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「オレのものになれーー」


それは、狂おしいほど甘美な響きだった。身体の芯がきゅうっと痺れ、脳も身体も心もぐずぐずに溶けてしまいそうだった。自分を翻弄する大きなうねりに身を任せ、このまま何も考えずに流されてしまいたい。そんな耐え難い欲求が頭をもたげ、唾を飲み込む音がやけに大きく感じられた。


「クロロ……クロロ……」


クロロの額に頬を寄せる。自分の体がまだ男を受け入れたことのない身体であることだとか、目の前の男が会ってまだ二回の素性の知れない人間であることだとか、そんな事はもうどうでも良かった。心臓が喉から飛び出そうなほど高鳴っていて、クロロに触られた場所が火傷の痕のように熱かった。頭がクラクラしてもうクロロしか見えなかった。


「ミズキ……会いたかったんだ」


囁くように呟かれたその言葉に胸がキュンと高鳴る。嬉しい言葉、本当なの? それがクロロの本心かどうか私には分かりようがなかったけど、「もう離さない」と熱っぽい声で続けざまに耳元で囁かれ、私はそれ以上何も考えることが出来なくなってしまった。熱い体。跳ねる心臓。力強い腕に逞しい筋肉。耳元にかかる熱い息。そして、私の名前を呼ぶクロロの声。五感の全てが、脳が、心が、身体が、クロロ一色に染まっていく。気づけば「私も、会いたかった……」と答えていた。虚勢が剥がれてゆくーー。


本当は苦しかった。辛かった。嫌だった。こんな日常も、こんな世界も。もっと平和で争いのない安全な世界で暮らしたかった。守られながら生きていたかった。暖かな太陽の下で、頭を撫でられながら、思い悩むこともなく、笑いながら暮らしたかった。この人の側ならそんな暮らしが出来るというの?

一人で必死に守ってきた牙城が崩れ落ちてゆく気がした。この人の側なら……この人の隣なら……この人の腕の中なら……。頭が働かない。もう何も考えたくなかった。私は前後不覚になりながら、光を求める蛾のようにふらふらと手を伸ばした。


「私、クロロと一緒にーーーー」


私、何を言おうとしてるの? 一緒に行きたい? それとも一緒に行けない?
それすらもう分からない。ただ、頭が反応するよりも早く言葉が出てきて、自分がどんな気持ちなのか、何て言おうとしているのか、この人とどうなりたいのか、そんなことは二の次だった。視界いっぱいにクロロの顔が広がる。力強い視線。抗えない。私はクロロの唇に唇を寄せようと、そっと瞳を閉じた。夜風が私の頬をそっと撫でてゆく。

そう、私の全てはクロロでいっぱいだった。それは間違いなかった。だけれども、視界の隅に映った三日月のせいだろうか。私は無意識に考えていたのだろう、彼女のことをーー。想いは繋がり、クロロに顔を寄せていた私の身体に、稲妻のような衝撃が駆け抜ける。頭の先から手足の先まで走り抜ける強い強い衝動に、私は一切の動きを止めた。


ーー嗚呼、何故今なのだろう


胸を駆け抜ける感情を感じながら、私はまつ毛を震わせた。なぜ……なぜ……。この数ヶ月感じることはなかったのに、どんなに求めても応えがなかったのに。なぜ今なのーー。彼女の感情が私の中にどんどん流れ込んでくる。強く熱く、そして優しい彼女の感情がーー。


『あなたの事を愛してるわ』
『大丈夫、心配しないで』
『あなたは私が護るわ、ミズキ……』


彼女の声なき声が聞こえてくる気がした。暖かくて、優しくて、包み込むように甘い彼女の感情に涙が込み上げる。彼女の熱くて強い感情はいつだって私の渇いた心にオアシスの水のように染み渡り、私の目を覚まさせる。


「……ア……ン、ダ……」


なぜ貴方はそんなにも強いのですか? 囚われの身でありながら……私よりももっと過酷な状況にいるはずなのに……なんで貴方はそんなにも強いのですか? どんなに問いかけたところで私の感情は彼女には伝わらない。私が勝手に受信するだけの一方的な感情。にも関わらず、私の身を案じる彼女の優しくて暖かい感情に、私は自然と涙を零していた。


怒りに溢れていた私に微笑んでくれたのは貴方だった。憎しみにさいなまれていた私を包み込んでくれたのは貴方だった。苦しみと痛みに喘いでいた私を抱き締めてくれたのは貴方だった。猜疑心の塊だった私を信じてくれたのは貴方だった。絶望にうちひしがれていた私を愛してくれたのは貴方だった。

貴方がいたから私は壊れなかった。
貴方がいたから私は希望がもてた。
貴方がいたから私は生きてこれた。


貴方は私の唯一の光ーー、そして、私の救い。貴方の声はいつだって私を正しく導く、それはどんなに時間が経っても変わらない。貴方の声は失意と絶望の淵から私を何度だって蘇らせるのだ。


「貴方を護るために私は闘いましょう」
「貴方を護るために私は嘘をつきましょう」
「貴方を護るために私は己を偽りましょう」


貴方を助けるその日までーーーー


それは私の誓い。貴方を失った日から胸に掲げ続けている私の誓い。
そう、私は誓ったのだ。貴方を助けるまで『嘘』も『偽り』も止めないことをーー。『男でいること』を誓ったのだ。







月が笑っている。夜空を見上げてミズキはそう思った。

血とは無縁な平和で穏やかな世界で生きていた頃、ミズキは普通の少女と同じように、学校に行き、心置き無く学び、気の合う友達と遊び、そして、時折恋もしていた。「男」の格好をして苦しみに耐える必要のないそこでは、ミズキは太陽の光を全身に浴びて、朗らかな声を上げ、屈託のない笑顔を振りまいていた。不安も心配もなに一つない、平和で平穏な日々。狂おしく懐かしい日々。でも、それはもう、どんなに切望しても手に入らない過去の出来事なのだ。


『彼は私の弱さだ』


クロロを見てミズキはそう思った。『恋』、それは平和で平穏な世界だからこそ許されたことだった。本来なら血塗られた世界に足を踏み入れたその日から決別すべきことだったのだ。どんなに懐かしがってもどんなに口惜しがっても、求めてはいけなかったのだ。


未練。そう、彼への想いは「未練」だ。平和な世界への未練。恋が身近だった平穏への未練。痛みも苦しみもない過去への未練。未練、未練、未練ーー。『命に代えても彼女を救い出す』そう誓ったはずなのに。太陽が登るたびに、月を見上げるたびに、眠りにつくたびに、そう心に思っているはずなのに。それでもふとした瞬間に未練が込み上げてしまう。自分はなんて弱いのだろう。軟弱な自分にミズキは怒りさえ感じた。

クロロが心配そうな顔つきでこちらを見ている。彼は私の弱さの権化だ。心にくすぶる未練を刺激してはそれを増殖させる、弱さの化身。もし私に毅然とした強さがあったなら、こんな未練が見せる砂上の楼閣なんかに心揺さぶられはしなかっただろう。


虚空を睨みつける。私の身を案じてくれる彼女の存在をほんの一瞬でも忘れて、身勝手に苦しみから逃がれようとした浅ましくて卑しい自分自身に、反吐が出そうだった。もう迷わない。月を見上げながらミズキは拳を強く握った。固く固く、何よりも固くーー。自分の弱さと決別しよう。もう、迷わない。見上げた月の向こうに彼女の姿が見えた気がした。待っていて下さい、私が助けるその日までーー。そう月に向かって誓うと、ミズキはクロロに向かって決意のこもった瞳で言った。


「さようならだ」とーー。


そう言った後、ミズキは前触れもなくクロロの唇を塞いだ。別れのキス。それはミズキの決意、そして、クロロとの別れを意味していた。最後の触れ合い。ミズキは悲しげな瞳で息も詰まるようなキスをしながらも、オーラを練った。瞬きと共に零れ落ちた最後の涙が、地面で粉々に砕け散ってその終焉を告げると、ミズキはまつ毛を震わせながら念を発動させた。青白い月光がビルの隙間から射し込む中、二人の唇を離れ難そうに繋いでいた銀糸が、音もなく切れ、その繋がりを絶ったのだった。




[9.路地裏のキス 3/4]


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