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目の前を通り過ぎていく人間達が、映画のスクリーンのような遥か向こうの世界に感じられるようになってどれくらい経っただろうか。あれほど感じていた飢餓感ももう感じない。自分の呼吸音しか聞こえなかった。
「お前がミズキ・テイラーか?」
声が聞こえる。瞼を開けるのもひどく億劫で、何もかもが嫌だった。なのに男が今一度「お前がミズキ・テイラーか?」と問いかけてくる。筋肉が衰えすっかり奥に窪んでしまった瞼を鈍重に上げると、目の前にこちらを覗き込んでいる男がいた。
「………な………に……?」
何日も水を口にしていない舌と唇はカピカピに乾いていて、声を出したはずなのに上手く言葉にならなかった。男は手に持った何かを私の眼前にかざして鋭い目でこちらを見る。焦点が合わないせいでその差し出された何かが写真だと気づくのに幾ばくかの時間がかかった。
「彼女をこちらで保護した。お前が生きようと死のうと私には関係ないが、あと3日ここにいる。詳しい事を聞きたければ、ここに来い」
そう言って男は写真に何かを書き込み去っていった。思考が追いつかない。男はなんて言ったのだろう。写真?彼女? そんなのもうどうでもいい。「あの人」のいない世界に未練はない。死も怖くはない。そう、長い間見ていた夢が終わる、ただそれだけのことなのだからーーーー。
そう思い瞳を閉じようとした瞬間、手に握らされた写真がカサリと音を立てた。何ともなしに視線を向ける。写真。それは、病室のような場所でベットに横たわる女の写真だった。誰だろう。飢えで視力の落ちた目元に近づけてそれを見る。驚愕。
「な………ぜ………」
声が出ない。なぜ「あの人」の映った写真がこんなところに!?しかも日付は一週間前。なぜだ、なぜ!? 霞がかかっていた頭が次第にハッキリとしてくる。虚ろだった瞳に力が灯ってくるのが自分でも分かった。死んでなんかいられない。悲観なんてしていられない。私は痩せ細って骨と皮になった身体に力を入れたのだった。
*
ーーーそう、これが私とジョンの出会いだった。
「あの人」を失った失意と絶望でいっぱいだった当時9歳の私は誰もが素通りする路地裏の奥でひっそりと死を迎えようとしていた。「あの人」のいない世界なんか未練なんてない。そう思っていたのに、「あの人」の映る写真を持った男と出会い、全てが変わった。死んでたまるか。炎のような熱い想いが腹の底からふつふつと込み上げる。
筋肉がすっかり削げ落ち立ち上がることもままならなくなった身体に鞭を打ち、私は水溜まりまで這った。そして泥水を啜り、蟻のたかる残飯を口に捻じ込んだ。味なんてどうでもいい。体力をつけることが先決だった。そうやってなんとか期限までに歩くだけの体力をつけた私は、男の待つホテルに向かったのだった。
そこで再び会った男は、白髪の混じった髪を7:3に撫で分けた嫌な目つきをしていて、名をジョンといった。男は一週間以内に撮ったと思われる彼女の写真を何枚か私に見せ、そして、小さな機械を取り出した。それは録音機だった。ボタンを押すと彼女と誰かが話している声が再生される。
「………がい…ます」
「そう興奮するな。君はまだ安静にしていなくてはいけないのだから」
「お願いします……あの子を……ミズキを、探して下さい。お願いします!お願いします!」
「力は尽くそう……。だが、期待はしないでくれ。君も見ただろう、あの惨劇を。あの中を生き延びているかどうか私には……」
「それでも!それでもいいので!可能性がゼロでないならば!お願いします!私、何でもしますので!お願いします!」
彼女の必死な声がスピーカーを通して聞こえてきた。ほんの30秒ほどの短い会話だったけれど、それで十分だった。彼女は生きている。胸の奥から熱いものが込み上げ目頭が熱くなる。
「それでだがね、最初に君に言っておくことがある」
感動に震える私に向かって男が温度のない冷やかな声で言う。
「……なに?」
訝しげな目を向けるとジョンが口を開く。
「私はただのお使いだ。ある人に頼まれて君を探し出すように言われていただけなのだ。だから……」
「だから?」
「だから、君の会いたがっているその女性がどこの誰で何をしている人か私は知らない。そして、今どこにいるかという事も私は知らない」
「え!?」
「私に依頼した人も、君にそれを伝えたくないみたいだよ?」
「な、なぜ?」
「どうやら、その女性は療養が必要な身らしくてねぇ。興奮させるようなことは取り除かなくてはいけないらしいよ?」
「そんな……!怪我!?それとも病気で!?」
「さぁ、私には分かりかねるねぇ。ただ、これだけは約束しよう。君が『いい子』でいてくれれば、いつか彼女の具合が良くなった時、会わせてあげよう」
「本当か!?約束だぞ!!」
線路の高架下で他の浮浪児仲間から生き抜く知恵を教わりながら、私は月に数度『いい子』であるためのその『お願い』を聞くようになっていた。しかし、その『いい子』の内容がろくでもないことに気づくのに、そうは時間がかからなかった。使い勝手のいい小間使い、要はそういう事だったが、人から人へ伝令を伝えたりある場所からある場所へ物を運んだりと一見ただのお使いのように思えるそれは、確実に裏の悪どい何かに繋がっていた。
悪いことだと知りながら何度その『お願い』を聞いただろうか。しかし、ジョンが彼女に会う話を進めてくれる様子は一向になく、そんな日々が三か月も経つ頃には私はもうあいつの本心に気づいていた。
『彼女に会わせるつもりがない』
あいつは口先だけで、新しく手に入った使い勝手のいい駒を手離す気は無いのだ。どう考えてもそうとしか思えない男の行動に私は怒りを感じ、人知れず念の開発に勤しむようになっていた。そして十か月後、私は自身の操作系の能力を活かした『ディレクションウォーター』を会得したのだった。ジョンと出会ってから既に一年が経ち、私は10歳になっていた。
ーーーやっとチャンスが巡ってきた
子供が入るには不釣り合いなホテルのエントランスで私は目を細めた。ジョンは私の事をただの口の減らないガキだと思っている節がある。その証拠にホテルに呼ぶ時はいつも、オレンジジュースと子供が喜びそうなちょっとした菓子を用意していた。食事をするほど親しくはないが、一切の飲食を拒絶するほど警戒はしていない。無用心な奴だ。その自衛の甘さを突いてやる。私は扉の前で唇を吊り上げたのだった。
「よく来たな」
ノックをすると、ジョンが冷ややかな声色で私を迎え入れた。
「ハッ、別にてめぇのために来たわけじゃねーよ」
軽口を言うと向こうも容赦無く言い返す。
「ふっ、相変わらず口の減らないクソガキだ」
出会った当初は彼女を助けてくれた恩人の一味だと思って気を使っていたが、彼女に会わせる気がないと分かった頃合いから、私の口は段々を悪くなっていった。当たり前だ。奴らは私から彼女を取り上げている人間なのだから。
「失礼します」
コンコンとドアが鳴り、ホテルの給仕スタッフが銀色のサービスワゴンを押しながら部屋に入ってくる。「お待たせいたしました」と言って女が私にオレンジジュースを、ジョンにホットコーヒーを差し出すのを横目で見ながらジョンに向き合う。
「次の仕事は何だ?」
「ああ、これだ」
バサリと乱暴に置かれた資料を手に取りながら、私はテーブルに置かれたコーヒーに意識を集中させた。オーラを慎重に練り、「彼女のことを洗いざらい吐くよう」コーヒーに念をかける。成功だ。
「お前の今回の仕事は……」
ジョンの言葉なんて耳に入ってきやしなかった。心臓が高なり、資料を持つ指先が期待に震えた。あと少し。ジョンはひとしきり仕事の内容を喋ると、ソファに腰をかけてコーヒーカップを手に取った。よっし。あと数秒で全てが終わる。自然と笑いが込み上げる。私は必死になってその笑いを噛み殺していた。
しかし、ジョンはコーヒーカップに唇が触れるか触れないかという時に、肩をビクリと震わせて全ての動きを止めたのだった。
ーーどうした?
資料から視線を外して前を覗き見ると、ジョンが顔を真っ赤にして指先をカタカタと震わせているのが見えた。なにが起こった?と思う暇もなくジョンにまだ湯気の立つコーヒーを顔にバシャリと掛けられる。
「熱っ!!」
ソファからガタンと転げ落ちる。顔面がヒリヒリして目が開けられない。唐突の出来事に固まる私の皮膚を熱々のコーヒーが伝っていき、白いTシャツを茶色く染めていった。思考が混乱する中、薄っすらと目を開けるとそこには憤怒の目で私を睨みつけるジョンがいた。
「餓鬼が、毒でも盛ったか」
怒りに震える声でジョンは吐き捨てるように言う。机に投げつけられたコーヒーカップが破片となって四方に飛び、私の頬から血が一筋垂れていった。
「くそっ…子供だと思って油断した。さしずめ自白剤って所か…」
ジョンが左腕の時計をさすりながら地を這うような声で言う。なぜバレた!?念は無味無臭だぞ!?それにあいつは念能力者じゃーーー。いくら"凝"をして見てもジョンのオーラは垂れ流しになったままで、どう見ても念能力者だとは思えなかった。
「何が何だか分からないって顔だな。良いだろう、教えてやる」
ジョンは未だに地面に這いつくばって固まる私を横目に、勝ち誇った顔でドサリとソファに腰を下ろした。
「私は守られているのだよ…とてもとても強い人にね」
その言葉に思い至った私は通常の倍くらいのオーラを目に集中させて"凝"をした。くそッ、そういうことか!!やられた!! ジョンを余すことなく観察すると、ジョンのものとは思えない不可解なオーラがあった。まるで高度な"隠"をしているようなそのオーラは、ジョンがはめている精巧な時計から出ていた。
「私ほど優秀な人間になるとね、周りからやっかみで妬まれることもあるんだよ。以前、大プロジェクトのプレゼン直前に、同期に下剤入りの飲み物を手渡されたのがいい例だ。他にも色々あったんだがね。とにかく、彼はそんな私の状況をえらく心配してくれてねぇ。この時計をプレゼントしてくれたんだよ。……この魔法の時計をね」
間違いない、あの時計は念具だ。どういう系統の念が掛けられているか現時点では推測のしようがないけれど、念に事前に気づける何かが仕組まれていることは確かだった。
「私はねぇ、馬鹿にされることが大嫌いなんだよ。それなのに!!こんなクソ餓鬼に!!!簡単に騙せると思われていたなんて!!!!」
ジョンはテーブルの上に載った花瓶やライトを力任せに薙ぎ倒す。倒れた花瓶から流れた水がポタポタと机を伝って絨毯を濡らした。
「本当に心外だよ、ミズキ君。君には絶望したよ。君がこんな『悪い子』だったとはねぇ」
ジョンがまるで虫でも見るような見下した目で、私を見る。
「実はね、ミズキ君。君が『いい子』だったから、今まで言わなかった事があるんだよ」
返事の代わりにジョンを睨み返すと、ジョンが下卑た笑いを返した。
「彼女の治療にはお金がかかっていてね、今までそれを肩代わりしてあげてたんだけど、こうも君が非協力的であると我々も考え直さなくてはいけなくなるよ」
彼女を形に金を強請るつもりなのだろうか。今ここでこいつを半殺しにして彼女の事を聞き出そうかとも考えたが、少しでもオーラを練ると腕にした時計がピクリと反応するのだった。この時計がジョンの言う「彼」にすぐ様何かを知らせるとしたら、彼女の居場所を掴んでいない私の方が完全に分が悪い。彼女の喉元にナイフを突きつけられているようで、行き場を無くした怒りの業火が私の体を焼き尽くしていった。噛み締めた唇から血が流れ出た。
「……幾らだよ」
「月に50万だ」
「これが払えなかったら彼女の命はないと思え」私を睨みつけるジョンの瞳がそう言っていた。そして私はこの時から、より危険な裏の仕事をするようになり、自分の手を血に染めるようになったのだった。
*
「リナちゃん、すまないなぁ。わしらそろそろ行くで」
唐突に声を掛けられて、ミズキはハッと顔を上げた。アンドリューと一緒に来ていた男が済まなそうな顔をしてこちらを見ている。気づけばアンドリューはぐでんぐでんに酔いつぶれ、ミズキの肩に頭を預けたまま眠りこけていた。
「いいですよぉ〜、このくらい」と笑顔で答えると、男が「ほら、起きんさい。そろそろ時間やで」と言ってアンドリューの頬をペシペシと叩く。目を覚ましたアンドリューはまだミズキと離れ難そうにしていたが、トイレで念がかかったアルコールを排尿してからは、その態度は幾分かましになった。
「あいつ、普段はあんな悪酔いするやつとちゃうんだけどな…。リナちゃん、堪忍な」
男が済まなそうに言う。その言葉通りアンドリューは再三帰るぞと言われているにも関わらずミズキの手を握ったまま離そうとしない。「さっさと帰りやがれ、お前らはもう用済みなんだよ!」そう言いたくなる気持ちを抑えて、ミズキはニコニコ笑顔のままアンドリューの手をギュッと握る。
「アンドリューさん、お気持ちは嬉しいですけどお連れ様が困っていらっしゃいますよ?私ならいつでもこの場所におりますので……」
しおらしげにそう言って上目遣いに男を見ると、アンドリューが赤く染まった顔で二・三歩後ずさりし、「お……お…、そ、そうだな、そうだな。じゃあリナちゃん、明日!また明日も会いに行くから!」と言ってやっと手を離した。バーーカ、あと3回もトイレに行けば今の感情なんて消え去るっつーのに。そう思いながらもミズキは、道の向こうに歩き始めた二人に向かって深々と頭を下げた。
「ありがとうございましたぁ〜」
このまま二人が疑惑を持つことなく通りの向こうに消えれば今回の仕事は終わる。アンドリューがブンブンと手を振っているのを感じたが、ミズキは二人の気配が消えるまで深々と下げた頭を上げることはしなかった。
数秒後、二人の気配がやっと消え、ミズキは疲れた声で「任務完了」と小さく呟くと頭を上げた。とその時、通りを歩く男となんともなしに目が合ってしまった。なぜ………。雑踏の音が消え去り、時間が止まる。スラリとした長身に、均整のとれた肉体。雑踏の中でも一際目立つその存在を忘れるわけがない。
理知的な黒い双眸が見開かれ
私の名を甘い声で呼んだその唇が
声を出さずに微かに動いた
『ミズキ…』と
満月の夜にキスを交わした男が
二度と会うことがないと思っていた男が
目の前にいたーーーーー
「…ク、ロロ…」
ミズキの絞り出したような掠れた声が
雑踏の中に消えていった
[ 8.クラブへの潜入 3/4 ]
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