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ポタ…ポタ…ポタ

指先から流れ落ち、地面で砕ける雫たち

ポタ…ポタ…ポタ

一人、また一人と減ってゆく彼らたち


私は歩く、出口を求めて
私は歩く、自由を求めて
私は歩く、阻むもの全てを超えて


私は歩く


狂気が私を支配した

アカに染まった私の手が
また赤く紅く朱く濡れた






6.中華料理の罠




目を開けると、そこは辺り一面の闇だった。


アレ?何があったんだっけ?と、疑問符の残る頭をフル回転させて考えてみるけれど、自分の置かれた状況がいまいち良く分からなかった。とりあえず周囲を見渡してみる。それで分かったのは、どうやら私は人の気配のしない薄暗い空間に倒れていたらしいという事だった。

「え……え!?」


意味が分からない。暗闇に慣れてきた目で辺りをもう一度見渡してみるけれど、誰かの部屋というわけでもどこかの空き倉庫というわけでもない、例えて言うならどこかの洞窟のようなこの薄暗い空間に、私は全くもって心当たりがなかった。


「ここ……どこ?」


言い知れぬ不安に首筋がピリピリと粟立ち、指先が震え出す。
待って待って、状況を整理しよう。手をぎゅっと握って深呼吸をする。そう、私はさっきまで夢を見ていた。いつもの美女が男の人とSEXをするあの夢だ、それは間違いない。あの美女ーーーアマンダさんが、恋人とベットの上でイチャついていたのも覚えている。


「……もしかして、誘拐?」


この夢を見るということは、私はどこかで寝ていたことになる。ベッドで寝ていたの、教室や電車の中で居眠りをしてしまったのかはたまたどこかで白昼夢を見ているのか、それは自分でも分からないけれど眠りこけている私を誰かが誘拐してこの場所に連れてくるという可能性がなくはなかった。

「そんなはずあるわけないじゃん。落ち着け……落ち着け、冷静になれ…私……。」


頭に浮かんだ考えがどれだけ現実離れしたものか、それは自分でも痛いくらいわかっていた。一般家庭に生まれ育ったごくごく普通の大学生の私を誘拐するメリットは一切ない。ストーカー被害にあった覚えも、犯罪に巻き込まれる危ない場所に行った覚えもない。手や身体を縛られているわけでも、どこかに監禁されているわけでもない。自分の肩をひしと抱く。


「誘拐なわけない……となると、ここは一体どこ……なの?」


恐々と周りを見渡しながら立ち上がる。と、その時、頭がぐらりと揺れて私は思わずその場でたたらを踏んだ。クラクラする。ジェットコースターから降りた時のような平衡感覚の覚束ないその感覚に、背筋に冷たいものが走る。

嫌な予感。この感覚に覚えがあった。意識が途切れる寸前に感じたものにとても似ている。否が応でも意識が途切れる寸前に見た光景が頭に浮かぶ。黒髪美女、アマンダさんのこれ以上ないってくらいの幸せそうな顔と、そして感じたあの感覚ーーー。


「…お嬢ちゃん、可哀想に…君もココに吸い込まれてきたんだね。」


突然聞こえたその声に体をビクリと強張らせる。「だ、誰!?」と声を上ずらせながら振り返る。もしかしたら誘拐した犯人かも、とも思ったけれど、振り返った先に居たのは小柄な60代くらいのおどおどした感じのおじいさんだった。浅黒い肌に少し癖のある黒髪が、彼が日本人ではない事を物語っている。


「おじさん……誰?私を連れてきた人……?」
恐る恐る問いかける。
「ん?連れてきた?……いや、わしは何もしとらんよ。」
悲しげな顔で首を横に振る彼から、邪悪な感じは感じない。
「あ、そっか……。あなたも連れて来られた人なんだね……。」
「連れてこられた?」
「あ……、うん。いや、それより私の他に人が居たんだね、気づかなかった。」
「あぁ、人か……。ココには結構な人数の人間がいるぞ、ほら向こう側に。」


おじいさんの指し示した方向をじっと見る。薄暗いせいで良く見えなかったが、確かにおじいさんの言うとおりもぞもぞと動く人影があるような気がした。


「あ……確かに人がいる。」
「そうだな、ココにはだいたい300人くらい人がいる。まぁ、詳しい人数はわしにも分からん。キミのように新しく来る子もいるからのう。」
「300人も?……ってか、新しく来る子……って私のこと?え?え?おじさん、私が連れて来られた所見てたの?ねぇ、誰が連れて来たの!?それよりここはどこなの!?どうやったら帰れるの!?出口はどこ!?」
「まぁまぁ、お嬢ちゃん、落ち着きなさい。まず、わしの知っている事を話そう。」
「あ……、はい……。すみません、何が何だか分からなくて、もう頭がこんがらがりそうで……。」
「あぁ、泣かない泣かないの。」
「な、泣いてはないですけど……もうどうしたらいいか分からなくて……。」
「そうだな、まず、ココについてだが。ココは意外と広い。全部回るのに一日はかかる。」
「え!?そんなに広いんですか!?」
「そうじゃ。そして、ココには………、お嬢ちゃん、取り乱さないで聞いて欲しい。ココには、出口がない。」
「……え?」
「ココに吸い込まれて数ヶ月……時間感覚が狂うので正確な日数は分からんが、その間中わしはずっと出口を探している。だが、未だに見つけることが出来なんじゃ……」
「でも、さっき、私が連れて来られたって……。…え?ちょっと待って、おじさん、いま……今、何て……言った?」
「出口が見つからない、と。」
「違う!そ、その前……。」
「前?」
「す、吸い込まれた……って……?」


口が乾く。心臓が鷲掴みにされたみたいに痛い。首の後ろがピリピリして、震えが止まらなかった。嫌な予感がさらに強くなる。意識を失う前に見た映像が脳裏にこびりついて離れない。

辺りを見渡す。目が慣れてきたせいだろうか、周囲にいる人影がさっきよりくっきり見えるようになった。肌の黒い黒人に、髪の黄色い欧米人、年老いた人間に、まだ若い人間、人種も性別も年齢も様々な人たちがそこにはいた。そこにいる彼らが「可哀想に……」「あの子もそうか……」と口々に呟くのが聞こえる。


ーーーなんで?


嫌な予感がさらに強まる。目の前のおじいさんをまじまじと見る。明らかに日本人と思えないその風貌。おそらくタイやフィリピンといった東南アジア人のような風貌。

「な……なんで……」


私は人並みにしか英語が話せない。センター試験のリスニングでまあまあな点が取れる程度だ。大学で習った第二外国語だってやっと会話が拙い感じで出来るようになったぐらいだった。


「ねぇ、なんで……?なんでなの!?」
「ど、どういたんだい?」
「ねぇ、おじさんは日本人?日本人なの!?」
「いや、私はインドネシア人だ。」
「じゃ、じゃあ、日本語がペラペラなんだね!?そうなんでしょ!?」
「いや、違う。わしは日本語なんか喋れない。」
「……どういうこと?」
「わしは今、君にインドネシア語で話しかけている。君の喋っている言葉もインドネシア語に聞こえる。」
「ま、待って……、私にはおじさんが喋っている言葉が日本語に聞こえるよ……?」


いやだ、やめて。お願いだからーーーー。足元から闇に侵食されていくようなその感覚に、今にも倒れそうだった。息が荒くなる。

昔、考えたことがあった。アマンダさんが話している言語は何語なのかって。明らかに日本人ではないラテン系な雰囲気のある彼女と、様々な人種の男の人たち。ベットで話されている言語は日本語だったけど、彼ら全員が日本語ペラペラなのはおかしいな……って思っていた。でも、アレは私の夢でしかなくて。例えて言うなら日本語に吹き替えしてある映画のようなものだと思っていた。

だけど、その現実が目の前にあった。物陰の向こうでぼそぼそと話している明らかに日本人に見えない彼らの会話を、私は聞き取ることが出来た。ーー日本語で。

「う……そ…………」

慌てて自分の手を見る。そこにあったのはいつもの私の手。半透明でも透けてもいない。なんで?意味がわからない……。目の前のおじいさんに勢いに任せて手を伸ばす。


「う…そ……。さ、わ……れる。触れる!なんで!?」
「ど、どうしたんだい!?」
「触れる、触れるよ!?ほら、通り抜けない……。なんで!?どうして!?」
「大丈夫かい、お嬢ちゃん。」
「あれ!?私、浮いてない!立ってる…歩いてるよ!?ねぇ!?」

おもむろに自分の右頬を叩く。バチンと乾いた音が立つ。痛い。反対側の手で左頬を叩く。さっきよりも大きな音がする。痛い。頬っぺたがじんじんする。

「痛い……痛いよ……。」
へなへなと力なく座り込む。
「お嬢ちゃん……。」


おじいさんが私の背中をそろそろと撫でる。人の優しが身に沁みる。鼻の奥がツンとした。でも、そんな感傷はおじいさんがポロリと零した言葉に掻き消されてしまうのだった。


「でも、良かった……。」
その言葉に顔を上げておじいさんを見る。
「いやいや、すまん。そういう意味じゃない。お嬢ちゃんがここに来て良かったという意味ではなくてな。そう……お嬢ちゃんが日本人で良かった、そういう意味じゃ。」
話の要領が掴めないけれど、どうやら私が日本人だということが嬉しいらしい。
「本当に良かった……。お嬢ちゃんが日本という国の人間で。インドネシアという国を知っているーーーー『同じ世界』の人間で良かった。」


ーーーーえ?


目を見開く。私を捕えたこの空間が、ドクンと音を立てた気がした。

「実はな、ココには、フランス語でもスペイン語でもポルトガル語でもましてや英語でもない言語……『ハンター語』が世界共通言語だと言い張る連中が居るんじゃ。」
おじいさんが悲しげな顔をしながら口を開く。
「それもな、一人や二人ではない。知らない国、知らない地名、知らない歴史をさも当たり前のように話す連中がたくさんおるのじゃ。」
「……」
「初めはわしをペテンにかけようとしているのかと思っておったが、どうやらそうじゃないらしい。わしも未だに良く分からんのだが、おそらくわしらの住んでいた世界と似て非なる世界があるようだ。」
「………え?」
理解が追いつかない。意味がわからない。
「そう簡単には信じられん話かと思うが、わしはこの数ヶ月間でそういう結論に辿り着いたんじゃ。」
「な……にそれ。意……味、分かんない……。意味分かんない!!!」
おじいさんの手を振り払って立ち上がる。


おじさんの言った意味を考えるのも嫌だった。何もかもが嫌だった。帰りたい、帰りたい。私の知っているところに。お父さん、お母さん、由紀、みんなーーーー。



帰りたい
帰りたい
帰りたい
帰りたい




この空間が嫌だった。暗くじめじめと陰険な雰囲気漂うこの空間が。私の事を伺うように見ている物陰の向こう側の人達も、目の前の心配げなおじいさんも、頬を撫でる生暖かい風も、足から伝わるどくんどくんという振動も何もかもが嫌だった。


「い……や……。いや、嫌っ、嫌ぁぁぁーーーーーー!!!!」


私は走り出した、当てもなく。絡みつく足も気にせずに、転んで付いた傷も気にせずに、走り続けた。出口を求めて、がむしゃらにーーーー。



嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ…………。お願い、夢なら目が覚めてーーー。



私は願った。呪うように願った。


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