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私はもう泣かなくなった。
人がどろどろに溶けて地面に吸い込まれるのを見たその日から。
そして、目を覚ましてから目を閉じるまでずっと念の修行に打ち込むようになった。
『ここから出たい』ただその一心でーー。





9.路地裏のキス





あれから何日経っただろうか。クルスは私の変貌ぶりに驚いていたけれど、私が見た光景を説明してからは何も口出ししなくなった。二・三日に一度新しい人が来るくせに一向に総人数が増えないこの空間に、クルス自身も前々から疑問を持っていたようだから。血へどを吐きながら歯を食い縛って意識を失うまで毎日毎日修行をする私が、クルスと本気で戦って五回に一回は勝てるようになるまで、そうは時間がかからなかった。


「いいか?『自分の身を守れるのは自分だけだ』と、心に刻み込んでおけ。誰の手助けも期待するな、もちろん俺の手もだ。自分の力のみを信じるんだーーー」


「そうじゃなきゃ……この場所では生き抜けない。弱い奴から死んでいってしまう……」そうクルスが呟いた言葉通り、この空間は危険に満ちていた。この空間に来た当初何百人もいた人達は、今や半分に減っていた。"ホール"の一角で修行に明け暮れていたせいでこのゆゆしき事態に気づくのが遅れてしまったが、私たちはまだ生きている。いくらでも対応できる。どうやら生きることを諦めてしまった人や生命力の弱い人たちからあのもやに喰われているようだから、私もクルスも念の修行をしながら「何があっても生き残ってやる!」という闘志を日々磨いていた。


「また……だ……」


人型のまま地面にポツンと残っている服を見て私は呟く。空間の奥に住んでいた人達を食い尽くしたからだろうか、この"ホール"でもしばしば黒いもやが人を喰うようになっていた。この黒いもやはいったい何なのだろうか。その答えを見つけるために、私は気力が尽きて地面に寝たままになった人を見つけるとその前にじっと座って様子を観察するようになっていた。昔の私なら「ダメだよ!そんなところに寝ちゃ!起きて!!」とお節介を焼いただろうけど、今の私は違った。『自分の身を自分で守ること』を放棄した『弱い奴』に構う時間も余裕もないーーーそんな冷たい考えをするようになっていた。


「あ……死んだ」


目の前の男のオーラが変化した。傍目には分からないだろうけど、何度も観察した私になら分かる。目の前の地面に転がる男はたった今息を引き取ったのだ。心停止。人は皆、心肺が停止した直後にオーラが魂が抜けるようにフワリ抜け、その後だいたい10分くらいの時間をかけて完全に抜け切るのだ。10分、これはたぶん脳機能が失われる時間なのだと私は思っている。


「あ……きた……」


黒いもやが触手を伸ばしながらこちらに近づいてくる。もやはたった今息を引き取った男の上でぐるりと一周たゆたうと、勢い良く男に覆いかぶさった。もう驚きはしない。私は表情をピクリとも変えず目に"凝"をして観察した。

あの黒いもやについて、私には一つの仮説があった。念能力者ではない一般の人間が強いオーラにぶつかると、その人間は強制的に精孔をこじ開けられてしまい、最終的には生命エネルギーであるオーラを出し尽くして死に至るのだと、以前クルスから聞いた。黒いもやに触れられた瞬間に発生するバチっという火花のような音。そして、男から流れ出る湯気のようなもの。自身のオーラをこの空間にいる普通の人間にぶつけてその経過を観察したわけではないので断言は出来ないけど、私はあの黒いもやはオーラの塊で、男は強制的に精孔をこじ開けられているのではないか。私はそう考えていた。

オーラとオーラの引っ張り合い。念を習得していない普通の人間が引っ張り合いに負けるのは当たり前だ。では、念を習得した人間がオーラの引っ張り合いをしたらどうなるのだろうか?私は、人型のまま地面に残った男の服を見ながら、ゴクリと唾を飲んだ。
私はもう、"纏"も、"練"も、"凝"も、"絶"も、できるようになっていた。念能力者の私だったら、オーラの引っ張り合いに負けることはないんじゃないか? そんな考えが頭をよぎる。

異様なこの空間の中でもさらに特異な存在。あの黒いもやがこの空間の謎を解くキーパーツである事は疑いようがなかった。触ろうか、触らまいか。私は黒いもやにあと一メートルという距離で立ち止まった。オーラを吸い尽くされるのは確かに怖かった。怖かったけど、このまま恐怖に囚われビクビクして過ごすのも嫌だった。クルスの次元を切り裂く刀の修行は思うようにいっておらず、私の念の系統も性格から判断しておそらく具現化系から離れている。もし「どこでもドア」の具現化に成功したとして、それはいったいどれくらい先の話なのだろうか。一週間?一ヶ月?一年? 分からない。その間、私は正気を保ち続けられるのだろうか。もうすでに頭がおかしくなりそうで堪らないのにーー。もう時間がなかった。


「よし……やるぞ……やる……やってやる!」


私は大きく深呼吸し、そして、もやに向かって手を伸ばした。その途端、バチバチバチッと鋭い音が鳴り、触れた手から稲妻のような衝撃が全身に走る。


「ああああああああああああーーーー!!!!!」


身体を引き裂かれるような痛みが全身を貫き、身体が意識とは無関係にビクビクと跳ね上がる。目の奥が焼けるように痛み、もう焦点が合わない。見開かれた目から涙が流れ、半開きとなった口から涎が垂れていった。


「うぐぅあぁあ゛――!!」


黒いもやがどんどん流れ込んでくる。痛い痛い痛い痛い!!!何これもう嫌だ痛い痛い痛い痛いもうやめて!!!血液が沸騰して、皮膚が、筋肉が、内臓が、脳味噌が焼けただれていくよう。どうしようもならない痛みに、私は気づけば喉元を掻き毟り服を破いていた。

「ハァハァハァ……」

どれくらい経ったのだろうか。永遠のような一瞬が過ぎて、私はその場に崩れ落ちた。着ていた服は胸元の辺りでビリビリに破かれ、身体は汗と涙と涎でぐちゃぐちゃだった。だけど、そんなことは気にならなかった。あの地獄のような痛みから解放された。ただそのことに安堵し、私は激しく肩を上下して呼吸を整えていた。


「……やっぱり」


呼吸が落ち着いてきた頃、両手をじっと見て私は呟いた。間違いない。"凝"をして自身の手を見ると、その手を覆うオーラの量が格段に上がっていた。

私の仮説は正しかった。あのもやはオーラの塊で、私はオーラの引っ張り合いに勝ったのだ。私は死ななかった。生き残ったのだ。ーーだけど、そんなことはもうどうでもよかった。私は分かってしまった。





『この空間から出る方法』が






私は生きたかった。
この空間から出たかった。
帰りたかった。
私の世界に、私の家に。
会いたかった。
家族に、友達に。
もうこんな所には一秒たりとも居たくなくて。
何が何でもここから出たくて。
もう、狂いそうだったーー。




私は涙をポロポロ流した。
「ここから出る方法」が分かって涙した。
嗚咽を上げ、鼻水を垂らして咽び泣いた。





嬉しくてじゃない「悲しく」て。そう、ここから出られる人は……





『生き残った最後の一人だけ』





毎晩毎晩、私は願っていた。帰りたいーーと、それこそ呪うように願っていた。



私はここから出たかった。
元の世界に帰りたかった。

こんな所に居たくなくて
平和で平穏な世界に戻りたくて
頭がどうにかなりそうだった。




「さようなら」




私は無垢で穢れを知らない自分に、別れを告げたーーーー。




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