を動かして岸に向かっている。ミズキは水辺に置いてあった丸太を戸惑いもなく掴むと、それをブンブン頭上で振り回しその勢いのまま自分の顔面にぶつけたのだった。鈍い音と共にミズキの体が吹き飛ぶ。地面にぶつかって二、三度ゴムまりのように跳ねた後、ミズキはそのままピクリとも動かなくなった。


「これで3回目◆」


投げつけられたトランプがストッと音を立てて幹に突き刺さる。長い間見ていたのだろう、幹には何枚ものトランプが刺さっていた。「自分を罰っするように傷つけて……ボクのいない間に何があったのかな♣」ヒソカは倒れ伏すミズキを見ながら何枚目かになるトランプを飛ばしたのだった。


「くそっ……また喰われたか……」


しばらくしてミズキは額に手を当てながら起き上がった。その顔は青紫に腫れ上がり、鼻からは鼻血が出ている。「ハッ、いつまで経っても慣れね−な……」とミズキは自嘲するように力なく笑った。

クロロとの一件があった日から、ミズキはずっと自分の操作できるオーラ量を増やす鍛錬に没頭していた。『ディレクションウォーター』で「意識が消えかけたら自分を殴って気絶させる」よう自身に念をかけ、この自虐的とも言える行為を繰り返していたのだった。


「たく、痛ってぇ−なぁ……」


呟きながらミズキは身体の至る所を触る。服をぺろりとめくると、その腹部には青紫の打撲跡が幾つもあり、まくった腕は赤く腫れ上がっていた。目に見えない疲弊もあるだろうに、ミズキは疲れきった顔で背中を丸めて息を吐くだけで、息を吐き終わって顔を上げた頃合いには、ミズキの瞳には強い意思の炎が戻っていた。決心したからにはもうぶれない、そんな決意が伝わってくるようだった。


「やだなぁ、ちょっと見ない間にこんなに成長しちゃって。……興奮しちゃうじゃないか♣」


ミズキは肩で風を切りながら再び湖に向かって歩いていく。腰にくくりつけたペットボトル水ををゴクリと飲むミズキの手首で、はめられた真鍮色の腕輪が太陽の光を浴びてキラリと光っていた。







鈍い音が響き渡る。これで何回目だろうか。ヒソカの的となっていた樹の幹には、その時間を表すように数え切れないほどのトランプが刺さっていた。いくらなんでも多すぎる、とヒソカは眉をひそめた。はっきり言ってミズキのこの訓練は無謀以外のなにものでもない。始めは飄々としていたヒソカの顔が次第に苛立ちを含んだものへと変貌していく。

自分が限界だと思うギリギリまで心身を追い詰めることは悪い手法ではない。どんな分野のどんな技術であれ、負荷の強いトレーニングはその技術を向上させるために必要不可欠である。しかしそれは適切な休息が大前提となっているのだ。無茶と無謀を履き違えたトレーニングは身体を疲弊させるだけで何の実にならないことをヒソカは経験上知っていた。まるで果実がその実りに色付けることなく萎れていくようなミズキのそれに、ヒソカの苛立ちは募る一方だった。


適切なトレーニングをしさえすれば、美味しく熟れるというのにーー。


再び湖にフラフラと向かい始めたミズキ目にし、ヒソカは座っていた大木の枝からふっと姿を消したのだった。


「あっ……」


水辺の石につまずきよろめいたミズキを、がっしりとした筋肉質な腕が抱きかかえる。突如訪れた浮遊感にミズキが顔を上げると、そこには冷たい顔をしたヒソカがいた。

「ハッ、なんだよ変態ピエロかよ。いったい何の用だ?オレは忙しいんだ……」


今にも倒れこみそうな満身創痍な身体でありながらも、ミズキは何でもないといった様子でヒソカに言う。そんなミズキをヒソカは温度のない瞳で見て静かに口を開く。


「忙しいって、何がだい?この馬鹿げたトレーニングのことかい?」
それは侮蔑の混じった声だった。
「はぁ?馬鹿げたって何のことだよ!?もしかしてこのトレーニングのことか!?」
逆毛を立てる猫のようにミズキが言い返す。
「それ以外の何があるって言うんだい?」
「ヒソカてめぇこそ何言ってんだ。見てみろよ、これのおかげで使えるオーラ量が増えてきてんじゃねぇーか!」


どうやらミズキは目先の事しか見えていないようだった。扱えるオーラ量が一旦増えたとしてもこんなトレーニングを続けていたらいつか身体の限界が来る。疲労骨折や肉離れ程度の反動なら問題ないが、もし、靭帯切断や神経損傷といった取り返しのつかない形で反動が来たらどうするつもりなのだろうか。いくら念能力者が通常の人間より回復力が高いと言っても、それは回復見込みのあるものに限定される。天空闘技場の200階闘士がいい例だ。一度壊れて粉々になったものはどんなに修繕しても元には戻らないのだ。



「ミズキ、成長曲線って知ってるかい? 」
「はぁ?成長曲線?」
「スポーツ医学の話でね、人間の体組織はその成長速度によって四つに大別することが出来るんだ。呼吸器・消化器・心大動脈・血液、そして筋肉と骨を含む一般型、脳・脊髄・視覚器を含む神経型、睾丸・卵巣を含む生殖型、それに胸腺・リンパ節を含むリンパ系型。これらは成長するまでにかかる時間が異なっていて、それぞれの機能を成長させるための適切なトレーニングもその負荷も異なるのさ。ミズキ、知っていたかい?」
「……」
「身体能力向上の要となる筋肉にもきちんとしたメカニズムがあることを知っているかい?高負荷をかけられて傷ついた筋線維が回復するまで日数がかかることを知っているかい?」
「……小難しい話を持ち出して何が言いたい」
「ミズキ……キミには休息が足りなすぎる」
「……」
「休息をせずにトレーニングを続けると傷ついた筋線維が回復する前にさらにダメージを受け、発達どころか逆に減退するんだよ。成熟していない未熟な子どもの体組織ならなおさらだ」
「……」
「適切な休息も、回復に必要な材料としてのバランス取れた食事すらしていないキミに、満足な成長があるとは思えない。まずは、休息を……」



そう言って、ヒソカは懐から布状の何かを取り出した。ハンモックだ。満足な睡眠場所すら確保できていないミズキにプレゼントするために、持ってきたものだろう。同じ青い果実でもゴンとミズキは違った。ヒソカの補整がなくても真っ直ぐに成長し続けるゴンに対してミズキは非常に不安定で、こうやって手入れをしなくてはすぐに道を外してしまう。手のかかる青い果実。そんなミズキのためにヒソカは時折こうやって食べ物やら何やらと成長に必要なものを持ち込んでは与えていたのだった。

しかしミズキは手渡されたハンモックをバシンと叩き落とし、声を荒げる。


「うるさい、うるさいっ、うるさい!! オレには時間がないんだ、そんな悠長に休んでいる暇なんかないんだ!!」


肩で息をしながらヒソカを睨みつけるミズキの瞳には、出会った当初のような拒絶の光があった。今までのミズキだったら「お前は変態のくせに妙に物知りだな。しょうがねェ、そっちの方が良いって言うならやってやんぜ?」と生意気なことを言いながらもヒソカの助言に従っていただろう。効果的なトレーニング方法を教えた時も、戦闘のアドバイスをした時も、口ではなんだかんだ言いながら最後には受け入れていた。ここ数日の間に何があったのだろう。前にも増して頑なになっているミズキを、ヒソカは上から下までじろりと見た。


「てめぇには関係ないだろ?あっち行ってろよ……」


そう力なく言い返すミズキの手首で何かが光る。それは細かい装飾が施された真鍮色の腕輪だった。一週間前までは無かったものだ。ミズキのこの変化に関係あるのだろうか? ヒソカは息をゆっくり吐くと静かに口を開いた。


「それ……」
「ん?」
「その腕輪、キミが装飾品を身に付けるなんて珍しいね。誰かからのプレゼントかい?」


その途端、ミズキが弾かれたように顔を上げその腕輪を手で隠す。顔を背けたミズキはギュッと唇を噛みしめている。ビンゴだ。


「誰かからのプレゼントなのかい?」
冷ややかな瞳で再度問いかける。
「べ、別に……そんなんじゃねーよ。これは……そう、拾ったんだ」


相変わらずミズキは嘘が下手だった。何かを隠していることは間違い。しかもそれはおそらく以前ミズキがポロリと零した「あの人」とは別の出来事なのだろう。ヒソカは直感的にそう感じた。


「ほ、ほら、これって結構高そうだし、こういうのっていざって時のために金にすることができるじゃねーか!?どっかに隠しておいて盗まれたら元も子もねーから、仕方なく身につけてンだよ」


ならなぜ直ぐに換金しない。聞いてもいないのにペラペラと喋り出すミズキを見てヒソカはそう思ったが、それを口にはしなかった。「例のあの人」以外に関わりある人がミズキに出来たのだとしたら、それは「闘いの場」を作り上げための好材料がまた一つ増えたことになる。それなのにヒソカは、どこの馬の骨とも分からぬ輩から与えられたものがミズキの肌に触れているのが、我慢ならなかった。


「いざって時のために換金できる装飾品が欲しいなら、ボクが何かプレゼントしてあげようか?」


そう尋ねるとミズキは「別にそういうワケじゃねー……」と消え入りそうな声で言葉を返した。何かがおかしい。そう思いながらミズキをさらに観察すると、出会った頃より少し伸びた黒髪の向こうに、紅い何かが見えた。首筋に点々とある虫刺されとも打撲跡とも言えないソレは間違いなくキスマークだった。首筋に唇を寄せて吸わないことには出来ないそれらに、ヒソカの苛立ちは頂点に達した。ヒソカから発せられるオーラが格段に増す。


「ヒソカ!?」


突然ヒソカから発された禍々しいオーラに、ミズキは素っ頓狂な声を上げる。しかしさすがは念能力者、瞬間的に"纏"をしてミズキはヒソカのその禍々しいオーラに備えたのだった。反応の速さは出会った当初より上がっている。しかし、その事実がヒソカの苛立ちをさらに助長させた。オーラの扱い方も、効果的な筋肉の使い方も、より攻撃力の高い闘い方も、全てヒソカが仕込んだものだ。それなのに、ミズキはどこの誰とも知らない輩にヒソカの知らない所で身体を許している。そう、それこそキスマークを付けられるほどにーー。

その事がヒソカは我慢ならなかった。空気が張り詰め、樹に止まっていた鳥たちが一斉に飛び立つ。苛々してたまらない。ヒソカは警戒して後ずさりするミズキに、無言のままにじり寄ったのだった。





[ 10.背中越しの体温 2/5 ]


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