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怒りに溢れていた私に微笑んでくれたのは、貴方だった
憎しみにまみれていた私を包み込んでくれたのは、貴方だった
苦しみと痛みに喘いでいた私を抱き締めてくれたのは、貴方だった
猜疑心の塊だった私を信じてくれたのは、貴方だった
絶望にうちひしがれていた私を愛してくれたのは、貴方だった


貴方がいたから私はコワレなかった
貴方がいたから私は希望がもてた
貴方がいたから私は生きてこれた


貴方は私の唯一の光





8.クラブへの潜入




出口がないと分かってから私は泣いて暮らしていた。こんな所には居たくはなくて、早く元の世界に帰りたくて、お父さんやお母さんに会いたくて……。私は瞼が腫れるのも声がガラガラになるのも気にせずに、体の水分がなくなるんじゃないかってほどに泣いてないて泣いてないて泣き続けた。



泣き疲れて眠る頃、私はいつも思う
「次に目を開ける時、この悪夢は消えているだろうか」と

昨晩もそう思いながら瞳を閉じた
一昨日も、そのまた前の日も、そう思いながら瞳を閉じた

毎晩繰り返される儀式のような私の願い

5日前も、10日前も、20日前も、私は願った
50日前も、100日前も、私は願った

「夢よ醒めろ」と呪うように。

しかし無情にも悪夢は覚めることもなく
また新しい一日が始まる。
途絶えることなく続く悪夢の日々。
それはきっと明日も続くのだろう。

それでも私は願い続ける。
「夢よ覚めろ」と、飽きることなく






絶望。それは一片の光もない闇。凍えるほど冷たく悶えうつほどに苦しいそれは、私の身をだんだんと侵食していった。日が経つに連れて私の顔から表情が消えていく。このまま行けば私は初めてこの空間に来た時に見たあの亡霊のような人々のように、無気力な顔をしたモノになるのだろうか。そうぼんやりと考えている私に、ある日一人の男が声を掛けてきた。クルスだった。会話の流れとはいえ『念』の存在と『出口がない』事実を突きつけてしまった彼は、私のあまりの絶望ぶりに罪悪感を感じていたらしかった。


『誰にも言ったことはなかったけど、俺…ここを出る方法が一つだけあると思うんだ』


クルスがそっと耳打ちする。本当だろうか? 生気のない瞳で見上げる私の頭をポンと撫でてクルスは言う、「確証はないけどね、挑戦する価値はあるよ!」と。確証も確約もない。だけど私はその言葉にすがる以外の道はなかった。大きく息を吐き、唇をキュッと閉じ、ゆっくりと顔を上げる。


「その方法を私にも教えて?」


そう答えたその日から、私の日常は大きく変わり、私は時間の大半をクルスと過ごすようになった。


「違う違う!何度言ったら分かるんだ!もっと自分の周囲に意識を集中させろ、自分のオーラの境界を」
座禅を組んで目をつぶる私に、クルスが容赦無く声を飛ばす。
「こ、こう?」
「違う違う、それじゃただ目を瞑っているだけじゃないか。もっと深く呼吸をして神経を尖らせろ」
肩から少し離れた所に手を置いて、クルスが言う。
「いいか?ここがお前のオーラの境界だ。だいたい身体から3cmってところだな。この内側にはお前の意思で自由に動かせるものがある。そこを意識しろ。」


クルスの言う「ここから出る唯一の方法」は、端的に言うと「念」だった。詳しく言えば、この空間から出る「発」を会得してここから脱出する、そういうことらしかった。クルスは昔、心源流の流れを組む道場に通い「念」の修行をしていたらしい。彼自身は強化系のため具現化系の習得率が60%しかなかったがそれでもクルスは「空間を切り裂く」具現化系の能力を習得しようと毎日毎日修行をしていたようだった。可能性は少しでも上げた方がいい。そう彼が思ったかどうか分からないけど、私は今彼から念を教わっていた。

一番最初にこの話を聞いた時、アマンダさんが使っていたトンデモ能力の「念」を、私自身が身につけようとしているだなんてなんの因果かと思ったけど、クルスの言うとおり「なんでもあり」なトンデモ能力に頼る以外、この異様な空間から出る方法なんてないんじゃないかと今では思うようになった。でも、どこにでもいる大学生の私なんかがそんな能力を手に入れることが出来るのかどうか、はっきり言って私には自信がなかった。けど、それ以外に道はなく、私は泣いている時以外の全ての時間を念の修行に充てるようになっていた。


「あぁ、いいぞ!その調子だ!」と、具現化した刀を片手にクルスが言う。


念の修行を始めて半年が経った頃、私の精孔は開き、朧げながら"纏"も"練"も出来るようになっていた。彼曰く、「素質がないわりには、早く精孔が開いた方」だそう。精孔を開くにはその人間が持っている資質よりなによりも「念を手に入れたい」という強い想いが必要だそうなので、毎晩毎晩眠りにつくたびに「早く帰りたい」「ここから出たい」と呪うように願っている私にはぴったりだったんじゃないだろうか。


「なかなかオーラの扱いが上手くなってきたな。"纏"も"練"もまだまだお粗末だが、この調子で行けば1〜2ヶ月もすれば"発"の修行に入れるぞ」
「本当!?良かった……。そうだクルス、私ね、もし何かを具現化するなら『どこでもドア』がいいと思ってるの」
「どこでもドア?」
「うん、ドラえもんの。タラララッタラー、『どぉーこぉーでーもぉードアぁーー』ってね」
旧ドラえもんのダミ声を真似して懐から何かを取り出す真似をする私を見て、クルスは首を捻る。
「……ごめん、そのネタ分からないや……」


あぁ、そうか、そうだった。日本語で話が出来ているから勘違いをしていまいがちだけど、彼は私と「違う世界」で生きている人だった。こういう時に、彼が「別の世界の人間」だということを思い知る。


「それにしても、お前、今日はテンション高いな。やる気満々だし」
「そう?」
「そうそう。……そう言えばお前って定期的に元気になるよな?なんかあるのか?」


具現化に成功し、今や10cmくらい空間を切り裂くことが出来るようになった刀を消し、クルスが尋ねる。テンションが高い。確かに今日はテンションが高くなるような出来事があった。だけどそれを言っていいものか少しだけ考えた後、私は静かに口を開いたのだった。


「ねぇ、クルス。誰かの感情が誰かの中に流れ込むことってあると思う?」
「誰かの感情が?誰かの中に?……なんだそれ」
「えっと……。誰かの『嬉しい』だとか『悲しい』だとか『苦しい』って感情が、別の誰かにどばーーって伝わること」
「……共感って意味か?」
「ううん、ちょっと違う」
「目の前で誰かが凄く悲しんでいたらそれを見ている奴まで悲しくなっちまうのは良くあることだと思うが……そういうことじゃなくて?」
「うん」
「……意味が良く分からねぇな。で、それがなんだ?」
「えっとね、私、その感情を感じると『もっと頑張らなくっちゃ!!』って気になるの」
「へーー………、良く分からねぇけど、『誰か』の『感情』を思い描いて、『俺はまだまだだ、もっと頑張らねぇとな!』って思うことは俺にもあるぜ?例えば、心源流のネテロ師範代。彼の並々ならぬ鍛錬とその向上心を思い描くだけで俺は……」


そのままクルスはネテロ師範代の素晴らしさとそれがいかに彼を元気付けるものかを、延々と語り出した。そういう意味じゃないんだけどな……とため息を吐きそれを聞き流しながら、私は『私を元気づける存在』に思いを馳せる。『私を元気づける存在ーーーー』、そう、それはアマンダさんだった。


もう夢を見なくなったにも関わらず私の心はなぜかアマンダさんと繋がったままで、10日に一度くらいの頻度だったけど、彼女の感情が私の中に流れ込んでくるのだった。アマンダさんの感情は、強く熱く、そしてーーー優しかった。


『あなたの事愛してるわ』
『大丈夫、心配しないで』
『あなたは私が護るわ』


彼女の声なき声が聞こえてくる気がした。この感情はおそらく隣にいる恋人に向けられたもので、他人に向けられた感情を勝手に受信して勝手に元気になっているだなんて馬鹿みたいって自分でも思うけど、それでも、彼女の熱く強い感情は私の渇いた心にオアシスの水のように染み渡り、私を癒していくのだった。これがなかったら私はとっくの昔に心が折れていた。失意と絶望の淵から何度でも蘇らせる彼女のその感情は、間違いなく私の救いだった。



「ちょっと散歩してくるね」


いまだにネテロ師範代の素晴らしさについて語っているクルスに呆れ声でそう言い、私はクルスに背を向けた。久々に歩き回ってみようか。私は半年近くぶりに"ホール"の奥の細道辺りを散策することにした。


「なに……これ……」


気楽な散策のはずだった。なのに、半年前に歩き回った時とは明らかに違うその様子に、私は言葉を失ってしまった。右を見ても左を見ても目に入るのは地面に力なく伏す人ばかり。声を掛けても肩を揺らしても、彼らは虚ろな瞳で空を見つめるだけで、身じろぎ一つしなかった。まるで、生きる屍。食べ物を食べていないはずなのに吐き気が込み上げて私は思わず口を覆ってしまった。

『食べ物も飲み物も人によっては睡眠も必要ないこの空間で、もし生きる気力を失ってしまったらどうなるのだろうか』その答えは目の前にあった。いつの日か全ての希望が潰えた時、私もこの人たちのようにただただ息を吸って吐くだけの『生きる屍』になるのだろうか。そう思うだけで背筋が凍った。


ーーー嫌だ、なりたくない


一歩、二歩と後ずさる。帰らなくちゃ。クルスのいるところに……。やらなくちゃ。念の修行を……。言いようのない不安と焦りと恐怖が込み上げて、足が震え出す。しかしそんな私の視界に何かが映り、私は足をはたと止めた。


ーーーなに、あれ…


視界の隅で黒い何かが蠢いている。黒いもや。それがその「何か」を表現する言葉だったけど、それには一言では言い表せないおどろおどろしさがあった。細道の上空でぼんやりと漂いながら右に左にと触手を伸ばすそれは、まるで意思を持った生き物のようで「危険だ」と私の第六感が警報を鳴らしていた。見ちゃだめだ。そう思うのに、私はそれから目を反らすことが出来なかった。


「……う……そ……」


言葉を失う。身体が固まる。衝撃的だった。私は見てしまった。人が、黒いもやに飲み込まれていくところをーーーー。足が震える。吐き気が込み上げる。なんだあれ。頭の中がおかしくなりそう。

そう、さっき、確かに私は見たのだ。黒いもやが人間を飲み込むところを。黒いもやが「生きた屍」に触れたかと思ったら、バチっと静電気が走るような小さな音がして、その人間から湯気のようなものが勢い良く流れ出したのだ。それだけでも驚きなのに、黒いもやはその流れ出た湯気をゴクリゴクリと取り込んでいく。あれはこの空間の「死」なのだろうか。理解出来ない光景に思考が停止する。

ついに体から湯気が出尽くしたその人は力なく倒れ、瞳孔の開き切った瞳が私を見つめる。やめて、見ないで。恐怖で足がガタガタ震える。喉から「あ……あ……」と言葉にならない言葉が漏れる。見ちゃいけない。早く帰らなくちゃ。そう思うのに身体は金縛りにあったようにピクリとも動かなかった。


「…ハァ……ハァ…ハァ…」


呼吸だけが荒くなる。湯気を吸い付くしたもやは、満足したように人間から一旦離れた。これで終わりか。そう思ったのに黒いもやは数秒後にまたその人間に覆いかぶさった。その瞬間、今度は亡骸がぐにゃりと崩れて肉体からドロドロとしたものが流れ始めた。それを黒いもやは啜るように飲み込んでいく。そして数秒後には、その人が着ていた服だけが人型のままポツンと残ったのだった。


私は叫んだ。声の限りに叫んだ。ここは危険だ。間違いなく危険だ。クルスとの修行の日々で「この空間にも慣れてきたなぁ」だなんて思った自分が愚かだった。間違いだった。早くここから出ないと。逃げ出さないと。一刻も早く。なによりも早くーーーーー。


もう嫌だった。
ここから出たかった。
帰りたかった。


私は、訳の分からない言葉を叫びながら狂ったように走りだした。
いや……もう、私は………




狂い始めていたのかもしれないーーーーー






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