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「ヒ、ソカ……」

人影に気づいて顔を上げたミズキの目は、死んだ魚のように生気が欠けていた。かろうじて残っていた瞳の中の光はヒソカの後方にあるガラナス山を映している。あの男のいる場所だ。前に伸ばされたヒソカの手は、ミズキに届く前にその動きを止めた。

「なんて酷い顔をしているんだい。まるで、腐ったゴミ捨て場にいる地面を醜く這いずり回るしか能のないゴミ虫のような顔だ」

ヒソカの声は極寒の地に吹き荒れる雪嵐のように冷たく、ミズキは一歩二歩と後ろに下がる。

「な、なんだよ……」

強がった物言いだったが、ミズキの声は弱々しかった。いつもならオーラを放てば即座に反応して「なんだよ、やる気かよ?」と好戦的な笑みを返すものだったが、今はそんな素振りを見せる様子もない。時間を掛けて教え込んだあれこれはなんだったのだろうか。はらわたが煮え繰り返る。

「ミズキ。あっちに用事があるのかい?」

ヒソカが首をくいと捻った先には薄暗い路地裏とは対照的な、昼休憩のサラリーマンやウィンドウショッピングする買い物客でざわつく大通りとよくある交差点、そしてその遥か後方にはガラナス山があった。返事をしないミズキにヒソカはさらに言葉を続ける。

「あそこの虚ろな顔で信号待ちをする人間たちを見て、キミはどう思う?」
突然の話題にミズキはいぶかしげな顔をする。
「信号の発する色味に従って行動する人間を、愚かな人間だと思った事はないかい?」

どんな街でも駅前は人が集まってごった返しているもので、交通整理のために信号がある事も、その信号に従って人々が行動する事も、何らおかしい事ではない。ヒソカを一瞥したミズキの目には、不可解な話を切り出すヒソカへの蔑みさえ滲んでいた。

「信号の発するに色に従って、赤で足を止め、黄色で周囲を注意し、青になってやっと歩き出す。皆、その事に疑問を感じる事もなく、まるで何者かに操られるように同じ行動をしている。それをおかしいと思った事はないかい?」
「……」
「赤、黄、青。たったこの三色に踊らされているのに、行動を制限されている事にさえ気づいていない。……己の行動なのに、思考停止状態。愚かな連中だ」

世界万国共通の交通ルールに対してそんなうがった捉え方をするなんて、さすがは世紀の変態だ。馬鹿馬鹿しい。ヒソカのわきを通り抜けようとするミズキの顔にはそんな感情が刻まれていた。ヒソカは通り過ぎる瞬間、ミズキの肩をがしと掴み、囁いた。


「その行動は、キミの『色』に従って決めた行動かい?」


その言葉に初めてミズキはヒソカを見た。驚きの混じった瞳だった。

「今のキミの選択は本当にキミの心の色に従って決めた選択なのかどうか。あそこにいる人間たちとは違うと、何者かによって設置された色に行動させられていないと、そう断言できるかどうか聞いているんだよ、ミズキ」

声を強める。微かに揺れ始めたミズキの瞳の中に、薄ら笑いを浮かべる自分の醜悪な顔が映っていた。

「キミに良い事を教えてあげよう、色の効力についてだ」

ヒソカはミズキの肩をパッと離し、何も持っていない手をミズキの前に出し一拍おいてから三枚のカードを手のひらに出現させた。赤、黄、青の三枚のカードだった。

「赤は止まれ、黄色は注意しろ、青は進め。周りを見渡してもそうだと思うが、大抵の人間はこの三色に対してそういった刷り込みをされている。しかし、本当は逆なんだ」

ヒソカは三枚のカードを手から一旦消失させてから、赤色のカードを出現させる。

「赤は止まれではない。赤は最優先事項。何にも増して優先すべきこと、何があっても譲れないもの、どんな事があっても貫き通すこと。そういった色なんだ。」
赤色のカードを消して黄色のカードを出現させる。
「次は黄色。この色は赤を達成させるためにしなくてはいけない事、すべき事。赤が決まっていないと黄色は決められないが、黄色を達成しないと赤に辿り着く事はできない。そういった色だ。そして、最後に――」
ヒソカは青いカードを出現させた。それはクロロの耳飾りの色に似た深い青色だった。

「これは赤と黄色が終わった後に取り組む色。絶対的に取り組むべきものではないが、長期的なスパンを考えて頭の片隅に置いておくもの。信号の青と同じように、歩き進んでも問題がない安全で平和な状況になってから……緊急事態を脱してから取り組むべき色だ」

ヒソカは手のひらからカードを消してから、ミズキに向き合い、指先を前へと出す。ヒソカの指先は先程は拒絶された距離を超えてミズキの喉元へ、そしてミズキの心臓の前へと到達した。


「キミの『赤色』はなんだい?」


ミズキの顔がくしゃりと歪んだ。

以前のミズキなら一も二もなく『赤は彼女だ!』と答え、『黄色はそのために力をつける事だ』と言ったことだろう。しかし今ミズキは泥沼の中にいる。右も左も、上も下も、進むべき方向さえも失っている。

「わ、私の赤は……」

ミズキの瞳が揺れ動く。
答えを言う事は簡単だった。しかし、それでは意味がない。人に決められた道を歩くのでは意味がないのだ。ヒソカはミズキの返答を辛抱強く待った。

「私は、私は――」

拳を握ったままミズキは固まり、その先を言う事はなかった。

迷っているのだろう。『赤は彼女だ』そう答える事は、薄っすらと見えた男に守られるという穏やかで平穏な、普通の女の子なら誰しも求めるような日常と決別し、生きているのか死んでいるのかそれすらも分からない記憶の中の存在を求めて、身を引き千切られるような苦しみに身を投じ続けるという事だ。その先には未来はない。おそらく辿り着くのは死か発狂。そうでなくても心が壊れるのは避けられないだろう。

信号が変わった大通りから、ブロロロ……と車の排気音が聞こえる。どんなに待ってもミズキが答えを言う事はなかった。

「はぁ。キミがこんなに弱い、とはね……。体力面にも技術面にもまだまだ甘い所があるけれど、その心根だけは目を見張るものがあると思っていたのに……。残念だよ、ミズキ君。キミがそんなに腑抜けだとは知らなかったよ」

もったいぶった動きで溜息をつくと、ミズキがパッと顔を上げた。今にも泣きそうな顔だった。その顔はあの男の前で見せた泣き顔をヒソカに思い出させ、ヒソカの指先にピキリと力が入る。その指先は今にも感情のままにミズキの首元に飛びかかりそうであった。
ヒソカは自身を落ち着けるように大きく息を吸う。

「ミズキ君、どうやら全てがボクの過大評価だったみたいだね。キミはそこらの道を歩く甘やかされて育った少年たちと何ら変わりがない、腑抜けで心根もなく、他人に踏みにじられる人生を己の人生だと喜んで享受する、そんな小石の欠片ほどの価値のない人間だったんだね。……いいよ、もう、ボクはキミの前に姿を現さない。思う存分、そのくだらない人生を謳歌すればいい」

人には誰しも「他者の期待に応えたい」という承認欲求がある。「頑張れ頑張れ」と煽られている時はプレッシャーにしか感じなかったそれも、「もう、いいよ」と呆れられた途端に縋り付きたくなるものに変容する、そんな心理をも備えている。
だから、この半年間ずっと強くなる事を期待し続けた自分が「もう、いい」と言えば、ミズキは期待を失う焦燥感と馬鹿にされた怒りで「ふざけんな!」と言い返すとヒソカは思っていた。しかし、ミズキは足をピクリと動かしただけで、拳を握ったままその場所から動こうとしなかった。

賭けに負けたのか――。

ヒソカはミズキにくるりと背を向けてガラナス山を見た。

幻影旅団に四番として入団してから今日まで何度となく策を弄して近づいたあの男は、あの場所でまだミズキを待っているのだろうか。何もかもお見通しと言わんばかりのクロロの不敵な笑みが脳裏に浮かび、ヒソカはギリと歯を噛み締めた。

「キミが追い求める『あの人』ってのに少し興味があったけれど、こんな薄っぺらな覚悟しかない人間に慕われている人だなんて、どうせ高が知れている。同じように覚悟のない、ろくでもない女なんだろうよ――」

ヒソカは悔し紛れに言葉を吐き捨て、その場を後にしようと思った。しかし――、

「待て! ヒソカ!!」

予想外の怒号がヒソカを貫く。振り向いた先にいたのは目に怒りを溜めてこちらを睨みつけるミズキの姿だった。
彼女を追い、イルミを映し、クロロを見つめていたミズキの目が、先ほどの弱々しい瞳とは一変した力強い光を宿して、つかつかと近寄ってくる。

やっとやっと、ボクを見てくれた――。背筋をゾクゾクとした感覚が駆け抜け、ヒソカの唇が小刻みに震える。

「さっきの言葉、取り消せ!」
「なぜだい? 腑抜けた人間が慕う人間なんて所詮その程度のものだろう? 事実を事実として言って何が悪い」
「違う! オレの事はどんなに馬鹿にしても構わない。だけど、アマンダは違うんだ、アマンダはそんな人間じゃない。アマンダは強くて、優しくて……私よりもずっとずっと強くて凄い人間なんだ! お前が彼女の苦しみの何を知っている! アマンダを馬鹿にするな!!」
怒りの形相で胸倉を掴むミズキに先ほどの弱々しい姿はどこにもない。
「ふーん、それで?」
「それで……だと? ふざけるな! さっきの言葉を取り消せって言ってんだ!」
「嫌だね」
「なっ……」
「キミは彼女を取り戻す事を諦めたんだろ? 最優先事項だと即答することも出来ない風が吹けば消し飛んでしまうような薄っぺらい覚悟しかないキミがどうしてそんな事が言えるんだい? キミは何を優先すべきか答える事ができない口先だけの腑抜けだ。そして、それはすなわちキミが心寄せている彼女がその程度のものって事とイコールだろ。どこに言葉を訂正する必要がある」
「ち、違っ……」
「現に今、キミは自分の保身と我が身可愛さに、彼女へと続く道を切り捨てた。己で全てを確認したわけでもないのに、ね。……今更周囲の人間の発する『色』に惑わされたって言い訳するつもりかい?」
「ちがっ……」
「命を掛ける覚悟があるって言ったのも嘘。彼女を取り戻すためなら何でもするって言ったのも嘘。あれもこれも、嘘、嘘、嘘……。キミの想いもキミの覚悟も全て自分を慰めるだけの偽りだったんだよ。ああ、かわいそうに。こんな人間に想われ続けていただなんて、彼女に同情すらしたくなるよ」
「うるさい、うるさい、うるさい! 違う、違うんだ!! オレの想いも覚悟も、全て本物だ!! 彼女は私の光で、私の希望で……私の救い、なんだ。あの時感じた想いも覚悟も、どれもこれも本物だ!! 嘘偽りなんて一つもない!!」


ミズキは息継ぎもせずに一息で言い放つ。生気のない瞳をしていたミズキの目は、今や触れれば火傷しそうなほどに熱く燃え盛っていた。それはヒソカの心を惹きつけて止まなかったあの目だった。

「じゃあ、何でキミは今ここで立ち止まっているんだい?」

ミズキの肩を掴み、身体をかがめ、耳元に唇を寄せて囁く。その瞬間、ミズキの目がカッと見開き、身体から灼熱のオーラが火山が爆発するように噴き出した。青白かったミズキの肌が徐々に色味を取り戻す。モノクロの映画がカラーに変わっていくようなその様相。ミズキの肩を掴む手が灼けるように熱かった。

あともう少し。もう少しだ――。ヒソカはミズキを抱き締めたくなる衝動をぐっと堪えてその場に仁王立ちになる。

「そう。彼女への想いも覚悟も全て本物で嘘偽りは一つもなかったと、キミは言うんだね。……それならば、ミズキ、今一度問おう。キミの『赤』は、何を指し示すんだい?」

ヒソカは、赤、黄、青、三枚のカードを取り出し、ミズキの前に広げてみせた。




[16.決意 6/7 ]



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