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「月が綺麗だね。」とクロロに促されて見上げた空では、赤い満月がまるで黒いキャンパスに落とされたひとしずくの血痕のように不気味に光っていた。それを見た瞬間、忘却の彼方に追いやっていたはずの様々な感情がぶり返し、ミズキは両肩に鉛のような重量を感じた。


ーーーー月は嫌い、特に今日みたいな満月は。黒髪と鮮血を連想させるから。でも、でも……月は嫌いで好き。月を見ると、あの人の笑顔を思い出すから。


ミズキはギリと唇を噛んだ。そうしなければ、胸を掻きむしる切ない想いに今にも叫んでしまいそうだった。


「ねぇ、クロロ。貴方、満月は好き?」


気づけばそんな質問をしていた。そう尋ねた瞬間、クロロが顔を歪めたように見えたが、自分の事で手一杯なミズキはそれを別段気にはしなかった。


「満月……か。」


真意を探るような目つきでクロロがミズキをチラリと盗み見る。好きと嫌いどちらが正解だろうかとクロロは考えるが、現段階では情報が少なすぎて答えが導き出せない。どの言葉からでも女が悦ぶような甘いセリフへと繋げることが出来たが目の前の少女はどうやら勝手が違うらしい。正解が分からないのなら思うまま答えよう、そう思いクロロは口を開いた。


「月は…嫌いだ。全てを見透かした目でオレを見下ろすから。でもーーー。」


そこで言葉を切ると、クロロは真剣な眼差しで見つめてくるミズキからそっと顔を反らした。自分で自分に言い聞かせるような口調で言う。



「でも、オレは…そんな月の下でしか動くことができない。太陽は……眩しすぎるからな。」



今までより数トーン下がった声でぼそりと放たれたその言葉が、なぜかミズキには今まで言われた言葉の中で一番クロロの感情が込もっているように思えた。光を切望しながらも闇でしか生きることができない存在、もしかしたら私たちは近いのかもしれない。クロロの過去や経歴や素性を全く知らなかったが、ミズキはなぜかそう思った。


「私も…月は嫌い。嫌い、嫌い、嫌い…、大…嫌い。……だけど。だけど…どうしようもないくらい…好き、なの……。」


『好き』


それは、どこにでもあるありふれた言葉だった。しかし、一度言葉にするとそれは水の波紋のようにミズキの心に広がってゆき、心の奥底に沈めたはずの色々な感情を次から次へと揺り起こしていった。白いワンピースの裾を力のままにぎゅっと握る。



(ーーあぁ、まただ。)



目に"凝"をしながらクロロは思った。オーラを練ったわけではない、念を発したわけでもない。それなのにクロロはミズキから発せられる"何か"を感じた。それは、風のようで、光のような、とにかく形容し難い"何か"だった。


(何だ、これは……)


目の前で小さな肩を震わすミズキ。唇を血が出るほど強く噛み締め小さな体ではち切れんばかりの強い衝動に耐えるその様子は、まるで割れる寸前の風船のようだった。少しでも力を加えたら壊れてしまうのではないだろうか。

分かったような顔をしてハンカチを差し出すこともその場限りの都合の良い慰めを吐くことも情熱的な熱い抱擁でこの場を誤魔化すことも出来たが、そのどれもをクロロはしなかった。ただ、迷うような躊躇うような動きでミズキの髪をそろそろと撫でたのだった。

春先の夜風が二人を包むようにふわりとそよぐ。


「ーーっ」


ミズキが弾かれたように顔を上げる。クロロをじいと見つめるその瞳は、まるでクロロにすがりつくようだった。その視線を受け止めるようにクロロが確かな動きでミズキの髪を優しく撫でると、噛み締められていたミズキの唇から力が抜けていった。消え入りそうなほど小さな声で「クロロ…」と呟くと、ミズキは唇をわななかせながら途切れ途切れに言葉を紡いだ。


「クロロ……あのね…あのね、私ね。満月を見ると思い出すの、…あの人の事を。小さい頃、二人で手を繋いで満月の下を歩いたことを……。私に微笑んでくれた優しい笑顔を……。私を包み込んでくれた温かい手を……。」



「女の姿」をしているせいだろうか、それともクロロがミズキの過去も経歴も素性も何も知らないと分かっているからだろうか、それともクロロが自分と近い存在かもしれないと思ったからだろうか、いつもなら押し殺すことの出来るはずの感情がミズキの胸に次から次へと溢れてきた。

堰を切ったように流れ出した感情は止めようがなく、ミズキはその小さな肩を震わせながら、胸の中で暴れまわる感情を込み上げるままに吐き出した。



「…あの人がいなかったら今の私なんて存在しないのに!絶望の淵から救ってくれたかけがえのない人なのに!!大切な人なのに!!なのに………なのに………私は……。」



ミズキの肩が小刻みに震える。絞り出すように吐き出されたその言葉その叫びに、ミズキから放たれる"何か"が増す。


(ーーーこれは、色か…)


ミズキを見ながらクロロは思った。目に見えたわけではない、実際に存在したわけでもない 、確固たる裏付けがあるわけでもない、しかしクロロはそれを色だと感じた。

初めに感じたのは赤だった。感情が燃え立つようなそれは、まるで命尽きる寸前に辺りを紅一色に染め上げる夕陽のようで、一度その存在に気づいたら最後足を止めて空を仰ぎ見るまで逃れることができない筆舌に尽くし難い不可抗力の魅力があった。

しかし、その後すぐにそれに追随し覆ってゆくような黒い色をクロロは見た。まるで溶かしたアスファルトのようにドロドロしたソレから、クロロは「嫌悪」や「後悔」や「苦悶」といった後ろ暗い感情を感じた。実際に見えたわけではないが、クロロはそう思った。

それが今はどうだろうか。先ほどの燃え上がる赤と黒から一変し、透明感のあるコバルトブルーがミズキを中心に広がっている。時に濃く、時に薄く変化しているそれは、波の揺らぎによって色を変える海のようだった。



「……月は嫌い、なのに……凄く凄く、好き…で。」



この感情は何という名前なのだろうか。まるで太陽の光を反射する水面のようにキラキラと揺らめきながら光るそれは、とても穏やかで心地良かった。いつまでも浸っていたくなる魅力がある。クロロの中でミズキに対する興味が更に湧く。

少女の震える唇も、華奢な肩も、小ぶりな胸も、引き締まった腰も、すっと伸びた手足も、手を伸ばせば届く距離にあった。手を出さずにいる謂れがなかった。


「ミズキ……」


そう言うと、クロロはミズキの唇を奪おうと顔を近づけた。










クロロとミズキの顔が近づく。下を向いているミズキは気づいていなかったが、クロロの顔はミズキが上を向けばすぐにキスが出来てしまうほどの距離にあった。あとは一言二言声を掛けて上を向かせれば済む。そうクロロは考えていたが、声を掛ける前にクロロの動きがピタリと止まった。辺りを彩っていた青色が突然消え去り、深い闇のような黒色が辺りを一瞬で飲み込んだからだった。


「……あっ……カッ……はっ……!」


ミズキが苦しそうに息を詰まらせ、瞳孔の開いた目でまばたきもせずに自分の手を見ている。何があるのだろうかと訝しげにミズキの手を覗き見るが、おかしな点は何もなかった。



「…なんで……なんで……私の手、血だらけなの……?」


何もない手を見てミズキが声も途絶え途絶えに呟く。ミズキの瞳には何が見えているのだろうか、クロロには分かりようがなかったがミズキのその手はカタカタと震えていた。


「…な、…んで………なんで、あの人が…血まみれで…倒れてるの?」


焦点の合わない瞳で宙を見ながらミズキが言う。もちろんそこにも何もない。幻覚だろうか。何が起こっているのか分からない。ただ、全ての光と色を飲み込むような漆黒が、その存在をさらに濃くした事だけは紛れもない事実だった。



「や……イヤ、イヤァァァァァーーーー!!!」
突然ミズキが叫び出す。
「ミズキ!大丈夫か!?」
考えるより先に体が動く。クロロはミズキの肩を掴んでガクガクと揺すった。
「あ……カッ……はっ……ぁ、……はぁはぁ、…ク、クロロ?」
クロロに揺り起こされ、ミズキの瞳に光が戻る。
「ミズキ、どうした?何があった?」
「なに…って……手が…血だらけで……」
そう言ってミズキは自分の手を恐る恐る見た。
「あれ……ない……なんで?どうして?」
「どうした?何があった?」
「……よく、わかんない。……ただ、満月を見ると、良く分からないイメージが頭に浮かぶの。」
「良く分からないイメージ?」
「……真っ赤な満月に、天窓から差し込む黄色い光……ウェーブのかかった黒い髪に、投げ出された白い四肢……地面いっぱいに広がる赤い液体に……それに…それに、それを立ち尽くすように見ている、私……。」


ミズキにぎゅっと握られて、クロロのシャツに深いシワができる。肩で息をしながらミズキは喘ぐように言った。


「そんな……はず、ないのに………ただのイメージでしか、ないのに……。…ねぇ、クロロ……クロロ。胸が苦しい。苦しくて……私、どうしたらいいのか……分かんない、よ……クロロ、クロロ…クロロ………ク、ロロ……っ。」


ミズキの目にぶわりと涙が浮かび、固く握られたミズキの手がさらに固く握られる。それと同時に、圧倒されるほどの色が押し寄せてきた。赤色かと思ったら次は黄色、そうかと思えば青色と緑色が同時にあらわれる。今度はもうそれを何色と表現することは出来なかった。色の洪水。まるでオーロラのようにその姿をゆらゆらと変えながら、色がミズキから止めどなく溢れてきた。


(…なぜ、他人のためにこんなにも必死になれるのだ…)


クロロは不可解だった。この感情の全てが「満月を見ると思い出してしまうあの人」に向けられていることに気づいてはいたが、クロロはなぜ他人にこんなにも深い感情を向けることが出来るのか不可解で仕方がなかった。


(他人のために…何故泣ける…)


もちろんクロロにも感情はある。喜怒哀楽もあるし、何かを手に入れたいという欲求もある。感情がないわけではない。しかし制御外の激しい感情に翻弄されることはクロロの人生の中で一度としてなかった。非効率で有益とは言い難いミズキのソレに、クロロが共感することも理解することもなかったが、クロロは少しだけ、ほんの少しだけ、こんな感情を向けられる相手を羨ましいと思った。

ミズキの目に浮かんだ大粒の涙が雫となってポロポロと落ちてゆく。


(……光っている。)


その涙は、まるで光り輝くオーロラを閉じ込めたように何色もの輝きを持っていた。ミズキの瞳からポロリと涙が零れる。零れた涙は、柔らかそうな頬を通って顎下まで行き、そこで数拍光を放ったのち、重力に従ってポタンと落ちた。地面でパッと砕ける。月光を乱反射しながら砕け散ったそれは、まるでダイヤモンドのようだった。


「…綺麗、…だ。」


クロロは呟いた。ただの涙がこんなにも美しく見えたのは、生まれて初めての事だった。ただ唇を奪うだけ、ただ体を組み敷くだけなら直ぐにでも出来た。だが、それが正しいのかどうか分からない。そもそも、自分自身がそれを求めているのかさえ、クロロは分からなくなってきた。

ただ涙が綺麗だとクロロは思った。このまま地面に落ちて砕けるのは惜しい。そう、思った。そして気づいた時にはクロロはミズキの涙に唇を寄せていた。


チュッという軽いリップ音が鳴る。


予想だにしないクロロの行動にミズキが固まる。キョトンとした顔でクロロを見ながらパチパチと瞬きをすると、ミズキの目尻に溜まっていた涙がポロリとまた零れ落ちた。

クロロはミズキの顔を手でそっと包み込むと、頬を伝う涙に唇を寄せた。チュッという音と共に、涙の粒がクロロの唇に吸い取られる。そしてそのまま唇をすすすと動かして、クロロは反対側の頬を伝って顎下で止まった雫を、落ちるのが勿体無いとでも言いたげな動きで丁寧に吸い取った。月光がさんさんと降り注ぐ中、チュッという小さな音が生まれては消えてゆく。



それを何度繰り返しただろうか。いつしかミズキの涙は止まっていた。泣き止んだばかりの赤い瞳で小首を傾げながらクロロを見上げるミズキに、クロロは幼子を諭すような落ち着いた柔らかい声で言った。



「……泣くな、お前が泣いている姿は見たくない。」



たどたどしい手つきでミズキの頭を撫でながら、クロロがふわりと笑う。その動きに合わせてクロロの前髪がさらりと揺れ、耳元の青いイヤリングが月の光を反射した。そしてクロロは、指の腹でミズキの頬についた涙の跡をぬぐっていった。ミズキの頬を撫でるその指先は、まるで硝子細工に触れるかのように丁寧で優しかった。

夜の空では満点の星たちがキラキラと穏やかに笑っていた。


「クロロ……」


熱っぽい声色で名前を呼ぶと、返事の代わりにクロロが目をふっと細める。優しい笑顔にミズキの胸に熱いものが込み上げる。


頬に感じるクロロの手が温かかった。クロロの柔らかい眼差しが心地よかった。指先から伝わるクロロの熱が、温もりが、まるで凍りついた心を溶かしてゆくようだった。ミズキはクロロの手に自分の手をそっと重ねた。


音が消え去る。クロロの瞳にはミズキが、ミズキの瞳にはクロロが映っていた。そして、どちらからと言わず二人の距離が縮まる。穏やかな満月の中、二人の鼓動だけが静かに音を奏でていた。






[ 5.『満月の口づけ』3/7 ]


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