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「…クロロ」
「…ミズキ」


雑踏のひしめく中、互いの名を呼ぶ二人の声が静かに響き渡る。満月の夜に、私を抱き締めた身体、私の髪を優しく撫でた手、私を優しく見つめていた瞳。そして、私に口付けした唇ーー。あの日の事を思い出すだけで自然とミズキの胸が高鳴った。まるで時間が止まったかのように、二人は互いに見つめていた。音が消え去る。しかし、その止まった時を破り出たのは意外にもミズキだった。


ーーダメッ、逃げなきゃ


クロロの視線にビクリと身を震わせて後退し、ミズキは伸ばしかけられたクロロの手を遮って誰も居ない路地裏に向かって駆け出した。水色のドレスがはためき、ピンヒールの甲高い音が雑居ビルのコンクリート壁に反射する。


ーー私、なんで逃げてるの?……分からない……ただ恐いの……


逃げたかった、あの手から。逃げたかった、あの瞳から。逃げたかった、あの声からーー。ミズキは後ろを振り向くこともせずに走った。クロロが、同行している人間に慌てた声で「オレは所用ができた。後で向かうからお前たちは先に行ってろ、時間に遅れるな」と言っていたが、それはもうミズキの耳には届かなかった。

逃げなくちゃ、逃げなくちゃ、何よりも早くーー。捕まったらもう逃げられない。捕まったら……私は……彼の……、





虜になるーー。もう戻れない。






誰もいない路地裏にミズキの靴音が響き渡り、そしてその甲高い靴音を追うようにもう一つの靴音が響く。


「ミズキ!」


クロロの声が路地裏の壁に反射する。しかしミズキはその声が聞こえているにも関わらず、耳を塞いで首を振るだけで止まろうとしなかった。そんなミズキにクロロは「くっ…逃がすか」と小さく呟くと、走るスピードをさらに上げた。

ーーやだ、来ないで……

確実に近づいているクロロの足音を耳にして、ミズキは苦しそうに眉根を寄せた。嫌だ、来ないで、お願いだからーー。ミズキが動くたびに背中の空いたドレスを留めるリボンがひらひらと宙を舞う。そのあざ笑うように舞うリボンにクロロは手を伸ばす。その距離あと数十センチ。クロロの怖いくらいの真剣さを背中に感じ、ミズキは唇を噛んだ。なんで、私なんかにーー。もう、心臓が張り裂けそうだった。


「ミズキ……」


それは一瞬の出来事だった。クンと軽く引っ張られる感覚を背中に感じたかと思ったら、一秒と立たずミズキの背中全体に鈍い衝撃が走る。痛みに堪えながら薄目を開けると、視界いっぱいにクロロがいた。その真剣な眼差しにミズキの心臓がドクンと跳ね上がる。クロロに路地裏の壁に押し込まれてしまったのだとミズキが理解したのは、クロロと見つめあって何秒も経った後だった。


「なぜ逃げる……」


眉根を寄せて切なそうな顔をするクロロの顔が視界いっぱいに広がる。その黒い瞳の中に、戸惑う自分の姿が映っている。なぜ? そんなの分からない……。ただ怖かった、捕まるのが。ただ怖かった、捕まったら自分が自分で無くなりそうでーー。

クロロの強い視線にたまらず、顔をふいと横に反らす。壁に押さえ込まれた右手から、クロロの熱が伝わってくる。走るのを止めたにも関わらずミズキの心臓の鼓動は治まらない。『もう逃がさない』と言わんばかりに鋭く光るクロロの瞳に、身体だけでなく心までもが見透かされているようだった。


「は……離して、お願いだから……」


やっと言えたのはその言葉だった。ミズキは押さえ込まれた右手に力を入れるがどうやらオーラを使って力任せにしているらしく、その手はピクリとも動かなかった。右手首を掴まれ、背中には壁、そして目の前には力強い瞳でミズキを見つめる男ーー。もう逃げられなかった。


「ミズキ……」


しばらくして紡がれた低くハスキーなその声はミズキの耳に良く馴染み、まるで鼓膜を通して脳を撫でられているようだった。ミズキの心臓がトクンと音を立てる。


「やっと……やっと見つけた。ミズキ……」


掠れた声でクロロが呟く。強く掴まれた右手首はまるで「逃がすまい」とするクロロの感情の表れのようで、そこから身体全体に広がっていく熱に心臓まで焼き尽くされそうだった。


「ずっと探していたんだ。ミズキ……顔を上げて」


ゆっくりと諭すように言われ、ミズキはおずおずと顔を上げた。ミズキの瞳には困惑と動揺が映っていたが、その顔は耳まで真っ赤に染まっていた。視線が絡み合う。雲間から覗いた細い月がしんと静まり返った小路にほのかに青い二つの長い影を落としている中、二人は言葉もなく互いに見つめあった。


「クロロ……」


ミズキは目の前の男の名を呼んだ。名前を呼ぶ、ただそれだけなのにミズキの心臓がキュンと音を立て、身体に甘い痺れが走る。好きじゃない、好きじゃない、好きじゃないのに。ーーなんで? 必死に自分自身に言い聞かせるも、胸の高鳴りは治まりそうになかった。

クロロは返事の代わりにとミズキの頬にそっと手を添え、優しく撫でる。その髪を、その頬を、その首を、何度も何度も確かめるように丁寧にーー。青白く光る月の光だけが、二人を照らしていた。


「ク……ロロ?」


ふと紅いルージュの引かれたミズキの小ぶりな唇にクロロの指が触れる。柔らかさを確認するように指を左右に動かすと、ミズキが塗っていた紅い口紅がクロロの指に付いた。クロロの動きが突然止まり、疑問に思ったミズキが小首を傾げながら顔を上げると、そこには挑発的な視線を送りながら、自身の指についた口紅をペロリと赤い舌で舐めとるクロロがいた。まるでこの間の続きを今からしようと言わんばかりに色めくクロロの瞳に、ミズキは小さく息を飲んだ。


「あっ……ちょ……」


戸惑った声を上げるミズキを全く気にかけず、クロロは自身の膝をミズキの足と足の間に割って入れる。身体がさらに密着し、クロロの香りがミズキの鼻腔に広がった。甘いながらも少し癖のあるクロロの香り。その匂いを嗅いだ途端、満月の夜に廃墟ビルの屋上で彼と交わした出来事がリアルな感覚をもって蘇った。柔らかい唇、力強い舌の動き、熱い吐息、掠れた声。服越しに感じた温もりに、身体を通して感じた彼の胸の鼓動。彼の少し切なそうな眼差しと、彼の肩越しに見えた煌々と光る満月ーー。胸を溶かした狂おしい感覚と、身体の芯に走った甘い疼きまでもが蘇り、ミズキは堪えきれないといった様子で眉を寄せた。足から力が抜けそう。でもーー


「い……嫌……」


肩を強張らせてながら拳を強く握り、ミズキは震えた声で拒絶の言葉を口にした。ダメ、ダメよ、ダメ。彼は危険だ、近寄ってはいけない、これ以上はいけないーー。唇を噛み締める。


「嫌……なのか?」


切なそうなその声に顔を上げると、まるで暗い孤独の影に縁取られたような悲しい顔で眉根を寄せるクロロがそこにはいた。違うの、違うのクロロ、傷つけたかったわけじゃないの。慌てて口を開こうとするが、何を言っていいのか分からず、ミズキは何も言葉を発しないまま口を閉じてしまった。ただ……ただ、怖くてーー。何が怖いのか、何が不安なのか、自分でも良く分からなかった。ただ、大事な選択を迫られている、そんな気だけが漠然としていた。自分の根幹に関わる重大な何かーー。


「嫌……なのか?」


クロロに再度尋ねられる。何も返事を返さずに唇を噛んだままクロロから顔を背けていると、頬にそっと手を添えられた。なにーー。それは、声を出す暇さえない突然のキスだった。

気づくとクロロの端正な顔が視界いっぱいに広がっていて、その一瞬後には唇を塞がれていた。クロロの身体がさらに寄り、私の身体との密着度が格段に増す。サテン生地のドレスは普段の男服より何倍も薄くて、クロロの熱がまるで素肌で感じているように伝わってくる。心臓がバカみたいに激しく鳴っている。五感の全てがクロロ一色に染め上がっているようで、頭がクラクラした。クロロ以外の事が考えられなかった。必死に守っていた牙城が崩れる音がするーー。



クロロのその手を、その唇を、その身体を
私はどうしても跳ね除けることが出来なかった。


堕ちてゆくーー。


薄目を開けた先に見えた霞のかかった細月が、
私の事を愚か者と嘲笑っている気がした。




[ 8.クラブへの潜入 4/4 ]



第8章終わりです。クロロとミズキの邂逅第二弾です。
相変わらずクロロさんが色っぽくて私の脳が妄想で爆発しそうです。




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