21
貯水タンクに開けられた穴から、水がとぷとぷとぷと流れ落ちる。
ミズキのオーラが込められた水は地面に落ちずに途中で止まり、空中にぷかぷかと浮いていた。
まるで透明な水風船が浮かんでいるようなそれを見ながら、ミズキはまだ平和で、こんな血生臭さと無縁だった頃をぼんやりと思い出していた。
遥か昔親におねだりして通わせてもらったバレエ教室に、友達と文化祭で踊ったダンス、そして体育の選択科目で習った新体操。今の自分にできるだろうかとミズキは思ったが、
「まぁ、いっか!やるだけやってみっか!!」
と明るい声で言うと、両手で抱えられないくらいの大きさになった水球を、ポーンと空中に向かって放り投げた。水球が放物線を描く。このまま落ちてくればミズキはビショビショに濡れてしまうだろう。しかし、そうはならなかった。
「よっ、…と」
頭にぶつかる寸前、ミズキはその水球を両手でひと撫でした。すると、その動き合わせて水球からシュルシュルとリボン状のものが生成された。長さはおよそ8m。それは、新体操の選手が使うリボンに似ていた。軽く膝をついて下を向く。
「3番、ミズキ選手、行っきまぁーす!」
おもむろに顔を上げてそう言うと、ミズキは手に持った水のリボンが地面に着く前にスッと立ち上がり、軽快に踊り出した。
タタンタンと足でリズムを刻む。水のリボンを縦に横にと動かす。空中でたゆたうリボンが、月の光をキラキラと反射する。
「タラララー、タララン♪ タララー♪」
タタンとステップを踏む。トンとジャンプをして空中で脚を開脚すると、動きに合わせて手に持った水のリボンも軽やかに跳躍した。動くたびに髪がふわりと舞い、白いワンピースが軽やかにはためく。
「タララン、ラララー♪ ラーラルルラー♪」
歌声に合わせて、タタン、トンッとステップを踏む。リボンが舞うたびミズキの周りに、パッと無数の水滴が飛び散る。月の光を浴びて反射するそれは、さながら真珠のようだった。
右脚をすなりと上げ、左脚を軸にくるくると回転する。一回転、二回転、三回転。まだまだいけると、ミズキは自身の回転に加えて頭上に掲げたリボンをもクルクルと回し始めた。水のリボンがまるで意思を持ったかのようにミズキをクルクルクルと包みこんでいく。
辺りに舞い散った水滴がミズキを見守るように優しく光りながら宙をゆらゆらと漂った。
光り輝く水滴に、空中を縦横無尽に舞う水のリボン、
( なんだこれは…)
屋上まで辿り着いた男は、その様子を見て固まってしまった。こんな時間にこんな場所で歌っている人間など頭のいかれた人間か酔っ払いだろう。そう高を括っていた男は想像だにしない光景を目にして、言葉を失ってしまった。
「タララッタ、ラッタンタン♪!!!」
ミズキは終いとばかりに、持っていたリボンをパシンとしならせ、それを空中に叩きつけた。その衝撃で水のリボンが霧状となって飛び散る。細かく砕けちった水滴が霧となってミズキの頭上にさわさわと音もなく降り注ぐ。それと同時に、軽やかに舞っていた白いワンピースがふわりと元に戻り、その踊りの終わりを告げた。
妖しげに光る満月の下、真珠のようにキラキラ光る水滴を纏って静かにたたずむその姿は、この世のものとは思えないくらい幻想的であった。
パチパチパチパチ
男は思わず拍手をしてしまった。突然聞こえた音に、ミズキが勢い良く振り返る。
ーーー誰!?
振り返った先にいたのは、黒い髪の男だった。物陰にいるせいで男の顔はよく見えなかったが、ミズキは危険を感じてすぐに身構えた。空中に手をかざし、霧状だった水滴を銃弾ほどの大きさにする。
常に戦闘に身を置いているミズキの危機察知能力は通常の人間の何倍も高く、いくら踊りに夢中になっていたとしても普通の人間が近づいたのならば直ぐに気づくことが出来た。そのミズキが気づかなかったという事は、この男が"絶"をしていたという事になる。つまりは念能力者ーーーー。
ミズキと男の視線が交差する。
( 女…しかもまだ若い。)
こちらを警戒して鋭い視線を投げつけてくる目の前の少女に、男は口の端をクッと上げた。少し遊んでみるのも悪くはない。男は蠱惑的な笑みを浮かべながら少女に近づいた。
「何者だ!」
返事を返さずに飄々と近づいてくる男に、ミズキは威嚇を込めて攻撃を仕掛けた。パシュッとサイレンサー付きの銃のような発射音が鳴り、振り下ろされた手の動きに合わせて、水滴が弾丸のような速さで飛んでいく。
しかし男はミズキの攻撃に微塵も動揺を見せずに、首だけ動かしてその水弾をヒョイと避けた。避けた水弾が後ろの壁にガッとめり込む。その様子を背後で感じ、男は満足げに口を歪めた。
(なるほど。戦闘能力もそこそこあるのか。)
驚きもせずに余裕綽々と攻撃を避けた男に、ミズキは口をキュッと結んだ。この男、危険だ。パシュッ、パシュッ、パシュッと水弾が発射される。今度は確実に男を狙った攻撃だった。しかし男は、眉一つ動かさず右に左にステップを踏んで飛んでくる水弾を軽やかに避けたのだった。
ーーー強い。
警戒心を剥き出しにして睨みつけてくるミズキに、男は少し困ったような顔を返した。そして、少し大袈裟な身振りで肩をすくめると、「驚かせたのならすまない。そんなに警戒しないでくれ。」と、柔和に笑いながら言った。
両手には何も持っていない。武器を隠し持っているようにも見えない。ミズキは"凝"をして男を隈なく観察するも、"隠"をしているようにも思えなかった。ーーーというより、男はオーラを練ってさえもいなかった。完全無防備な状態だった。
「あなた…何者?」
危害を加えるつもりはないと分かってもミズキの警戒が解かれることはなかった。"危険な香り"、そう、この男からは危険な香りが漂っていたのだった。探るような声でミズキは問いかける。
「怪しい者じゃ無い。…って言っても信じてもらえなそうだけど。オレは、こんな時間にこんな場所でどんな人間が歌っているのか、ただ気になっただけなんだ。」
声を出して歌っていたのだ、廃墟周辺にいれば歌声が聞こえることもある。「歌声に引かれてやってきた」という男の言い分はもっともだった。それに、男の表情・仕草に違和感はない。
ーーー嘘はついていない……よな。
「それで屋上に来てみたら、水で華麗に舞う女性がいたからね。ビックリして声を掛けるのも忘れてしまったよ。」
男は爽やかにハハッと笑った。そして、ミズキに向かって歩き出した。ミズキの顔に緊張が走る。10m・8m・5m……と距離が近づく。これ以上近づくとミズキの警戒が上がると判断しての行動だろうか、男は3m手前ではたと歩みを止めた。
そして男は、不安の色を見せるミズキの顔を真剣な眼差しで見つめると、ゆっくりと口を開いた。
「驚かせて済まなかった。」
テノールの良く響く声がミズキの耳をくすぐる。先ほどの爽やかな好青年の笑みとは打って変わって大人の色気に溢れたその眼差し。
ーーー圧倒される…
男はただ笑顔で近づいてきただけ。オーラを練っているわけでもない。殺意や敵意を向けてきたわけでもない。それなのに、ミズキはその存在に圧倒されてしまった。
それでも、ミズキは警戒を解かずにいた。3m先にいる男を慎重深く観察する。敵ではなさそうだが一体何者だろうか。しかし、ミズキは気づいてしまった。ミズキを見つめ返す男の瞳には殺意でも敵意でも戦意でもないある感情が宿っていることに。
ーーーまさか。
その感情の意味に気づいた瞬間、ミズキの心臓はドクンと跳ね上がってしまった。
"好意"
男性が女性に向ける好意が、その男の瞳には宿っていた。
………私に?
思わず周囲に他の女性がいないかどうか確かめてしまったが、そんなはずはなかった。ここには自分と男しかいない。今のミズキは誰がどう見ても「女」にしか見えず、男の好意は間違いなくミズキに向けられていた。気づいてしまった事実に、ミズキの鼓動がだんだんと早くなる。
「…なぜ、ここに?」
震えそうになる声を抑えて、渇いた口を開く。
「ちょっとした、散歩だ。君も、なぜこんなところに?」
「オ……、わ、私もちょっと散歩に……」
いつものくせで「オレ」と言いかけ慌てて言い直す。
「君は、この辺りに住んでいるの?」
「この辺りには住んでいない…。この街には旅行で来たの。」
「ハハッ、奇遇だな。俺もヨークシンには旅行で来てるんだ。」
肝試してとしてならまだ分かるが、肌寒い4月末にこんな人気のない廃墟街に好き好んで散歩に来るとは思えなかった。それが他所から来た旅行者とくれば、なおさらだった。ーーー嘘は言ってはいないが本当の事を言ってもない。ミズキも男も互いが互いにその事に気づいていたが、それはもう大した問題ではなかった。
ここにいるのは、一組の男と女。
好意を隠しもせずに近づいてくる"男"に、
その男に圧倒されながらも胸を高鳴らせる"女"
気づけばミズキは、警戒を完全に解いていた。空中に漂っていた水滴がパシャリと音を立てて地面に落ちる。その様子を見て、男は3mの壁を越えてさらに近づいた。
そして手を伸ばせば届く距離で立ち止まると、胸に手を当ててゆっくりと口を開いた。
「オレの名前はクロロ、クロロ=ルシルフル。月明かりの下、水と戯れ軽やかに踊る貴方を見て、一言でいい言葉を交わしたいと思い、ここに姿を現しました。」
そして、クロロはミズキの足元に膝をつくと、右手をスッと差し出した。
まるで騎士のようなその行動に、ミズキの心臓がドクンと高鳴る。その行動の先を想像しただけで、自分の顔に熱が集まってくるのをミズキは感じた。
何を躊躇する必要があるのか、今の自分は危険に身を置く「"便利屋"のミズキ」ではなく、男の好意を受けても何ら問題のない「女」なのだーーーー。そう思い至ったミズキは、自身の手をおずおずと差し出した。怯える子鹿のように手を出すミズキを見て、クロロがフッと笑みを零す。そして、差し出されたミズキの右手をしかと手に取ると、クロロは、
「先程の貴方は、天界から舞い降りた月の女神セレナのように美しかった。ほんの僅かでいい、僕に貴方と語らう刻を下さいませんか?」
そう言ってミズキの右手をそっと引き寄せると、その甲にチュッと唇を付けたのだった。
口づけられた手が熱かった
胸の高鳴りが止まらなかった
まるで、男の視線に絡め取られたようだった
この日、この夜、この満月の下
固く固く閉ざされていたミズキの心の扉が
カチリと小さな音を立てたのだった
[ 4.『破裂寸前の心 』4/4]
第四章終わりです。三人目の男、クロロの登場です。キザな台詞もキザな行動もクロロさんは似合いますね/// そしていくら普段とは違う格好をしているとはいえ「男」と「女」として出会ってしまったクロロとミズキ。どんな展開になるか楽しみにして頂けると嬉しいです。
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