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私は無垢で穢れを知らない自分に、「さよなら」を告げたーー。


それは今から「人を殺す」という宣言にままならなかった。しかし私はそれを理解しながらも立ち上がった。やってやる。涙と鼻水と涎でぐちゃぐちゃの顔を拭って、私はキッと前を睨みつけた。




10.背中越しの体温




この手で誰かの息の根を止める。その事実に胸が痛まないわけではなかった。けど、私は何が何でもここから出たかった、私の世界に帰りたかった、お父さんや母さんに会いたいくて、友達に会いたくて、もうこんな場所には一秒たりとも居たくはなくて、もう頭がおかしくなりそうだった。一筋の希望。それはまるで地獄に降り立った一本の蜘蛛の糸のよう。その存在を知ってしまったらそれに手を伸ばさずにはいられない。溺れる者は藁にだってすがるのだ。大きく深呼吸をして未だに鳴り止まない心臓を落ち着ける。体中から血の気が引いてゆき、頭の中が冷たく凍っていくのが自分でも分かった。

とその時、背後でカサッと音がした。ここは"ホール"から離れていて人が滅多に来ない場所だったし、私自身自分の思考に入り込んでいたから、心底ビックリした。驚いた顔で振り向くと目に入ったのは大きな石を振り上げた20代くらいの男の人。大きな石ーー? 瞳孔の開いた虚ろな瞳が私を捉える。


「ーーいやッ!」


咄嗟に身を捻る。ドゴッと音がして、私が今までいた場所が大きく凹んだ。その様子に冷や汗がドバッと噴き出す。もし体を鍛えていなかったら、もし気付くのがあと半瞬でも遅かったら、私は確実に頭を潰されていただろう。良かった、何とか無事だった。


「チッ!」


舌打ちをする男の目は据わっていて、まるで薬物をキめている様だった。なにこれ?なにこれ!?意味分かんない!! 尻もちをついたまま目を白黒させる私に向かって、男は石を持った手でさらに殴りかかる。


「死ね!!!」


毎日毎日意識を失うまで体を鍛えていた私はそれを難なく避けることが出来た。けれど、私の頭はパニック寸前で、好きな人が被った時にクラスメイトから向けられた「悪意」や推薦入学の枠を競った時に向けられた「敵意」、そんなものとは比べものにならないくらいの格段に強烈な「殺意」にどうしたら良いのか分からず、あわあわと言葉にならない音が口から漏れる。一歩も動けなくなるほど粘っこく纏わりつくそれに、ただただ膝が震えるばかりだった。


怖い怖い怖い……殺される?……私が?なんで?
嫌だ嫌だ嫌だ……殺されたくない……嫌だ嫌だ……
殺されたくな……なら、殺す?この人を?私が?
……無理……そんなことできない、やりたくない


さっき「人を殺す」って決意したばかりなのに、ちょっと殺意を向けられただけでそれは簡単に吹き飛んでしまった。覚悟が足らなかった。全くもって足りない、足りない、足りない。口だけの薄っぺらい覚悟。



「……あ、……や……いやぁぁぁぁ―――――!!!!」



私は叫んだ。叫びながら走り出した。男の人は瞳孔の開いたままの瞳で私を追いかけてくる。半笑いのその顔には狂気さえ滲んでいた。殺される、殺される、殺される殺される……誰か……助けて……


「『自分の身は自分で守れ』、さもなければ弱い奴から死んでいくぞ。誰の手助けも期待するな、もちろん俺の手もだ。自分の力のみを信じるんだーー」


クルスの言葉が頭に響く。でも、そんなの無理だよクルス、どうしたら良いか分からない。助けて……助けてよ!!頭の中がぐじゃぐじゃだった。何をしたらいいか分からない。私は走ることしかできなかった。後ろも振り向かず。ただひたすらに。


「あっ!」


足がもつれ、声を出す余裕もなく地面に打ち付けられる。頬と掌がじんじんする。血だ。それでも男は変わらず私を追ってきている。足音が段々と近づいてくる。怖い……怖い……怖い……。逃げなくちゃ。私は立ち上がろうと咄嗟に手を伸ばした。それはもう無意識の行動だった。私は愚かだった。もっと冷静に周りを観察していれば良かったのに。この時ほど自分の愚かさを悔やむことはなかった。


「うぐあぁぁぁーーーー!!!!!」


バチバチバチッと鋭い音が鳴ると同時に、身を引き裂かれるような痛みが全身を貫く。剥き出しの神経をズダズダに切り刻むような容赦ない痛みに、身体がビクビクと海老反りになる。まるで頭蓋骨を金槌で割られているような痛みの中で薄目を開けると、手を付いた壁一帯に黒いもやがあるのが見えた。な、んで……気づかなかった……、身をもってあの危険性を味わったというのに……なんで……。どんなに後悔しても全てが後の祭りだった。


「ぐぎぃあぁぁあぁぁ!!!」


早く壁から離れなくちゃ、このもやから……。そう思うのに痛みに悶え苦しむ私の体はもう制御不能だった。痛い痛い痛い痛い。まるで生きながら全身の皮膚を刃物で剥がされていくよう。苦しい苦しい苦しい、誰か助けて、お願い……。先ほどの数倍は威力のある凄絶な痛みに、私は指先一つ動かすことが出来なかった。


痛い痛い痛い痛い、苦しい苦しい苦しい……
なんで私がこんな目に……痛い痛い痛い嫌だ嫌だ……
苦しい嫌だ憎い苦しい……なんで私が……


黒いもやが身体に流れ込めば流れ込むほどに、私の中でどす黒い感情が生まれていく。意識が朦朧とするような激しい痛みの中、溢れんばかりの怒りが、止めようの無い憎しみが、どんどん膨らんでは渦となって私を襲った。憎い憎い憎い……この空間が、この世の全てが憎い憎い憎い……。目を見開いても、唇を噛み締めても、拳を握っても溢れ出す、この怒り、この苦しみ。あぁもう耐え切れない…頭の中がドロドロでぐちゃぐちゃで、おかしくなってしまいそう……なんで私がこんな目に合わなくちゃいけないの?


痛みで霞む視界の先に、男が見えた。
私を殺そうとした、憎い憎い男。
私がこんなにも苦しい思いをしているというのに、
男は痛みとは無縁の顔でこちらを見ている。


憎い、憎いよ、あいつが……
私をこんな目に合わせたあいつがあいつがアイツが…
目の前のこの男が、憎い憎イ憎い……
あいつがイナけれバ
アイツさえいナけレば

あぁ…もう抑えきれナい…
激しイ怒りガ
憎シみが
衝動ガ





抑 エ キ レ ナ イ ーーーー






男の腕が宙を飛んだ。真っ赤な真っ赤な血しぶきを撒き散らしながら。
生温かいモノが私の頬にべちゃっとつく。鉄臭い独特のこの匂い。
まるでチョコレートみたいね。あぁ、いい香り。
支えを失った男の腕がぼとっと音を立てて地面に落ちた。

 
「ぐぎゃぁぁぁ!!!」


男に金切り声が辺り一面に響き渡る。
壁に反射して重なるそれはまるで三重奏。
いい声ね、もっと聞かせて。

一歩歩み寄ると、男は尻餅をついて後ずさりをする。
あら、どうしたの?そんな引きつった顔をして。
どうしてそんなに怯えているの?分からないわ。
あなた、さっきまで私を殺そうとしたじゃない。

私は男の頬にそっと手を添える。
まるで愛しい人に触れるように優しくそっと。
男は歯をカタカタと震わせながら怯えた瞳でこちらを見ている。
違う違う、見たいのはそんなんじゃないわ。


私は男の喉首を片手で掴み上げた。
オーラを込めた手では男の体重なんか紙みたいなもの。
指先に力を込めれば、ずぶりずぶりと首筋に爪がめり込んでいく。
人間の肉って意外と柔らかいものなのね。まるで豆腐みたい。
めり込んだ指先から、血と肉片がぶちゅっと飛び出した。


「んふふふふ」


ね、見て。あともうちょっと力を入れたら穴が空いちゃうよ?
喉に5つの穴が出来ちゃうよ。そうしたら息って出来るのかしら?
んふふふふ。ねぇ、その顔とっても素敵だわ。
恐怖に引きっつった顔、とっても素敵。
ゾクゾクしちゃう。ねぇ、もっと見せて?


指を引き抜くと、血がべちゃっと飛び散った。
解放された男は蹲って血痰をゴホゴホ吐き出している。
咳き込むたびに首に空いた穴から血が、びゅく…びゅく…と噴き出す。
どうしたの?大丈夫かしら?
咳き込む男に近づくと、男が青ざめた顔で振り返った。
唇をあわあわ震わせながら後ずさろうとしている。

だめよ、逃げちゃ。ほら、あなたの血、とっても綺麗。
赤くて紅くて朱い色。もっと見たくなるでしょう?
指先についた血を頬に擦り付けると、男がカタカタと歯を震わせた。


「あ……あ……」

四つん這いになって逃げようとする男を見て、私は右手にオーラを込めた。
逃げちゃダメ。勢い良く手刀を繰り出すと、
その手はいとも簡単に男の腰をずぶりと貫いた。温かい。
背骨を掠めて突き刺さった私の手は、柔らかい何かに突き当たる。
これはなに?内臓?腸かしら?
ずるずると引き出してみると見えたのはピンク色の細長いもの。
真っ赤な血を滴らせながら、びくんびくんと動いている。


綺麗。鼓動に合わせて動いていて、触るととっても柔らかい。
ほら、見て、あなたの腸よ。もっともっと出てくるよ?
引っ張り出した腸を男の首に襟巻きみたいに巻きつける。
浅黒い肌に、ピンクの腸、そしてお腹からどんどん広がる赤い色。
うん、とっても素敵。どんな芸能人だって真似出来ないコーディネートね。


「でも……ちょっとパンチが足りないかな?」


足りないのは、そう、白い色。
男の胸に手を突っ込んで、肋骨を探し当てる。
ぐちゅりぐちゅりとハンバーグのタネをかき混ぜたような音が立つ。
男の叫び声が私の鼓膜を震わしたけど、そんなのもうどうでもいい。
胸部をさらにまさぐると、バキッボキッと鈍い音がして白い骨が顔を出す。
それを力任せに引っ張り出して肩甲骨の上で整える。
背中から生えた白い骨はまるで天使の羽のようだった。


「アハハ、綺麗綺麗!!」


楽しい!なんて楽しいんだろう!!アハハハハハ!!
なんでさっきまで戸惑っていたのか分かんないくらい楽しいよ!
ふと視線を落とすと、男は喉を詰まらせながら喘ぐようにして息をしていた。


「お兄さん元気ないね、大丈夫?……でも、まだいけるよね?もう片方にも羽を生やしてみようよ!ねぇお兄さん!!」


その言葉に恐怖に彩られた男の瞳がさらに恐怖の色を強くする。今度は胸側から肺を突き破って肋骨を探る。すると男の口から、生き物の喉を通って発せられたとはおよそ思えない、粘っこい液体がぶくりぶくりと泡粒をたてながら暗い排水溝に吸い込まれていくときのような音が聞こえた。


「肺ってさ、確か肺胞って名前の組織が集まって出来ているって授業で習ったけど、触ってもつぶつぶなんて分からないんだね。もっとプチプチしているかと思ったのに、資料集の嘘つきだね!……ん?お兄さんどうしたの?……ほら、もっと感じて?これが肺だよ?それでこれが食道。それでこの先にあるのが胃。ぐにゅぐにゅして、温かくて……お兄さんの内臓って、突き立てのお餅みたいに気持ちいいや!アハハハハハハ!!!ねぇ、オ兄さん!ほラ、見テ!」


突き刺した手から伝う赤い血液が私の服を赤く汚し、地面に血だまりを作っている。男は随分と前から反応を返さなくなっており、私の腕を体内に飲み込んだままだらんと力なく座り込んでいた。


「お兄サん?どうシたの?……死んダの?死んジャったの?……アハハハハハハハ!!死んだ死ンだ死ンダ!!殺した殺シタ!!殺しタンだ、私ガ!!!」


男の胸から手を引き抜きくと、支えを失った男が内臓の見える胸をそのままに、どさりと力なく倒れ伏す。無様に倒れている男を見ていると、無性に笑いが込み上げて仕方がなかった。


「アハッ、アハハハハハハハハ!!!」






ーー狂気 ガ 私ヲ 支配シタ






私の狂ったような笑い声が誰もいない空間に木霊した。
いつまでも、いつまでも……、途絶えることなく響き続けた。




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