01








ひらり ひらりと 
彷徨う魂


ゆらり ゆらりと 
止めどなく


夢と現が混ざり合い

次第に夢が現実に
現実が夢に成り代わる


ひらり ひらりと 
魂は彷徨う

ゆらり ゆらりと 
あてどなく



1.始まりの夢


 ただ耐えることしかできないこの時間が、私は嫌いだった。

 甲高い女の嬌声が鼓膜を震わし、生臭い男女の体液が鼻を突く。
 わずか数メートル先には一組の重なり合う男女があり、不可避の事とは言えこれから事が終わるまでこの二人の痴態を見なくてはいけないかと思うと、重苦しい虚脱感と言い知れぬ苛立ちで身体がずしりと重くなる。

「早く終わって……」

 膝を抱えて懇願するも、その声が二人に届くことはない。もう嫌だ。激しさを増した女の嬌声に私はそれが不可能だと知りながら走り出した。

「あっ……、やっ……ぐ……」

 しかし、数メートルと進まないうちに背中を強く引っ張られ、私はまるで伸びきったゴムが引き戻されるようにバチンと元の場所に戻ってしまった。
 やはり、無理だった。
 触れたはずの花瓶もぶつかったはずの机も微塵も動いていない。右手を照明にかざすと、向こう側にあるシャンデリアが透けて見えた。
 半透明な手足に、鏡に映らない顔。どんなに声を荒げてもどんなに暴れまわっても誰にも気づかれることのない、この世界に存在しない人間。それが私だった。


 鼻にかかった甘い声が聞こえる。私は半ば諦めの境地で、筋肉質な男の身体の上で跳ねている女に目を向ける。豊満なバストに引き締まったウエスト。ウェーブのかかった黒髪を揺らしながら身体をくねらせる彼女は、同じ女でもゴクリと唾を飲む程美しかった。

「また、相手が違う……」

 この現象に遭遇する時には、いくつかの共通点があった。
 一つ目は彼女だった。私がこの現象に遭遇する時、そこには彼女が居て、私は彼女を中心に数メートルしか移動が出来なくなるのだった。
 二つ目は行為だった。時間や場所に限らず、それは彼女が性行為をしている時に必ず起こった。彼女が寝ている時やご飯を食べている時に、こうなったことは一度もない。
 そして、三つ目は――。

「ん……あっ…や…イク、イッちゃう」

 彼女の切羽詰まった声に私は身体をビクリと震わせた。男の腰を打ち付けるスピードが徐々に早くなっている。そろそろ終わる。ということはもうすぐ「アレ」が来るのだ。ベッドの上で体を弛緩させる二人を横目に、私はこれから来るであろう「アレ」に備えて身を強張らせた。
 緊張と不安で額に汗がじわり滲む。

 しばらくして、どこからともなく「コォォォ……」と音が鳴り出した。来た……。私は拳をぎゅっと握った。

 始めは頬を撫でる程度だったそれは、十数秒後には竜巻のように激しいものとなった。情事後のピロートークをする二人も家具もカーテンも照明器具も何も動いていない中、体がずりずりと引っ張られる。同類のモノなのか、男とおぼしき半透明のモノが、苦悶の表情をしながら吸い込まれていくのが見えた。背中にゾワリと冷たいものが走り、恐怖で歯がガタガタと震えた。

――嫌だ、あそこに吸い込まれたくない。

 本能の全てがアレを拒絶した。「アレはヤバイものだ」と全身が叫んでいた。髪が逆立ち、服が捲まくれ上がる。彼女から立ち上っていた靄は、今やその姿をはっきりとさせ、まるでブラックホールのように渦巻きながら、私を捕らえようと風をさらに強くしている。
 一瞬でも気を緩めば、あの黒い穴に吸い込まれてしまう。私は全身に力を込めて必死に荒れ狂う風に耐えていた。

 それからどれくらい経っただろうか。額の汗が何粒も滴り落ちた頃、風の威力は弱まり、最後には電源の切れた掃除機のようにヒュポンと軽い音を立ててその存在を完全に消した。

「終わった……」

 その場に膝から倒れ込む。瞼が耐え難いほど重くなり、疲労困憊の身体は指先一つ動かすことは出来なかった。

 もうだめ……。その言葉を最後に私の意識は深い闇へと落ちていった。





 ガタッと音と共に体が反射的に飛び上がり、私は見開いた瞳を左右に走らせた。

 長机に座る生徒に、黒板に数式を書き込んでいく教授の姿。そこには、むつみ合う男女も豪華なシャンデリアも渦巻く風もない。いつもと変わらない大学の講義がいつもと同じように行われていた。
 まだ困惑する意識でパチパチと何度も瞬きを繰り返すと、隣の席に座っていた親友の由紀が、笑いを噛み殺したような顔で私の脇腹を突ついてきた。

「恥ずかしい……」

 思わずその場で頭を抱える。講義中に熟睡して体をビクリと強張らせ、あまつさえ夢と現実を混同していたのだ。あまりの醜態に顔が羞恥で熱くなる。

「爆睡しすぎ。昨日のバイト、そんなに大変だったの?」
「ううん、違うけど……」
「でも、顔色悪いよ? 保健室行く?」
「大丈夫だよ、心配しないで」
「ん、分かった。あの教授、板書早いので有名だから、早くノートに写しちゃいな」

 ノートを見える位置にずらしてくれた由紀のさりげない優しさに、ざわついていた心が落ち着いてゆく。
 窓の外に目を向けると、樹木にとまっていた小鳥が、ピチュチュと軽やかな声を上げて飛び立っていった。
 いつもの学校にいつもの友達。穏やかで暖かな私の日常。今までもこれからもそれは変わらず続いてゆく。

――そう、だから……不安になる事なんか何一つないのだ。

 私はまるで体に渦巻く不安を胸の奥底に追いやるように「大丈夫、大丈夫……」と何度も何度も呟やくと、何事もなかったかのような顔で黒板に書かれた数式をノートに写していった。


 この時の私は気づきもしなかった。これが全ての始まりで、全ての終わりだということに――。
 壁に掛けられた時計が、何かを暗示するようにカチコチと無機質な音を途切れることなく立てていた。





 隙間風の入り込む薄汚れた廃材置き場で、ミズキ=テイラーは目を覚ました。周囲には建築に使われるであろう木材とレンガ材が雑多に置かれ、天井には蜘蛛の巣が張り、床の上には土埃が固まりとなって転がっている。辛うじて家屋の様相を保っているこの場所はミズキが仮眠所として定期的に使っている場所であり、夢で見た冷暖房の効いた教室とは似ても似つかない場所だった。

「ははっ、こんなに時間が経っているのに、未だに夢に見るだなんて……」

 布団代わりに体に巻きつけていたボロボロの毛布には、頬から垂れたと思われる涙が薄い水玉模様を作っていた。

「さっさと行かねえと……」

 窓の外では東の空が薄っすらと色づき始めている。まもなく人々が動き出す時間――惰眠を貪る怠け者が早起きした人間に襲われる時間――が始まる。
 ミズキは胸を覆う感傷を飲み込んで、枕元に置いた愛銃ベレットM84と、ナックルガード付きのハンティングナイフを腰に差し、頬をピシャリと叩いた。


 ここはミンボ共和国の首都『ニューステイ』にあるスラム街。ミンボ共和国は世界を牽引するV5(近代五大陸)の一つに数えられる大国であるが、その富を享受するのは限られた富裕層のみであり、その実一日百ジェニー以下で生活する人間が三割にも及ぶという、貧富の差が激しい国であった。その明暗分かれた国の首都の、さらに「暗」が吹き溜まるスラム街ともなれば盗みや殺しが平然と横行している。

『自分の身は自分で守れ。さもなければ弱い奴から死んでゆく』

 いつからかミズキの心に刻まれたこの言葉の通り、この世界は弱い者には容赦がなく、ミズキは「危険には近づかず、警戒を怠らず、常に二手三手先を読むべし」と常に己に言い聞かせていた。

「ああ、風が気持ちいいな」

 チュンチュンと雀がさえずる朝ぼらけの街を走り抜けると、三月半ばのまだ肌寒い風がミズキの短い髪を掻き上げる。ミズキが向かっているのはニューステイのスラム街から三十キロほど離れた所にある『ストックス』という街だった。この街はニューステイと比べると幾分か寂れた田舎町であったが、ここと比べると随分と治安がましであり、また地理上の立地も都合が良かったため、ミズキはその田舎町『ストックス』を根城としていた。

「朝の六時か……」

 ミズキは頼まれた仕事をなんでもこなす、いわゆる『便利屋』の仕事をしていた。仕事の九割近くが同一人物からの依頼であるため、その男の雑用係、あるいは下っ端と呼んでも差し支えなかったが、ミズキのプライドがそう呼ばせることを許さず、ミズキは『便利屋ミズキ』の名前であらゆる裏の仕事をしていた。

「今から走って帰ってもストックスに着くのは八時過ぎか……。そっから、仮眠とってトレーニングして仕事の準備して……、ん、問題ない」

 ミズキは程よく影となっている路地裏で息を整えながら、今日の予定を指で数えた。夜半過ぎには再び仕事でこのニューステイに来なければならなかったが、この街でよそ者の自分が睡眠を取るのはとても危険だったので、往復の移動を走り込みのトレーニングだと思えば、安全できるホーム『ストックス』への移動もミズキの負担にはなりえなかった。

「さてと、もうひとっ走り……う、眩しい」

 突如視界がチカッと光り、目を細めながら光の発信源へと視線を動かすと、そこには小さな窓があった。太陽の反射光が入らないように体をずらして覗き込むと、焦げ茶色のカーテンの敷かれた窓にはミズキの姿が映っていた。
 ボサボサの短い髪に、痩せこけた頬、顔の中心ある二つの荒んだ目がこちらをじとりと見ている。

「同じ顔の造りなのに……まるで別人、だ……」

 小さく呟いたミズキの脳裏には、今朝方の夢で見た少女の姿があった。夢の中の少女はふわふわとした茶色い髪と血色の良いピンク色の頬で朗らかに笑っていた。

「くそっ――」

 自分の持っていない何もかもを彼女が全て持っているように思えてならない。ミズキは苛立たしげに壁を叩いた。
 しかしそうやっていたのは数秒だけでミズキは直ぐに鋭い顔つきに戻り、何かを確認するように目を左右に走らせた。周囲には何もおかしな点はなかったが、ミズキの人並み外れた危機察知能力がここは危険だとアラームを鳴らしていた。

「やっぱり、何かいる……」

 走り出してしばらくしてミズキは小さく呟いた。全意識を耳に集中させると、自分の足音に被せて走る誰かの足音が聞こえる。何者だろうか。道の曲がり際で体を反転させて振り返ると、そこにはピエロのような奇抜な衣装に身を包んだ赤髪の男がいた。

「お前、なぜここに!?」
 言葉が喉をつく。
「ククッ、実はね。昨日からキミを尾けていたのさ。昨日工事現場の辺りで見失っちゃったからね、この辺りで張っていたのさ」

 涙マークと星のペイントされた顔が薄ら笑いを浮かべながら飄々と答える。釣り上った細眉の下にある好戦的な瞳が、ミズキの背筋をざわつかせる。この男は危険だ。そう直感的に感じたミズキは「逃げるが勝ち」の精神で体を急旋回させた。

「んー、良い判断」

 男はにんまりと笑うと、まるでご褒美をあげるように数秒の間、足を止めた。

「チッ、追って来やがる……」

 一般人ならとうに息が切れているはずのスピードで、右に左にと細い路地裏を走っているにも関わらず、男は息一つ乱すことなくついてきている。どうやらこの男の身体能力はミズキの想像以上に高いらしい。それならば……と息を吸い込んだミズキは、前触れもなく曲がった道の先で、出窓や雨どいなどの出っぱりに足をかけてトントントンと壁を駆け登っていった。

 屋根の上までは来ないだろう。そう思い安堵の息を吐いたミズキの背後でトンっと何かが着地する音が聞こえる。まさか――。ゆっくりと振り返る。誰がいるかなんて分かりきっているのに、それでも「あいつではありませんように――」と願ってしまうミズキがそこにはいた。





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