34




チュンチュンと鳥のさえずる声が聞こえる。朝日に目を刺されミズキは眉根を寄せながらゆっくりとまぶたを開けた。


ーーーあれ?ここどこだ?


目に映ったのは陰気な路地裏と礼拝堂の十字架で、点在するどこの寝床にも該当しないその景色に、ミズキはまぶたをパチパチと瞬かせた。しかしよくよく見るとこの場所はライスとよく落ち合うのストックスの教会裏に違いなく、ミズキは安堵の息を吐いた。


ーーーあれ、でも、なんで私こんなところにいるの?


素朴な疑問が湧き上がる。昨晩は確かヒソカと一緒に超高級中華料理を食べに行ったはずだ。美味しい料理の数々に舌鼓を打った記憶もあるのにおかしい。朧げな頭に手を当てながら、ミズキは下敷きとなっていたゴミ袋の山から身体を起こした。


「痛っ!!!」


激痛が走りミズキはたまらず声を上げた。全身の筋肉が軋みをあげており、その上、頭の奥がズキズキと痛むではないか。なんだこれは。なにがなんだか分からないという顔をしながらミズキはふと目に入った袖の汚れに鼻を寄せ、その臭いを嗅いだ。


「うっげ……まさか」


それは吐瀉物の臭いだった。意識してみれば喉の奥に酸っぱいえづきを感じる気がする。もしやこの汚れは自分のものではないか、そう思い至ったミズキは恐る恐る自分自身を見た。ヒソカに買ってもらった高級スーツのジャケットとネクタイはいつのまにか消え、シャツのボタンは飛び散り、ズボンの中にしまっていたはずのタンクトップがだらしなく出ている。新品だった革靴はまるでフルマラソンをした後のようにクタクタになっており、そのうちの片方はどこかに行ってしまっている。そして極めつけは自分でさえ感じる酷いアルコール臭。


「やっちまった……」


グダグダな格好でアルコールとゲロの臭いを漂わせながら路地裏のゴミ袋の上で寝ている奴だなんて、誰がどう見ても酔っ払いにしか見えない。さらに、極度の疲弊に加えてオーラ使用後に起こる独特の倦怠感を感じているとくれば、行き付く答えは一つしかなかった。


「酔って、ヒソカに喧嘩…売ったのか?」


深酒して以降の記憶はなかったが、それ以外の答えをミズキは見つけることが出来なかった。『僕に喧嘩を売るなんていい度胸だね◆ イイだろう、望み通りコテンパンにしてあげるよ♣』と言って喉を鳴らすヒソカが頭にありありと浮かび、ミズキはがっくりと肩を落とした。酔っ払いだからと言ってヒソカが攻撃を手加減するとは思えない。「命があって良かったぁ……」とミズキは、ヒソカに襲われたことも自分自身に念を掛けたことも真夜中の街を四時間近く走り続けたことにも気づかぬまま、大きくため息を吐いたのだった。


「うわぁー、ミズキ、酷い格好ぉ」


見知った気配を感じて後ろを向くと、浮浪児仲間のライスが牛乳瓶の入った箱を首に掛けたまま近づいてくるのが見えた。牛乳配達の途中なのだろう。


「よぉ〜、ライス。朝早くからご苦労さんだな」
ゆっくり立ち上がり声を掛ける。
「朝早くじゃないよぉ、僕もう新聞配達終わったよ?」
日が登る前から仕事をしている彼にとって朝の六時は十分遅い時間なのだ。
「そっか、ライスは偉いな、オレとは大違いだ」
胸を張るライスの頭をくしゃっと撫でると、ライスが嬉しそうな声を上げる。
「えへへ、僕頑張ってるでしょぉ」
「あぁ、そうだ、頑張ってるな」
「うぅ……、それにしてもミズキ酷い匂い……お酒臭ぁーーい」
「ん?そっか?そんなに臭う……か?」
自分の服をクンクンと嗅ぐ。鼻が慣れてきたとはいえ確かに臭うものは臭う。
「うん、臭い。ダラス爺さんくらい臭い」
「ちょ、ライス、それは言い過ぎじゃねェか?あんな数年は風呂入ってねぇ爺さんと一緒にするなって!」
「あはは、ミズキが怒ったぁーー」
「ったく……。それより、ライス、時間はまだいいのか?」
「時間?うーーん、あと10分くらいは大丈夫ぅーー」
「そっか、じゃあこっち座れよ」
腰掛けたブロック塀をとんとんと叩くと、ライスが牛乳瓶の詰まった箱をカチャカチャ揺らしながら駆けてきた。
「んしょっと!」
ライスの動きに合わせて牛乳瓶がカタンと音を立てる。
「相っ変わらず重そうだなそれ。それに何だかいつもより数が多い気がするしな」
「あ、分かる?さすがミズキ! 実はね、ゴシンキさんが二人増えたんだぁ」
「新規ねェ。どこの家のヤツ?」
「うぅーーんと、赤レンガの坂を右に曲がって三軒目の所と、ウェルフェストリートの58番!」
「お、番地まで覚えてんのか?やるな!」
意気揚々と答えるライスの頭をくしゃりと撫でる一方で、ミズキはライスから見えない所でニヤリと唇を上げた。


ーーーなら、順番は変わってねェな


鋭い目でライスの持った牛乳箱を見やり、ミズキは快活な声で話しかけた。
「肩痛くねぇか?オレと話してる時くらいそれ置けっていつも言ってるじゃねェか。ほら、オレが持ってやるから」
そう言ってミズキは配達箱に手を伸ばす。しかしライスはそれを嫌がり、ぷくっと頬を膨らませた。
「えーーいいよ。ミズキ、ボロボロなんだもん。渡したら落っことされちゃいそうーー。そんなことになったら僕が親方に怒られちゃうじゃん」
二日酔いでぐだぐだのミズキに向かってプンスカ怒りながらそう言うと、ライスは配達箱をミズキとは逆の場所にそっと置いた。


ーーーくそッ、その距離じゃヤれねェじゃねぇか


ミズキの顔が険しくなりその目が冷たく光る。しかしそれは一瞬のことで、ミズキの顔はすぐにいつもの"気の良いお兄さん"のそれに戻った。その変化にライスは気づいていない。無邪気な顔でここ数日この街であった出来事を身振り手振りを交えて話している。


「そっか、ルーラの寝床が荒らされたのか……。それはたぶん浮浪者狩りの連中だな。奴らは遊び半分で寝床を荒らしていくからなぁ」
配達箱に意識を向けながらミズキはライスの話に言葉を返す。
「せっかく貯めたお金を盗られちゃったってルーラお姉ちゃん泣いてた……」
「でもそれはルーラが悪い。寝床はちゃんと定期的に変えろって、オレ前にあいつに言ったぜ?それに金は肌身離さず身につけるか貴金属に変えて足首に括り付けとけって言ったのにそれをやらねぇから……なぁ?」
「う……うん」
「それが嫌ならどっかのチームに入るしかねぇよ。南の川向こうの奴らか、駅裏のあっち。スリとたかりの仕事をさせられると思うが、のたれ死ぬよりマシだろ」
「でも、ルーラお姉ちゃん、チームに入ったらいつかウリをしなくちゃいけないから、それが嫌だって……」
「……仕方ねぇだろ」


ミズキは冷たく言い放つ。『自分の身は自分で守れ』その鉄則が守れない人間は遅かれ早かれ搾取される弱者に転落する。『弱い奴』になったら最後、待ち受けているのは『死』のみだ。


「ま、とにかくだ。浮浪者狩りで荒稼ぎしている連中ならいざ知らず、話を聞く限り荒らしている奴らはただのガキどもっぽいし、そういう奴らを特定するのは難しいぜ?」
「うーーん、そうだよね。僕もそう思う……」
「今回オレがしてやれることは何もねぇな。……って、そんな顔するなって、ライス。オレにだって出来ることと出来ないことがあるんだ」
「分かってるよぉ……」
悲しい顔をして下を向くライスの肩に手をぽんと乗せる。
「いいかライス? オレだっていつもお前らを助けられるわけじゃねェ。何度も言っているから分かってると思うが…『自分の身は自分で守れ…」
「さもないと『弱い奴から死んでゆく』でしょ、ミズキ?」
「お、おぉ…その通りだ」


目の前の少年は10歳にして世の中の不条理を飲み込み始めている。平和な世ならランドセルを背負って学校に通う年頃だろうに、腹いせや憂さ晴らしに意味もなく殺され売り飛ばされるこの国ではそうは言っていられない。


ーーー逞しくなったもんだぜライスも。考え方に甘さが抜けてきてるし、行動もしっかりとしてきている。なにより……商品をダメにされるのを危惧してオレの言葉を跳ね除けるようにもなってきたしな。ハッ、小賢しくなってきやがった。……だがな


唇の端でフッと笑うと、ミズキは腰掛けていたブロック塀から飛び退いた。「おっと!」慌てたようなその声と同時にミズキはよろめき、そしてライスの膝下に覆い被さる。


「ミズキ!大丈夫!?」


ミズキはライスと配達箱との間のコンクリートに手をつき、済まなそうな顔をしながら頭を上げる。手と配達箱との距離は15cm、ミズキの"念"が届く範囲だ。


「あぁ、すまねェな…なんだかまだ酒が抜けてねェらしい……」


左手を額に当て緩慢な動きで頭を振る一方で、ミズキは木箱の側に置いた右手に意識を集中させた。狙いは上から四つ左から五つ目。オーラを静かに練る。


【操られたマリオネット(ディレクションウォーター)】


ミズキは念を発動させた。目標の瓶の中で牛乳が白いうねりを上げる。ポチャンと異様な水音を立てた後、その牛乳瓶は他の瓶と同じように静かになった。よし終わりだ。笑いを噛み締めながらミズキはゆっくりと体を起こした。


「悪ぃな、ライス。何だか疲れが抜けてねェみたいだから、オレそろそろ帰るな」
「あ、うん!僕もそろそろ行くよっ!」


水は様々なものを記憶する。代表的なものが残留思念で、水に記憶されたそれは時に心霊現象として人々を驚かせる。その仕組みも原理もまだ科学的には解明されていないが、しかしミズキは経験上知っている。水が確実に思念を記憶することを、そして常人より強い意志とオーラを持つ念能力者のソレが人を操るほどの威力を持っていることをーーー。

配達箱を首に掛けて体を起こしたライスの肩にミズキはぽんと手を置き、そして口を開く。


「配達、頑張れよ……」


そう言って、ミズキは唇をニーっと吊り上げた。




[7.奪い合いの攻防 2/5 ]


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