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絹のように美しい黒髪、表情のない顔、猫のような瞳、そして手に構えられた何本もの銀色の鋲ーーー。

「…イル、ミ=ゾルディ、ック……!」


ギリッと噛み締めたミズキの口から、男の名前が自然と漏れ落ちる。この男が相手だなんて状況はかなり悪い。ミズキが腰にぶら下げたペットボトルの蓋をキュポンと弾いて愛用のナイフを手に構えると、蓋の空いたボトルから水がまるで生き物のようにうねうねと這い登りミズキの周りを取り囲んでいった。


「な、なんだ、それは!!」


ミズキの後ろで尻餅をついているガーネットが、ミズキの念を見て素っ頓狂な声を上げる。ハッ、念も知らねェのかよ。こんな雑魚に裂く時間も余裕もない、そう思うミズキであったがこの男を殺されてしまっては元も子もないので、ミズキはイルミに意識を向けながら言う。


「あいつはイルミ=ゾルディック……、お前を殺しに来た者だ」


その言葉に男が息を飲む。念は知らなくても、表と裏の両方の世界で有名なゾルディックの名前は流石に知っていたようだ。背後でわたわたと慌てふためき始める男に向かって、ミズキはポケットから取り出したものを投げつけた。


「これに『M-41』のデータをコピーしろ!!!」


メモリーカード。それをキャッチしたガーネットは、ミズキとイルミ、そしてパソコンを交互に見ては「え?え?」と狼狽えた声を上げる。


「さっさとしろ!たったそれだけで、あんたの憂いを拭ってやるっつってんだ!…安いもンだろ?」


そう言い放ちミズキは駆け出す。先手必勝。ミズキは仕事に行く時は必ず水を携帯していた。その日の天候や仕事の難易度で持ち運ぶ水の量を変え、少ないときは小さな小瓶、多いときは500mlのペットボトルを2本携帯するようにしていた。今日携帯しているペットボトルは2本。仕事の難易度に比べたら持ち出す水の量は多かったと言えたが、ゾルディック相手では全然足りない。それに鋲と水弾の相性は非常に悪い。先手先手で対応しなければあっという間に足をすくわれるだろう。


タンッと床を蹴り、距離を一瞬で縮める。射程距離。"周"をしたナイフでイルミの急所を狙う。が、切っ先が当たる前にイルミに腕をいなされる。感情も何もない無機質な瞳がミズキを見下ろしている。負けじと持ちうる限りのスピードで急所を何度も狙うが、その攻撃の全てがパシパシといとも簡単にはねられてゆく。


ーーー強い。が、これでどうだ!


息つく間もなく攻撃しながら、ミズキは周囲に巡らせた水弾を一斉に発射させた。上下左右から水弾がイルミに迫る。しかしイルミは不機嫌そうに眉をしかめるだけで驚きも焦りもしなかった。突然、イルミが水弾の着弾地点から消え去る。「あれ?どこだ?」と思う間もなく、ミズキの眼前に長い黒髪がふわりと広がる。そして直後にドガンと大きな音が鳴った。


「ぐはッ!!!」


腹部に強烈な蹴りを喰らったミズキは、背後の応接セットをガシャガシャと巻き込みながら吹き飛ばされていった。壁の本棚に背中を強打したミズキは「うっ」と小さく声を上げ、そのままズルズルと床にずり落ちる。動かなくなったミズキの上に本がバサバサと落ちてゆき、最後の一冊がバサ…と小さく音を立てた後、そこは一切の静寂となった。


「ふぅ」


その様子にイルミは小さく息を吐き、まるでひと仕事終わったと言わんばかりに首をコキコキと左右に鳴らした。そして、無機質な瞳のまま手に鋲を構え、青ざめた顔でパソコンに向かっているガーネットに体を向けた。しかし、不意に横から飛んできた何かにイルミは足を止めた。手で受け止め確認すると、その何かはオーラを纏った本だった。


「……結構頑丈だね。オーラでの"凝"も間に合わなかっただろうに。」


本の飛んできた方に目を向ければ、そこには背中の痛みに耐えながら「へへっ」と笑うミズキがいた。しかしイルミが与えたダメージは確実にミズキに残っており、ミズキの足元は心もとない。ゴホゴホッと咳こんだミズキの口から血が一筋垂れる。その様子を見てイルミが抑揚のない声で言う。


「もう邪魔するのやめてくれない?そんな体なんだし。」
「それは出来ねェ相談だ……。オレもここには仕事で来ているんでね!」
口についた血をぐいと拭ってミズキが言う。
「困ったなーー。そいつオレのターゲットなんだよね。」
手を顎に添えながら、困っているとは思えない感情のない声でイルミは言う。


相変わらずガーネットは真っ青な顔でパソコンに向かっている。なぜ自分はこの少年の言うことを聞いているのか、そもそもこの少年は何者なのか、本当に自分を助けてくれるのか、ガーネットは考えるべき諸々の事を放棄して、ミズキの指示に従っていた。おそらく、ゾルディックの暗殺者に狙われているという事実と、目の前で行われている壮絶な攻撃の応酬に、ガーネットの頭は思考停止しているのだろう。


「…コピーさえすれば…助かるんだ…コピーさえすれば…」


震える手でマウスを動かしながら、壊れた機械のように繰り返し呟いている。"ディレクションウォーター"でファイルが盗まれる不安を増大させているからだろうか。全てはミズキの思惑通り動いていると言えた。そう、この男以外はーーー。


ミズキはイルミを睨みつける。鍛え抜かれた四肢、そして筋肉。寸分の隙もないその立ち姿から、幾多の修羅場をくぐり抜けているのが感じられた。その上その身体から発せられるオーラは触れたら切れてしまいそうなほど研ぎ澄まされている。一分のミスも許されない。行くしかない。ミズキは足元に転がる本を切り刻むと、足にオーラを込めタンと床を蹴った。








イルミは辟易していた。先日仕事中に出会った少年ミズキ。彼の予想外の「死んだふり」や小気味良い返答に、わずかながら興味を引かれたのは確かである。「また会いたい」ともイルミは思っていた。しかし、今目の前にいる少年はどうだろうか。明らかな実力差なのにも関わらず無謀な攻撃を繰り返すだけで、正直言って期待はずれも甚だしかった。無茶を履き違えた猪のような突進ぶりに、イルミはもう溜息しか出なかった。


ーーーこんなくだらない奴だったとはね。


期待が大きかった分だけその落胆は大きい。あの時目を引かれた「水壁」の技も、タネさえ分かれば面白くもなんともない。あの時はたまたま浴槽数十杯分の水が噴水の池の中にあった、ただそれだけのこと。ペットボトル二つ分の水しかない今となっては、目を引かれるものも驚くような攻撃も何もなかった。


ーーー面倒くさっ………


目の前をバサバサと飛んでいく本を見やり、イルミは気だるげに息を吐く。ミズキはイルミに攻撃しながらその合間合間に壁の本を切り刻んでいた。行き場を失った大量の本の切れ端が、水弾を一定方向に動かすことにより発生した風に乗って、バサバサと音を立てて飛んでゆく。次第にイルミを中心に紙の竜巻が出来始めるが、これはバリヤードのつもりなのだろうか。イルミは首を傾げた。この本の殺傷力はたかだか皮膚を傷つける程度で、どう考えても苦し紛れの時間稼ぎにしか思えなかった。もう殺そう。そう思いイルミは竜巻に足を向ける。しかし、その時だった。大量の本の切れ端にニーっと唇を上げるミズキが映り、イルミは息を飲む。


「ーーーッ!!」


横一文字の閃光が走ると共に、ザシュッと何かが切れる音がする。赤い血液が宙を舞い、イルミが一歩二歩と後ろによろめく。手で押さえているイルミの腹部から、血がつうーっと流れ出る。


「やるね、ミズキ」


イルミが、猫のような瞳をほんのわずかに細めて言う。

なるほど、この本の竜巻は苦し紛れの時間稼ぎではなく、視界を潰す煙幕だったのか。ミズキの手に持つナイフに目を向けると、その切っ先には水が纏ってあり、さらにオーラで"周"してあった。同じ武器なのに急にリーチが伸びたのはそういうわけか。もしかしたらナイフで執拗に攻撃を繰り返していたのも真の間合いを勘違いさせるためだったのかもしれない。まんまとやられた。イルミは気だるげに息を細く長く吐いた。


………でもね?普通の人間なら身体を真っ二つにされていただろうけれど、オレはーーーーーー


ゾルディックなんだよ?


途端にイルミの纏うオーラが強さを増す。気だるさが映っていた先程の瞳とは打って変わり、鋭い瞳でイルミはミズキを見る。ぞくりとした悪寒がミズキを襲い、ミズキは「くそッ」と小さく舌を打った。あの攻撃で決められなかったのはかなりの痛手だ。


「おいっ!おっさん!コピーはまだかよ!!」
イルミから視線を離さずミズキが叫ぶ。
「あ……あ…、あと30秒…あと30秒……」
とガーネットが喘ぎながら答える。


イルミは練ったオーラを腹部に集め、損傷部分の応急手当と補強をしているようだった。長く見積もっても15秒。間に合わない。体勢を整えたイルミがゆらりと動く。

ーーーやべ!!


目にも留まらぬ速さで針が迫る。先程より数段速さを増してそれは、身体を捻って避けたにもかかわらず、ミズキの頬をえぐって飛んでゆく。速い。追い討ちと言わんばかりに、体勢を立て直そうと地面に手をついたミズキに、鋲が何本も襲いかかる。


「くそっ!」


手に持ったナイフで鋲をはたき落とすが、如何せん数が多くて捌き切れない。急所は辛うじて避けているが、イルミの鋲はミズキの腕、太もも、ふくらはぎと確実にミズキの身体を削っていった。その度に鮮血が飛び散り、ミズキがくぐもった声を上げる。あと幾つか鋲を身体に受けたら、確実に機動力が落ちるだろう。そうしたら、行き着く先は"死"だ。ミズキの顔に焦りが滲み出す。やばい。


「お、終わったぞ!」
その声に振り向けばメモリーカードを片手に叫ぶガーネットが目に入る。
「良くやった!投げろ!」
ズキズキと痛む太ももと左腕に鞭打ってミズキは矢継ぎ早に叫んだ。そして、ガーネットから放たれたメモリーカードに向かってトンと飛ぶ。しかし、そんな隙を見逃すイルミではない。伸ばしたミズキの手にイルミの鋲が深々と突き刺さる。
「うぐぁ!」
だが、ミズキは腕を引き込めはしなかった。歯を食いしばり、宙を舞うメモリーカードに向かってさらに手を伸ばす。鋲の突き刺さったままの傷口から血が跳ねる。


ーーーあと少し


方向転換のできない空中で急所を狙われたら一巻の終わりだった。しかしミズキはその恐怖を拭い去り、ただ一心にメモリーカードに手を伸ばした。やった!指先に固い何かを感じ、ミズキはそのまま手を握る。今宵の仕事の目的であるメモリーカードをなんとか手に入れることが出来た。メモリーカードをキャッチしたミズキは、笑った。唇をニヤリと歪め、目をキュッと細める。妖しげな笑み。そしてミズキは、その唇を口角を上げたまま、まるで愛の言葉を囁くように愛らしく動かした。


「じゃあ、な」


優しく蕩けるような声色でそう告げると、ミズキは腕を振りかぶった。ナイフの切っ先に付いていた水が、パシュンと音を立てて飛んでゆく。


「ぐぎゃぁぁぁぁ!!!!」


部屋中に金切り声が響き渡る。その声の主は、これでもかと言うくらい目を大きく開け、口を金魚のようにパクパクとさせている。


「…な、なんで…」


解せないと言った面持ちで問いかける男を見やりながら、ミズキはクスリと笑った。



「言っただろ?あんたの憂いを拭ってやるってなぁ」



髪を揺らしてゆっくりと振り返り、ミズキは「ふふっ」と笑った。男を冷たく見下ろすその瞳には後悔も憐れみもない。あるのは勝者と敗者の絶対的な溝だけで、イルミは人の意識を引いて止まない蠱惑的なーーー艶やかな色気さえ感じさせるミズキその笑みに、無意識に息を飲んだ。



「あんたの『憂い』、根本から無くしてやったぜ?」



水の矢で頭を貫かれたガーネットは、その場にドサリと崩れ落ちた。




[7.奪い合いの攻防 4/5 ]


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