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浴槽に溜めたたっぷりのお湯に、ジャスミンの香りの入浴剤をとぷんと入れる。土と垢で茶色く汚れたTシャツを脱ぎ、ミズキは、湯気の立つ浴槽にゆっくりと入った。足の先からじんわりと温かくなってゆく。


「 はぁ〜……」


強張っていた全身の筋肉が解れてゆくのを感じ、ミズキは心地良さから吐息を吐いた。こんなにゆっくりとお風呂に浸かったのは何年ぶりだろうか。思い返せば森の泉の冷たい水で汚れを拭うことしかしていなかった気がする。


「 ずっと支払いに追われてたからなぁ…」



サラリーマンの月収が30万という世界で、いくら念を覚えているとはいえ後ろ盾のないただの子供が月に何百万と稼ぐのは至難の技で、ミズキは追い立てられるように次から次へと仕事をこなしていた。



「はぁ……ったく、それにしても払っている金の中でいったいどれくらいの金が、実際の治療に充てられているんだろーなァ…」



気が緩んだせいだろうか、思わず本音が口をついてしまった。

自分の言葉にミズキは苦しげに眉をしかめた。どれくらいの金額が治療費に充てられているのか、そもそも彼女はどんな病でどんな状況なのか、どこにいて何をしているのかーーーそれすらも分からない状態でミズキは毎月700万もの大金をあの男に支払っていたのだった。



「泣き言は言うな。騙されてることは百も承知じゃねぇーか…。」



頬をピシャリと叩く。700万ジェニーの全てがあの人に届いているだなんてミズキは思っていなかった。渡している金額の内いくらかかはあの男の懐に入っているだろう。そうと知りながらもミズキがあの男の下で働く理由ーーーそれはあの男があの人に繋がる唯一の手掛かりだったからだ。


泡立てたボディタオルで身体中をゴシゴシと隈無く洗ってゆく。垢や汚れがボロボロと落ちていく様は、まるで心にこびりついたサビさえも落ちていくようだった。


「もう少しの辛抱だ…」


自分に言い聞かせるようにそう呟くと、ミズキは禊をするかの様にお湯を頭からバシャンとかけた。










お風呂上がりの肌にたっぷりの化粧水を染み込ませ、さらにジャスミンの香りのするボディーローションを頭の先から足の先まで丁寧に塗り込む。偽名で取ったホテルは、いつもの寝床とは比べものにならないくらい快適だった。ストレッチをしながら爪をヤスリでピカピカに磨いてゆく。


ミズキは自分が思いつく限りの"女磨き"を全てやるつもりだった。


そして三時間が経った頃には、そこには荒んだ目の小汚い少年はおらず、可憐な少女の姿のミズキがいた。


綺麗に整えられて潤いを取り戻した髪。
ピカピカに磨き上げられ輝いて見える肌。
汚れた服の代わりに着た白いワンピース。

パッチリとカールしたまつ毛にピンク色の頬。
艶やかな唇に整えられた眉。


血で汚れた過去が消えたわけではなかったが、それでも純真無垢で穢れなど知らない頃の自分を取り戻したようで、ミズキは久しぶりに鏡に向かってにっこりと笑うことができた。


「大丈夫……ほら、大丈夫。」


なにが大丈夫なのか自分でも分からなかったが、心を押し潰すほど蔓延していた虚無が、少しずつ晴れていくのをミズキは感じた。

仕上げとばかりにミズキはコップに注いだ水を「私は女の子、私は女の子、私は女の子、穢れを知らない女の子……」と念じながら飲み干した。


そして、水を全て飲み干して「ぷはー」と息を一気に吐く頃には、ミズキの顔から陰りは一切消えていた。さっきまでの陰鬱さが嘘のようで、愛用の銃も何人もの血を吸ったナイフも水が入ったペットボトルも何もぶら下げてない腰は想像以上に軽く、ミズキは何だか散歩に行きたい気分になった。


可愛いリボンのついたピンクのヒールをカツンと鳴らして、鏡の前でくるりと回る。鏡の中のミズキが、楽しそうな笑顔をこちらに向けている。その笑顔に「よし!」と明るい声をかけるとミズキは軽快な足取りで外に向かった。


ーーーしかし、ミズキ自身は気づいていただろうか。その姿、その顔立ち、メイクの仕方から髪型のセットの仕方、服の好みから着こなしまで、夢の中で幸せそうに笑っていたあの少女にそっくりだということに。










一時間後、ヨークシン郊外の廃墟街にミズキはいた。都市開発による移転でもあったのだろうか、巨大マンションが何軒も打ち捨てられているそこは、暗く寂れていて人の気配が全くしなかった。しかし、そこは『普通の女の子』が向かうには適さない場所だったが、一人になりたいミズキにはうってつけの場所だった。


カツンカツンカツンと、ヒールの甲高い音がコンクリート壁に反射する。『大人の女性』しか出せないこの音をもっと聞きたくてミズキはわざと音を立てながら歩いていた。


ーーこんな機敏性に欠けた靴を、よく履いてたもんだよ、昔の私ってばさ。でも、ハイヒール好きだったなぁ。スカートも、フリルも、メイクも…


「もう、ずいぶんと昔の事……」


吐息まじりに呟いたミズキの目に、廃墟群の中でもひときわ高い建物が映った。あそこに登ればヨークシンの街並みが一望できるだろうか。ミズキは瞳を輝かせて屋上への非常階段を登り始めた。


「着いた…うっわー、綺麗な夜景!!」


眼前に広がるのは、宝石を散りばめたような夜景だった。水平線が光り輝いている。闇夜に浮かぶその光たちは、人々の生活の光とは思えないほど綺麗で、まるで満点の星空か、月の光を反射する水面のようだった。


「何て…綺麗…な…」


目の前の錆びた柵にそっと手を掛けて身を乗り出す。五月の少しひんやりした風がミズキの頬を優しく撫でていく。心地よい風に誘われたのか、気づけばミズキは鼻歌を歌っていた。


「ふんふんふふーん♪……って、あれ?私、歌ってる?……ふふふ、そっかぁー……。」


さっきまで沈んでいた心が随分と軽くなっている事にミズキは気づいた。
それこそ、歌を歌いたくなる程に。


「誰の曲だったかなぁー、これ?…うーん、思い出せないや。それに歌詞もおぼろげ。…でもいっか。それでも歌っちゃおうっと。」




ta la la la la ―…la la―
ta la la la la ―…la la―

ah―ha―ha―um um m m―…m―
ah―ha―um―lu la la lu um―

ta la la la la ―…la la―
   ・
   ・
   ・




懐かしいメロディーに適当に思いついた歌詞を乗せて歌う。それはまるで心に忍び寄る不安に、体を襲う悲壮に、頭を掻き乱す絶望に、手足にまとわりつく虚無に、侵されないよう負けないよう振り払うように歌っているようだった。

ミズキの強い想いが込められていたからだろうか。その歌はお世辞にも上手いとは言えなかったが、聞く者の心を揺さぶる何かがあった。



「あーーーー!気持ち良かったぁぁぁ!!!」


大きく伸びをする。屋上の床にゴロンと横になったミズキの顔は、とても晴れやかだった。風が気持ちいい。ふと、視界の隅に貯水タンクが映り、ミズキは顔を上げた。


「貯水タンク、水があんのかぁ……なら、あれやっちゃお!」



そう言うとミズキは雨風に晒されっぱなしになっている貯水タンクに近づき、オーラを込めた親指をブスッと突き刺した。指を引き抜くと開けた穴から水がチョロチョロと流れ落ちた。


「へへっ、誰も使ってないから壊しても平気だよね。」


ペロリと悪戯っ子のような表情で舌を出す。

"誰もいない"

そう信じ切っているミズキは、ここ数年誰にも見せた事の無いあどけない顔で笑い、そしてこぼれ落ちた水にオーラを込めたのだった。








その頃、ヨークシン郊外の廃墟街に一人の男がいた。廃墟の間を音も無く歩き、鋭い瞳で辺りを伺っているその男の名はクロロ=ルシルフル。彼は今、約五ヶ月後にここヨークシンで開かれる世界最大級のオークションに向けて、壮大な計画を練っている真っ最中だった。

その下準備の一つに、"仮宿"探しがあり、男は仮宿を探しにこの廃墟街に来ていたのだった。


「チッ……人がいるのか。面倒だな。」


突然、頭上から聞こえてきた歌声に男は舌打ちをした。ヨークシン中心への移動が容易でかつ大量の荷物を運び込んでも怪しまれない場所を求めてこの地に来たのに、探し当てた"人気の無い廃墟"に人がいるのは誤算だった。もしこの人物がこの廃墟を根城にしていたらそれこそ厄介である。

『邪魔なものは全て排除する』

男は今までそうしてきており、そしてそれはこれからも変わることはなかった。鋭い目で屋上を見上げる。


♪AH―AH―…UM―…♪


なおも歌は続く。決して上手いとは言えない稚拙な歌声。しかし、感情をぶつけるように歌うその歌声に、男は足を止めた。悲痛な叫びのようでいて恋い慕う熱っぽさをも相持つその歌声に、男は少しだけ興味を感じた。

(一目見るのも悪くはない。)

フッと不敵な笑みを漏らして、男は屋上へ続く階段へと足をかけた。






[ 4.『破裂寸前の心 』3/4 ]



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