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 突き抜けるような青空の下、萌葱色の若草が見渡す限りに広がっている。大きく息を吸うと新緑の爽やかな匂いとほのかに漂う甘い香りが鼻孔をくすぐり、柔らかい風が優しく頬を撫でていく。

「ミズキ、愛しているわ」

 白いワンピースを着た女性が花がほころぶように笑い、腕を大きく広げる。まさか……。いや、私が見間違えるわけがない、アマンダだ。私は新緑を踏み潰して裸足で駆ける。

「アマンダ、アマンダ、アマンダ……。ずっと会いたかったんだ。アマンダ、アマンダ……。良かった、生きていて……良かった……」

 抱き締めたアマンダから伝わる温もりが、私の凍りついた心と身体を一瞬で溶かしてゆく。全ての虚勢が剥がれ落ち、私は大粒の涙を流しながらアマンダを抱き締める腕にさらに力を込める。

「……そうだ、アマンダ。私、ずっと貴方に言いたかった事があるの」

 ずっと言いたかった言葉。あの日から行く宛もなく私の中で彷徨っていた言葉。私は後手から一輪の白百合をアマンダに差し出し大きく息を吸った。

「アマンダ、私……ずっと前から貴方の事――」

 その言葉を言おうとした瞬間、アマンダの口から血が一筋垂れ、首がごとんと音を立てて転がり落ちる。

「ひっ……」

 アマンダの白いワンピースから紅い色がじわりと浮かび上がり、数秒後、アマンダの身体はまるで糸の切れた操り人形のようにぐしゃりと地面に崩れ落ちた。新緑の草原は一瞬で枯れ果て、辺りは死の匂いの漂うあの空間へとその装いを変える。

「ああ、分かっている、分かっているさ……」

 固く握り締めた拳がぎちぎちと音を立てる。

「まだだ。アマンダを踏みにじった奴をこの世から抹殺するまでは、この命はやれねえ。……でも、それが終わったあとならば、いいぜ、この命でもなんでもくれてやる……」

 いつの間にか背後に現れた、開いた瞳孔で唇を吊り上げる血みどろの私に向かって言うと、それは口惜しそうに舌を一つ打って姿を消した。
 誰も居なくなった真っ白い空間で、私は一人天を仰ぎ見た。延々と続く白色が、私の肌をつきんつきんと刺していた。



「……ミズキ、どうしたんだい?」

 その声に霧散していた意識が一つに集まり、ミズキはそっとまぶたを上げる。ごうんごうん……と響く飛行船の駆動音に、やけに小洒落た客室の家具、そして目の前には、人目につくのを避けるためだろう、いつものピエロ姿ではなくスーツを身につけたヒソカがいる。

「あ、ああ……ちょっとうたた寝をしていたようだ、集中力が切れたのかもしれない」

 ヒソカと一緒にヨークシン行きの飛行船に乗ってから二日が過ぎていた。ヨークシンまではだいたい三日ほどかかるので、半分以上の進んだことになる。その間ミズキは無駄に広いヒソカの客室の一角にあるソファを間借りする形で、暇さえあれば方便として説かれる方の「燃」の「点」――心を一つにまとめ目標を定める行為――を行っていた。百数十人の乗客がいる場所でオーラを練れば周囲に悪影響を与えてしまうという懸念もあったし、この時期のヨークシン行きの飛行船にどんな人物が乗り込んでいるか分からないという不安もあった。とにかくミズキは食事の時以外、日がな一日ソファで座禅を組んで精神の統一を行っていた。

「ほら、キミが今朝言っていた物、持ってきたよ」
 ヒソカは手に抱えていた新聞や雑誌をドサドサっとテーブルに置く。
「ちょっと『ここ数日のニュースが知りたいな……』ってぼやいただけだったのに……済まねえな、ヒソカ」
「ボクはここのVIP会員だからね、大抵のことは叶うのさ」
「それにしてもこの量……いや、いい。ありがとな」

 ミズキは一番上にある大衆誌を手に取りぱらりと開くと、そのまま右に左に目を動かしてゆく。

「そういや、お前って確かハンターライセンス持ってたよな?」

 しばらくして顔を上げたミズキは、『ハンター協会の内部分裂の実情』と書かれたページを開いていた。どうやらそのページは会長派と副会長派のいざこざについて書いてあるようで、誰がどの陣営にいるのか名前を挙げて詳細に書いてある。

「会長派は十二支んのチードル=ヨークシャーを筆頭にネテロ会長の門下生である実力派モラウ氏・ノブ氏が脇を固め、副会長派はキューティー=ビューティーを筆頭に、頭脳派のセルゲイ氏・イックションペ氏が脇を固めている……って書いてあるけど、お前はどの派閥なんだ? あ、なになに? 脱会長派ってのもあるみたいだな」
「ボク? ボクはどこにも属してないよ」
「でも、お前プロハンターなんだろ?  仕事の依頼とかあるんじゃねえの?」
「そう言えば、ライセンスを取って一ヶ月くらい経った頃に、協専ハンターにならないかってメールが来てたけど、返してないや」
「……お前、行動にブレがないな」

 ミズキは深い溜息をひとつ付くと、再び雑誌へと視線を戻す。

「……何見てんだよ」

 しばらくしてミズキは、じっと見つめ続けるヒソカに痺れを切らして顔を上げる。

「ミズキ、キミは『だるま』って知ってるかい?」

 少し悩むように視線を動かしてヒソカは口を開く。

「だるまぁ? あの赤いやつか?」
「そうそう、極東の島国で信仰されている縁起物さ」
「知ってるけど。それがどうしたんだ?」
「願を掛けながら片方に目を入れ願いが叶ったらもう片方に目を入れる……それは何か達成したい時にその島国で行われる風習で、決意が強ければ強いほどその願いが叶う可能性も強まると言われている」
「……ん? それがどうしたってんだ?」
「ミズキ、キミは先日、譲れない願いがあると……何に変えても叶えたい願いがあるとボクに宣言したよね?」
「あ、ああ……そうだな」
「これはただの風習に過ぎないけれど、こうやって目に見える形にするのは効果があると思わないかい?」
「いや、そうかもしれないけどよ……。オレ、だるまなんて持ってねえし、例え持っていたとしても持ち歩くなんて馬鹿なことはするつもりねえし」
「それでね、ほら、これを見てごらん」

 そう言ってヒソカは何もない空間から小さな箱を取り出し、蓋を開ける。そこには血のように燃える真っ赤なピアスがひとつあった。

「もともと赤は人工では出せない色で、それだけに特殊な力を秘めていると考えられていたんだ。まるで野に一輪咲く深紅の薔薇のように美しいこの『レッド・ベリル』の持つ意味は、『尽きない情熱』、火を付けられた内なる情熱は燃え盛る炎のように絶え間なく身に付けた者を揺り動かし、達成するその日まで隣で力を与え続ける。どうだい? 今のキミにピッタリだろ?」
「……念具ってわけじゃなさそうだな」

 目に"凝"をしてミズキは言う。

「もちろん、これはただの宝石さ。……ほら、右耳を出してごらん。ボクが付けてあげるよ」
「いや、でも……これ、高そうじゃねえか……」
「ククッ、ボクはオカネモチだからね、これくらいはした金さ。それより、この間のキミの決意にボクは感銘を受けてね、何か贈りたい気持ちになったのさ」

 まるで舞台俳優のような大袈裟な身振りでヒソカは言う。

「そう……そういうことならありがたく頂くぜ」
「じゃあ、目をつぶって。そして、心の中に叶えたい願いを強く思い描いて。そう……"点"をするよりもっと強く……」

 ヒソカは胸の前に手を重ねて静かに目を閉じたミズキの頬を触れるか触れないかの距離でそっと撫でると、通常だるまの願掛けは左側の目にすると知りながらも、ミズキの右耳へとピアスの軸を当てた。

「行くよ」

 その掛け声と共にヒソカが指先に力を入れると、ピアスはぷちっと小さな音を立ててミズキの右耳へと収まった。レッド・ベリルに負けず劣らず赤い血が、ぷくりと小さな珠を作って垂れてゆく。

「願掛け、か……。あまりそういう類のモノは信じないんだけど。赤色は全てにおいて優先させるべき事柄の色、だもんな。……決意が強まるぜ」

 目を開けたミズキはまるで研ぎ澄まされたナイフのような瞳で小さく呟く。そこには「なあ、ヒソカ!」と朗らかに笑いかけた生命力溢れる瞳はなく、代わりに闇の中のさらなる闇で長年生きている人間特有の、凍りつくような冷たさのみがあるばかりだった。



 ごうんごうん……と飛行船の駆動音の鳴る中、手にしたグラスの中で氷がカランと音を立てる。ヒソカはミズキにピアスをプレゼントしたあと、飛行船内のVIP専用バーへと来ていた。薄暗いバーの中にはカウンターの中でグラスを磨くバーテンダー以外おらず、平常なら人混みで掻き消えてしまう飛行船の駆動音がヒソカの耳に良く聞こえた。

 朝日が昇って数時間もすればこの飛行船はヨークシンへと到着する。ほとんどの人間は夜更かしもせずに到着に備えて眠りについていたが、ヒソカの身体はこれから起こるであろう出来事を考えれば考えるほど、興奮で覚醒してゆくのだった。

「ヨークシンに来るかなぁ、彼。……たぶん、来るだろうねぇ。蜘蛛の話をした時のあの表情、そして、あの目……。ぞくっとするようないい目だった」

 飛行船にはめられた窓ガラスが、スーツ姿のヒソカの横顔を映し出す。『暇なやつ改め団員全員集合』、それは団長であるクロロ=ルシルフルもヨークシンに来ることを意味し、そしてヨークシンにはハンター試験の最終試験で耳打ちした彼が既に到着していることだろう。

「キミとは仲良くしておきたいんだよねぇ。この先の、蜘蛛のことで……」

 緋目の彼がヨークシンに来るとなれば、友情に厚いあの少年たちもヨークシンに来るだろう。天空闘技場で戦った時も彼らの成長の著しさに目を見張ったが、今、彼らはどこまで熟れているのだろうか。

 既に手に入ったミズキ、緋目の彼と成長著しい少年たち、そして、蜘蛛の手足と蜘蛛の頭。物事は全て計画通りに進んでいる。不安になることは何も無いはずだった。

「ミズキ……」

 ヒソカは無意識のうちに紡いでしまった今の言葉を否定するように頭を振りかぶり、琥珀色のアルコールを喉の奥に流し込む。

「クロロ。ボクはねぇ、ここ数日であなたと戦いたい熱がさらに増したんだ。ククッ、早く戦いたい……早く……」

 不安になることは何ひとつ無いはずだった。ミズキは既に手に入り、身体にはあの男の所有印のような真鍮色の腕輪の代わりにヒソカの与えた赤いピアスがミズキの『右耳』に光っている。

 ピアスにはもともと邪悪なものが身体に入るのを防ぐ「魔除け」としての役割や、身分や階級や所属を表す「証」としての役割があったが、ヨルビアン大陸では男性は守るための武器を右手に持ち常に左側に女性を歩かせていたことから、男性の左耳のピアスは「守る人」の象徴であり、女性の右耳のピアスは「守られる人」の象徴であるとの意味合いがあった。

 ミズキがこのことを知っているかどうかヒソカは知らなかったが、ヒソカはあえて左耳ではなくミズキの右耳にピアスをつけた。ヒソカの左耳では、ミズキの右耳にあるピアスと同じ『レッド・ベリル』を使った真っ赤なピアスが、バーの照度を落とした照明に照らされて光っていた。

「そう、ミズキはボクのもの……ボクのものなんだ……」

 誰のものでもない。ミズキはボクのもの。ヒソカは繰り返し呟く。
 実際のところミズキの生殺与奪は完全にヒソカに握られており、今この瞬間もヒソカはミズキの寝首をかくこともできるし、心血注いで見つけ出した憎い敵を目の前で擁護すれば仇討ちの一心で怒りの形相で向かってくるミズキと、心踊る『死合い』をすることだってできる。

 「ミズキはボクのもの」という言葉は的を外れているわけではない。ミズキは完全にヒソカの手の中にいる。それなのに、「ミズキ……」と小さく呟くヒソカの声には、悦びとはほど遠い胸を締め付けるような切なさが滲んでいた。

 飛行船はごうんごうん……と音を立てて宵闇の空を進んでゆく。ヨークシンに到着するまであと少し。ヒソカは左耳の赤いピアスをそっと撫でると、グラスに残っていたウイスキーをぐいと飲み干した。



[17.8月31日 1/3 ]



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