79




 ヒソカがミズキと別れたのは、朝日が昇りもうすぐ街の人々が動き出す、そんな時間のことだった。

 血まみれのビターラッドの屋敷から連れ出されたミズキは当初、生気のない様子でずっとうわごとを呟いていたが、イルミの念を受けた後は一変して穏やかな顔で眠るようになり、そして、イルミの念を受けて一時間経つ頃には、身体を起こして日常会話が出来るようになっていた。


「あー、悪かったなお前ら。転んでぶっ倒れたオレをこんな所まで連れてきてくれてよ」


 船はミズキがホームとしているストックスの駅前にまで来ていた。そのまま高層ビルの屋上にある飛行船ポートに船を付けてミズキを下ろすと、ミズキは去ってゆく飛行船に二度三度手を振った後、ビルのエントランスへと姿を消した。

 おそらくこれがイルミの念能力の効力なのだろう、ミズキがイルミの説明の不整合さや身につけている見知らぬ衣服について尋ねることは、一度たりとなかった。まるで、脳が考えることを拒否しているようだった。


「ヒソカ、オレは一度ククルーマウンテンに戻らなくちゃいけないけど、どうする? 最初に言っていたようにプルゥースト公国に置いていけばいいの?」


 八月三十一日にヨークシンに着くためには、昼頃にはヨークシン行きの便に乗っていないといけない。プルゥースト公国に寄っていく時間はなく、少し早いがこのまま最寄りのニューステイ国際空港に行くのが最適な行動だと言えた。

「ああ、そのまま空港に――」そう言いかけて、ヒソカは動きを止めた。そして何か考える素振りを見せた後、ゆっくりと口を開いた。


「イルミ、キミには色々と世話になってるからねえ。これ以上迷惑を掛けるのは悪い、このままこの場所に置いてってくれて構わないよ」


 ヒソカの唇は何かを決意したようにキュッと強く結ばれていた。


 二時間後、ヒソカはガラナス山の湖へと足を走らせていた。夏場の深い緑が視界の後ろへとぐんぐん流れてゆく。

 飛行船を降りてからガラナス山に向かうまでの間、ヒソカはストックス市内で一つのマンションを用意するため奔走していた。それはミズキを住まわせるための部屋で、ヒソカほどのコネと財力があれば、家具家電付きライフライン開通済みの今日から入居できる部屋なんてものは、二時間あれば用意ができた。

 ヒソカとミズキの間にはどんなに親しくなっても踏み込み合わない一定の領域があり、ヒソカはミズキの連絡先を知らなかったし、ミズキの今後の仕事のスケジュールも知らなかった。しかし昨晩のようにいつどこで何が起こるか分かったものではないので、ヒソカはできる限りミズキをー自分の感知できる範囲に置いておきたかった。

 むろん自立心の強いミズキのこと、ヒソカからの施しを嫌がるかもしれない。しかし、タダで住処が確保されるのならば、半々以上の確率で誘いに乗ってくるだろうとヒソカは踏んでいた。
 大きな岩石をタンと蹴る。ミズキのいる森の湖まであと十五分。ヒソカの口元には柔らかい曲線が刻まれていた。


「な、何でクロロが? 夢じゃなかったの!?」
「当たり前だ。夢だと思ったのか?」
「なんで?だって、私、確かに――」


 しかし、いつもの場所に辿り着いたヒソカが見たものは、見覚えのある少女の姿と見知った男の姿だった。

 想像だにしない光景に、ヒソカはとっさに身を隠した繁み中であれは何かの間違いだと自分に言い聞かせたが、再び覗いた先にあったのは、この半年の間に何度もこの場所で逢い続けた少女と、数年をかけて策を弄して近づいた男の姿だった。

「なあ、ヒソカ」と快活な声で自分の名前を呼んだ唇が、熱い吐息混じりに男の名前を呼び、「ヒソカ、勝負だ!」とらんと光る力強い瞳で自分を見据えた目が、潤んだ瞳で男をじっと見つめ、「全くしょうがない奴だな、お前はよ」と自分の胸をとんと叩いた華奢な手が、男の頬を優しく撫でている。嫌がる素振りなんて微塵もなかった。


「クロロ、クロロぉ……」


 ミズキが声をあげる。聞いたこのない声色だった。いや、声だけではない、くしゃくしゃになった泣き顔も、熱っぽい眼差しも、紅潮した頬も、半開きになった唇も、どれもヒソカが初めて見るものばかりで、そしてあろうことかその全てが全て、ヒソカではない別の男へと向けられていた。

 クロロの背中に回したミズキの右手首で真鍮色の腕輪がまるで所有物の証のようにキラリと光を反射していた。


「別にそんなんじゃねえよ……。そう、これは拾ったんだ」


 腕輪に関して尋ねた時のミズキの様子がヒソカの脳内に蘇る。

 所在無げに伏せられた瞳に、途切れがちな言葉。おそらくこの時からクロロと何かしらの関係があったのだろう。クロロの腕の中で嬌声をあげる裸体のミズキが瞼の裏にありありと浮かび、言葉にならない激しい感情がヒソカの胸を貫いた。
 髪がぞわりと逆立ち、ミズキに渡すはずだったマンションのカードキーがヒソカの手の中でパキンと割れる。

ヒソカの周囲の空気が一瞬で凍えつくようなどす黒い熱を持った。
 百メートル近く離れているとはいえ、あの察知能力の高いクロロに気づかれずにいられたのは、奇跡としか言いようがなかった。

 真っ青な顔で山を降りていったミズキを追ってヒソカがいなくなった後も、その場所にはチリチリ焼け付くような粘ついた感情が残ったままであった。





 午後一時になる頃にストックス駅前の高層ビルのエントランスから出てきたミズキは、まるで亡霊のようだった。壁に手を付きながらようやっと歩くミズキの目の焦点は定まっておらず、終始怯えたような表情でぶつぶつと何かを呟いている。
 ヒソカは気配を絶つとそうっとミズキの背後に回り込んだ。


「なんで、なんで、なんで……なんであいつはあんな平気な顔をしてるんだ……なんで……」


 ミズキは歯をカタカタと震わて何度も「なんで……」と繰り返し呟いていた。その顔は青色を通り越して土気色になっており、指先はカタカタと震えている。山を下りる時にミズキのポケットの中にあった茶色い封筒は消え、代わりに飛行船のチケットと思われる紙切れがポケットから顔を覗かせている。おそらく毎月の取引が行われたのだろう。


「ビターラッドファミリーは壊滅させたはずなのに……なんで、なんで、あいつは――」


 昨晩シャワー室で倒れた時、ミズキはずっとごめんなさいとアマンダに向かって謝り続けていた。その様子から、おそらくアマンダが既に死んでいるか、または精神崩壊状態など健常に戻れない酷い状況であると、ビターラッドのボスの部屋で知らされたのだろうとヒソカは推測していた。

 しかし、それにも関わらず取引は行われた。そして、本心を表に出さない事を常としているミズキが混乱を隠しきれずにいる。
 そこからヒソカは、クロロを置き去りにしてでも確認したかった何かはアマンダの生死に関するもので、先ほどのホテルではアマンダが生きている確実な証拠を突きつけられたのだろうと思った。


「ねえ、あれは夢だったのかな……? あの記憶は夢と現実の区別がつかないポンコツな私が生んだ、幻に過ぎなかったのかな……、耳をつんざく断末魔も、鼻を突く血の匂いも、内臓を握り潰す感覚も、こんなにも有り有りと思い出すことが出来るのに……、ねえ、アマンダ……アマンダ……」


 人気のない路地裏に入ったミズキは、赤茶けたレンガの積み上がった壁に力なくもたれかかり、唇を噛み締めたまま小刻みに肩を震わせた。

 初めて見る姿だった。いや、厳密に言えばヒソカはそういった姿を、遠くから見かけたミズキの横顔に何度か見かけていた。
 しかし、ヒソカが来ている事に気づくとミズキは途端にその色を隠し、いつもの不遜な顔でニヤリと笑いかけるのだった。

 一目で立ち入られたくない部分だと分かる、線引きをされた領域の向こう側にある部分に、どうして無断で立ち入ることができるのだろうか、まるで薄氷の上に立つように危なげなバランスでそこに居続けるミズキに、ヒソカは貼り付けた笑みを返して「さぁ、ミズキ、遊ぼうか。今日もめちゃくちゃにしてあげるよ◆」と声を掛けることしか出来なかった。
 それが最善だと思っていたし、それがミズキの望む関係性だと思っていた。


「う、うう……」


 固く閉じたミズキの唇から嗚咽が漏れる。声が出ないよう身を強張らせて必死に耐える姿が痛々しかったが、ヒソカが今ミズキの前に姿を現したとしてもミズキはいつもの顔を無理に作って笑みを向けるだけで、触れられる距離に近寄らせることすらしないだろう。ヒソカは身を潜めながら、その手をぎりと固く握った。


 ミズキは、はぁ、はぁ……と肩で息をしながら、路地裏の壁と壁の隙間から見える青空を見上げた。
 ミズキは事あるごとに空を見上げていた。そこに何かを重ねているのだろうか、空を見上げる時ミズキは決まって天空へと手を伸ばし、まるで掴み取ってやるとの宣言のようにぐしゃりと手を握っていた。

 そして今、ミズキは左手を空にあげようとしていた。しかし、その動きは遅く、腕は震え、顔は苦痛に満ちている。
 迷っているのだろう。何が真実で何が嘘なのか。何が正しくて何が嘘なのか。状況が掴めないまま進む一歩はまるで底なし沼を歩くようなもので、進めば進むほどずぶずぶと沈んでゆく。

 ミズキの息遣いがさらに強くなる。左手は震えながらも少しずつ空に向かってあげられていたが、光のない世界はあっという間に人から気力を奪ってゆく。一瞬ピタリと動きが止まったかと思うと、ミズキはその場で顔を覆ったのだった。右手には真鍮色の腕輪が光っていた。

「ク、ロロぉ……」

 顔を覆ったミズキは、その時初めて腕輪の存在に気づいたかのような顔をして、その腕輪を震える指先でそっと触り、胸元でぎゅっと抱きしめた。ヒソカの目がカッと見開かれる。

 数秒後、顔を上げたミズキは剣が少し和らいだ顔を――ヒソカに言わせれば何かを放棄したような思考停止した顔をして、南の方を見た。それはクロロがいるガラナス山の方だった。
脱力したミズキの手が、ズボンの右ポケットを無意識に触る。そこは、クロロから渡された電話番号が書かれた紙切れが入っている所だった。もう、我慢の限界だった。

なぜ、あの男を想う。なぜ、あの男を頼る。なぜ、あの男を求める。こんなにも近くにいるのに。こんなにも求めているのに、こんなにも欲しているのに――。

ヒソカは我が身を煮えたぎらせた。怒りが身体を黒く塗りつぶしてゆく。絶をしているにも関わらず、オーラがめらめらと不穏に揺れた。

ヒソカは顔を上げると絶を解き、ガラナス山へと夢遊病者のように歩き出したミズキの前にたんと立ち塞がった。驚いた顔で見上げるミズキを、上からじっと感情のない瞳で見下ろす。

八月末の夏真っ盛りだというのに、二人のいる路地裏は凍えるように冷たかった。ヒソカはミズキの目を食い入るように見つめながら、その手をそっと前に伸ばした。








[16.決意 5/7 ]


[prevbacknext]



top


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -