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「さようならだーー」


突然ミズキから放たれた想定外の言葉にクロロは自分の耳を疑ってしまった。ほんの十数秒前まで頬を染めながらクロロの求めるままにその身体を預けていたというのに、唇を噛み締めながら空を仰ぎ見たかと思ったら、視線を戻す頃にはミズキの顔は一変していた。険しい顔、そして、何かを決意したような力強い瞳。思わず息を飲む。しかしクロロには、その瞳の奥に悲しみや苦しみの色が隠れているように思えてならなかった。


「どう……」


どうしたんだ?と聞く暇もなくミズキに唇を塞がれる。息も詰まるような激しい口づけに、クロロはわずかばかり目を見開いた。今までこの女からこれほどまでに情熱的に求めてきたことがあっただろうか。いや、どんなに積極的に求めてきたとしてもその中には隠しきれない照れが含まれていた。どんな心境の変化なのだろうか。ミズキのキスに応えながらクロロは考える。

この間みたいに我に返って脱兎のごとく逃げてしまうのではないかとミズキが動きを止めた時は危惧すらしたが、唾液が混じり合うほどに濃厚なこのキスから判断するにどうやらそういうつもりではないらしい。ただ、一瞬何かを考えそして何かを選んだということに違いはない。妥当な線として、見られたくない所に傷があるだとか、処女であるだとか、はたまた操を立てている相手がいるだとか、そういう類の負い目を頭に思い浮かべ、そして僅かばかり悩んだ後にオレを選んだというところだろう。だが、「さようなら」とはどういう意味だろう?

腑に落ちない違和感を感じながらクロロは舌を絡める。とその時、頬に冷たい何かを感じた。雨? いや、これは涙か? 唇を離して自分の頬についたそれを手に取った瞬間、クロロは頭に強い衝撃を感じた。


「ーーっ!」


常人なら頭が吹き飛ぶほどの強い衝撃。頭に当たる瞬間に咄嗟に頭にオーラで"凝"をしてその衝撃を相殺したのだがそれでも衝撃は消しきれず、クロロはその場でたたらを踏んだ。くそ、なんだ? 脳が揺れる中、薄目を開けて攻撃の来た方を見やると、そこには重りを失ってぐらぐらと揺れているバケツがあった。攻撃を受けた頭が濡れている。これはもしやミズキの水弾か?

視線を元に戻すと、ミズキの姿が消えていた。視界の隅に、水色のドレスをはためかせながら逃げてゆくミズキの姿が映る。「くそ、逃がすか」と呟き追いかけようとクロロは足にオーラを込めた。しかし、それと同時にクロロのポケットから「pipipipiーー」と甲高い電子音が鳴る。それは、旅団のメンバーに「先に行け」と指示した後に、クロロ自身があらかじめ仕事の開始時刻と現場に駆けつけるまでの所要時間を割り出してセットした携帯のアラームだった。その音にクロロははたと足を止める。

幻影旅団を立ち上げた時からクロロは全てを覚悟していた。幻影旅団の頭としての生きる覚悟をーー。それはたった一人の女に左右される程の軽いものではなかった。クロロ自身が追い求めているだけの「ただの女」と、幻影旅団の頭としての「蜘蛛の仕事」、何を優先すべきで何を優先すべきでないか、答えは明白だった。


拳を強く握りながらミズキの去っていった方を鋭い目で睨んだ後、クロロはくるりと身を翻してミズキが去って行った方向とは別の方向に走っていった。








数時間後、調和の取れた家具が並ぶ洒落たホテルの一室で、その男とその女は肌を重ねあっていた。


「……アッ……ん……あン……」


女の艶めいた喘ぎ声が部屋中に響き渡っている。薄暗い照明に照らされた部屋の中で、筋肉の引き締まった黒髪の男が豊満な肉体をした女をベッドに組み敷いており、男が腰を動かすたびに女は甘ったるい嬌声を上げていた。玉のような汗を体に浮かび上がらせている女は、快感に堪えきれなくなったのか時おり宙に浮いたその曲線美しい足の指をぎゅーっと仰け反らせていた。


「ン……はっ……やン、クロロぉ、気持ちいいよぉ……」


身体を突き抜ける快感に酔いしれながら、女は恍惚の表情で男の名前を呼ぶ。それをクロロは冷めた瞳で見下ろしていた。


ーーチッ、五月蝿い女だ。ただ鳴き喚いていればいいものを……名を呼ばれると興が削がれる。


「……静かに、しろ」


クロロは女の口を手で覆った。しかし女は口を塞がれたにも関わらずくぐもった声で喘ぎ声を上げ続けている。むしろ口を塞がれたことで女のマゾヒズムが刺激されたのか、陰部から流れ出る愛液の量が増し結合部から響く水音が激しくなった。とんだ変態女だこのまま首を絞めても喜んでケツを振るのだろうな。そんなことをクロロは思ったが、これ以上女を悦ばせる気はないのでそれをすることはしなかった。


「…ん……ふっ…あッ…」


桜色に上気した女の目尻から涙が零れ、だらしなく開かれた唇から涎が垂れ落ちる。どこもかしこも締まりのない女だ。クロロはフッと笑いながら、女の嬌声が一際高くなる胎奥にぐっと腰を打ち付ける。



クロロがこの女と出会ったのは蜘蛛の仕事を終えた数時間前のことで、夜の街を歩いていたこの女に声をかけたことが始まりだった。この女は街行く男どもが振り返るほど美しい顔立ちとスタイルをしており、余程自分の外見に自信があったのだろう、クロロが声を掛けた時も始めは「またナンパ?」といった感じの面倒臭そうな反応を返していた。しかし甘い言葉を吐いて夜景の美しいバーでグラスを傾けてしばらく経った頃には、その虚勢も剥がれ落ち、今ではクロロの体の下で嬌声を上げるだけの存在となっていた。



ーー女なんて簡単に落とすことができるのに。なぜあいつは……ミズキはオレの手からすり抜けていくのだ……。こんなに思い通りにならない女は初めてだ……。


女に腰を打ち付けながら、クロロはミズキを思い浮かべた。ヨークシンの廃墟の屋上で、飛び散った水滴が霧となってさわさわと舞い降りる中、満月の光を浴びながら白いワンピースを靡かせて踊っていたミズキ。意外にも身近で話をしたミズキは月の女神のような印象とは違い随分と子供じみていたが、それでもその唇は甘く柔らかく鼻をくすぐるミズキの香りはクロロの全てを刺激した。


その小さな体のどこにそんなエネルギーがあるのかと思ってしまうほどの激しい感情も、堪えきれなくなったように瞳から零した真珠のように美しい涙も、手に取るように感情が分かってしまうその表情豊かな顔も、前後不覚になるほどに貪りたくなるその唇も、どれも今までの女では感じなかったものばかりで、捩じ込んだオレの舌におずおずと躊躇いながら絡めるその様子も、少し恨めしげに見上げる潤んだその瞳も、漏れ出た自分の声に驚き口を覆うその仕草も、どれもこれもがオレを掻き立てた。


ーーこの女が欲しい。


そう思ったのにミズキはオレの腕の中からやすやすと逃げていった。


「アッ……やン……ん」


女の嬌声が聞こえる。手から溢れるほど盛り上った乳房、身体に張り付く長い髪、成熟した女特有の四肢、どれもこれもがミズキと異なっていた。今自分が抱いている女がミズキではない、その事実が腹立たしく思え、クロロは打ち付ける腰のスピードを上げた。女の嬌声が大きくなる。その声はまるで性交を喜ぶ豚のようで、クロロの中で腹立たしさがさらに増した。


「…ん……ク、ロロぉ……好きぃ…」


クロロの首に腕を絡ませながら女が言う。会って数時間に満たない男に「好き」と言うだなんて何て浅慮な女だ。そうクロロは思ったが、グラビアアイドル並みの女の顔と体は性欲を処理するのに適していると言え、この女を手札に加えることに決めたクロロは、女の耳元で心にもない言葉を囁く。


「オレも好きだよ」ーーと。


実際のところクロロ=ルシルフルは「好き」だなんてあやふやで不確定な感情を持ち合わせてはいなかった。しかし、「好き」という言葉が女を落とす上で有益な言葉であることを知っており、案の定「好き」と言って女にキスをすれば、女は恍惚の表情でより一層甲高い声を上げたのだった。

単純な女だ、こんな女よりミズキの方が何倍もそそられたな……。冷めた瞳で女を見下ろしながらクロロは思った。ミズキを「好き」だと思ったことは一度もない。ただ、体の奥から激しい劣情が込み上げて欲望が膨れ上がるのだ。あの女が、ミズキが欲しくて欲しくて堪らないーーと。


クロロは数時間前のミズキを頭に浮かべた。屋上で出会った時とは打って変わって妖艶なドレスを身に纏っていたミズキ。戸惑いながらキスを受け入れるくせに感情が昂ぶるにつれて自ら身体を擦り寄せるところも、理性と本能で葛藤する様子も、怯えた小動物のような瞳で見上げながらキスをねだる仕草も、全てが堪らない。もっと征服したくなるーー。ミズキをこの女のように突き上げたらどんな反応を見せるのだろうか。そう思った瞬間、目の前の女とミズキがダブって見えた。


途端に下半身が熱くなる。意思とは無関係に下腹部に血液が集中してゆき、今までとは比べ物にならない快感が身体を突き抜ける。なんだこれはーー。目の前で火花が散っているような凄まじい快感に、クロロは無我夢中になって腰を突き上げた。







「クソッ……」


ベッドの上で絶頂の余韻に身体を震わせる女をよそにシャワーを浴びていたクロロは、鏡を見ながら一人自嘲した。欲望に駆り立てられて自分を失うだなんてオレらしくもない。しかも、現実の女に惑わされたのではない。想像の、自分が頭に思い浮かべただけの女に追いやられたのだ。情けない。想像しただけでイクだなんて、ガキかオレはーー。クロロはシャワー室の壁をドンと苛立たしげに叩いた。


ーーミズキを思い浮かべただけでこんなにも身体が反応するとは予想外だったな。


クロロはシャワーを浴びながら、再度ミズキを思い浮かべた。ミズキの柔らかい唇、ミズキの潤んだ瞳、耳をくすぐるミズキの甘い声、髪から香るミズキの匂い、腕の中にすっぽり収まる華奢な肩、細く引き締まった腰、子鹿のようにスッと伸びた足……。


思い出しただけなのに、下半身にまた熱が集まってくるのをクロロは感じた。早くミズキを手に入れたい。早くこの手で抱き締めたい。このまま逃がしてたまるものか。世界中のどこに居たって探しだしてやる、捕まえてみせる、手に入れてみせる。待ってろミズキーー。


そこには不敵に笑うクロロの姿があった。タイルを叩くシャワーの音だけが、不気味にいつまでも響いていた。




[9.路地裏のキス 4/4]



第九章終わりです。この章でクロロのミズキへの感情が少し変化したようですが、それでも、蜘蛛>>ミズキは揺るがないようですね。さすがクロロさん、手強いです!でもでも、念願の壁ドンシチュと色っぽいクロロを書けて満足です(鼻血)
あとクロロとこの女の話は短編の「一夜の踊り」に繋がっていたりしますw




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