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笑い方を忘れてしまった

楽しいという感情を忘れてしまった
嬉しいという感情も忘れてしまった
悲しいという感情も忘れてしまった


喉を刺す飢餓感
まとわりつく虚無感
そして絶え間ない絶望感


許容量を越すそれらに、もう一歩も歩けない



狂 ッ テ シ マ イ ソ ウ



貴方の声だけが救いだった






7.奪い合いの攻防






私がこの異様な空間に来てから2週間が過ぎた。太陽が登らないから正確な時間は分からないけれど、体内時計と照らし合わしてだいたいそれくらいの時間が経ったと思う。夢なら目が醒めてーーー、と毎晩眠りにつく前に呪うように願うけど現実は一向に変わらなくて、私は目を覚ますたびに言いようのない絶望感を感じていた。

お腹も空かない排泄等の生理現象も一切ないこの感じは夢の中にいる時のような感覚に近いのに、自分を叩けば痛みを感じたし腕を引っ掛けば血が出た。物を触った時の感じも、鼻で嗅いだ匂いも、肌で感じる風も、何もかもがリアルで、私も遠巻きに見ていた人間も一人一人に名前があり過去があり家族がある今まで出会ってきた人たちと何一つ変わりのない普通の人間だった。何が夢で何が現実なのか。もう分からないーーーー。次第にこの夢が現実になって今までいた現実が夢になってしまうのじゃないかそんな妄執が頭をよぎり、夢と現実の境界が混じり合っていくような言いようのない感覚に私の心は押しつぶされそうだった。


そうしてまた一日が過ぎた。


やることがない私は、起きている間はこの空間を歩き回った。どこかに出口があるのではないか、その希望を胸に一日中歩き回った。色んな人に声を掛け、出口がないか聞き回った。何人の人に聞いたか分からない。私の行為を「無駄だ」とあざ笑っている人もいたけれど、一度でも立ち止まったらそのまま「この世界」が現実になってしまうような気がして、私はそれをせずにはいられなかった。だけど、誰一人として出口を知っている人は見つからなかった。


そしてまた一日が過ぎた。


私が出口を探し始めて一ヶ月が経った。けれど私は変わらずこの空間にいた。でも、出口を探し求める日々も決して無駄ではなく私はこの空間について色んなことが分かってきた。まず一つに、ここはおじいさんが教えてくれた以上に広い空間だということ。おじいさんは、ここを「全部回ったら一日はかかる広さ」と言っていたけど、実際はもっと広い。確かに一番広い空間とそこから派生する空間を回るのには一日から一日半くらいだけど、人一人が通れるくらいの小さい道やそこから先の空間を合わせると全部回るのに一週間はかかった。その道の大半は行き止まりだったり元の道に戻ったりとしていたけど、私はこの道のどこかに出口があると信じて疑わず、今日も今日とて出口を求めて歩きさまよっていた。

そして二つ目に、ここには『別の世界』の人がいるということが分かった。住んでいる国が違えば、習う歴史も身につく常識も思想も観念も違ってくる。物に不自由しない先進国の日本に生まれ育った私と、その日の暮らしにも困る途上国に育った人間とでは、物事の捉え方が全く変わってくる。私は初めこの空間にいる何人かと話が噛み合わないのはそういう違いから来る物で、おじいさんの言うように『自分の知っている世界』とは『似て非なる世界』のせいだとは思ってもいなかった。だけど、世界共通言語が「ハンター語」だったり、世界地図の位置や形や国境やらだ明らかに私の知っているモノと違ったりだとか、『別の世界がある』と考えなければ説明のつかない色々なことを知ってからはその考えを改めるようになった。そう、ここには間違いなく私やおじいさんのように『私の知っている世界』から来た人と、『私の知っている世界とは似て非なる世界』から来た人がいたのだ。


折り曲げた腕が疲れを伝えるようにギシと音を立てる。やっぱり長時間この態勢はキツい。私はほふく前進をやめて休憩のためにその場に突っ伏した。私は今、人一人が通れるくらいの大きさの穴を四つん這いになりながら進んでいた。かれこれ1時間近くなる。


「ふぅ〜、疲れた。」


身体の捻じると身体中の関節ががボキボキと音を立てた。この穴は『子供が入るには入口が高過ぎて男の人が通るには狭過ぎる』そんな穴で、しかも入口が分かりにくい所にあった。何度もこの穴の近くを歩いているにも関わらず私がこの存在に気づいたのは昨日で、だからだろうか、私はこの穴が出口に繋がる唯一の穴なのだろうと強く信じていた。


「よっし!」


疲れた体に鞭を打って、私はほふく全身を再開する。光も届かない音も聞こえないこの場所では、否応無しに色々なことを考えてしまう。お父さんやお母さんのこと、大学の友達のこと、繰り返し見ていたあの夢のこと、アマンダさんのこと、ここに来て出会った人たちのこと、そして、『私の知っている世界』と『似て非なる世界』のことーーー。考えたところでどれも答えは出ないのに、色々なことが取り留めなく浮かんでは消えてゆく。


『ここには出口なんてないよーーー。』


頭の中で数時間前に会話した金髪の青年クルスの声が唐突に響いた。嘘だ。振り払うように頭を振る。『何ヶ月も掛けて見回ったんだから間違いないよ。』と追い打ちを掛けるようにまた声が蘇る。数時間前に会話をした彼は、亡霊のように虚ろな瞳をした人が多い中で珍しく力強い瞳をしていて、その瞳の強さからここから出る何かを知っているのではないかと思って声を掛けたのだ。なのに、結局返ってきた答えはいつもと変わらない否定の言葉だった。


ーーー嫌だ、信じない。


疲れた腕を叱咤してさらに進む。『俺はこの空間を"エン"をしながら歩いたんだ。俺の"エン"はそんなに広くないけど、それでも普通の人より探知能力は高いはず。その俺でも見つけられなかったんだ……ここには出口はないよ』と、"エン"だとか"ネン"だとかよく分からない専門用語を使って語る彼の言葉はとかく説得力があった。何だかそんな感じの言葉をどこかで聞いたことがある気がするし、理知的な瞳で丁寧に語られる彼の説明にグラリときて信じそうになる自分がそこにはいた。でも、私が聞きたいのは『見つからない理由』じゃなくて『出口がどこにあるか』という答えだけ。私は彼のどんな説明も拒絶して踵を返したのだった。


「この先に……この先に、必ず出口が……」


繰り返し繰り返しその言葉を呟く。もしかしたら皆が言うようにここには出口がないのかもしれない。いや、違う、負けちゃダメだ。諦めたらそこで終わりだ。挫けそうになる自分を叱咤して、私は身体を動かす。とその時、頭にゴンという衝撃を受けた。


「え……まさか……」


顔を上げた先にあったのは一筋の光ではなく変わらずの暗闇だった。嘘。手を伸ばす。希望に反して感じたのはゴツゴツとした感触だった。この先に続きそうな裂け目も道もない。嫌だ、信じない。ここが行き止まりだなんて……。


『ほらね、言ったじゃないか、出口なんてないって。』


クルスの声がまた聞こえた気がした。
「うるさい、うるさい、うるさい!!!!」
壁を叩いて私は喚く。
「"ネン"だとか"エン"だとか"オーラ"だとか、何がそんなに偉いのよ!!他に出口があるかもしれないじゃない!!まだ見つけてないだけで……まだ、気づいていないだけで……そう……まだ………。」
嗚咽が込み上げる。
「"ネン"がなんだって言うのよ……、"ネン"が…………って、え、ちょっと待って……"ネン"?」
何かが胸に引っかかる。


『んふふ、誰にも言っちゃダメよ?あなただけに私のとっておきの「秘密」教えてあ・げ・る』



唐突に声が蘇る。何度目かの夢で見た見たアマンダさんと男の会話。いつも通りSEXを終えた彼女は、艶やかな黒髪をかき上げながら隣に寝そべる男の人の耳元に何か言ったのだ。そうーーー、確か、あの言葉の後に彼女はこう続けたのだ、『私の"ネン"はねーーー』と。


「"ネン"?」
確かに彼女はそう言った、"ネン"ーーーと。
「………なんで?なんでアマンダさんがそんな事を……?"ネン"だとか、"オーラ"だとか、なんで、なんで!?」


ーーなんで、こんなところで二つが繋がるの!?


指先がガタガタと震え出す。アマンダさんが言った"ネン"と"オーラ"、そして、男達から気力・精力を奪ったよく分からない現象。これが金髪の青年クルスが説明していた"ネン"と"オーラ"にピタリと当てはまる気がする。今までうやむやにしていたピースがカチリカチリと組み合わさっていく。


ーーー嫌だ、信じたくない。


"ネン"と"オーラ"という概念のある世界。ただ一つの世界共通語「ハンター語」を喋り、超能力のような見えない力が跋扈する世界。私たちの知っている世界とは似て非なる世界。そう、アマンダさんが『この世界の人間』だと考えれば全てが繋がる。


「ハハッ……笑えない……アマンダさんは実在するってこと?私の脳内じゃなくてさ……」


乾いた笑いが口から漏れる。
脳内の夢の設定がこんな場所で偶然一致するなんて思えない。
私の知らない知識がこんな所で一致するだなんてあり得ない。


「ハハッ…夢を見る度「ハンター語」を喋る世界に迷い込んでたってこと?…笑えない、笑えないよ……。」



それとも、私はまだ長い長い夢の途中にいるのだろうか。
もうわからない。頭がおかしくなりそうだった。


『出口なんてないよ』


青年クルスの声がまた響いた気がした。
今度は真実味を持って私の肩にずしりとのし掛かって。
嗚咽が込み上げる。




ひらり ひらりと 私は彷徨う
ゆらり ゆらりと あてどなく

何が夢で何が現実か分からない
そんなままで私は彷徨う
望みにすがって いつまでも

ひらり ひらりと 虚ろな瞳をその身に宿して
ゆらり ゆらりと 重い手足を引きずって

それでも出口は見つからない
私はうずくまり、涙を流した



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