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 なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ――。頭の中はその言葉でいっぱいだった。

 空気さえ凍りつかせる無機質な電子音に、私の目は瞬きを忘れ私の口は呼吸を忘れた。体がよろめく。全てが理解不能だった。


 昨晩、確かに私はビターラッドファミリーへ襲撃をかけ、その場にいた組織員を皆殺しにした。あの場に生きている人間は居なかった。
 組織壊滅ほどの大きな報せとなれば、本部から離れて国外で活動しているあの男の耳にだって届いているはずなのに。それなのに背後にある組織が瓦解したこのタイミングで虐げていた人間に電話を掛けるだなんて、一体あの男は何を考えているのだろうか。

 三コール目、四コール目と呼び出し音は鳴り続け、「なぜ、なぜ、なぜ――」と同じ言葉ばかりが頭を回った。ぐらりと傾いた私の身体を支えるクロロの掌は熱く、クロロの視線を受ける背中はチリチリと灼けるようだった。

 電話を取るべきか、否か。身体が石のように固くなる。五コール目、六コール目と音は続く。私を見上げるクロロが、電話を取るなと首を横に振っていた。しかし、

「ダ、ダメ――」

 あの男はいつもきっかり八コール目で電話を切る。もしかしたら、アマンダに関する事かもしれない。アマンダを殺してしまったのは私なのに、体に染み付いたその妄執が私に携帯電話を取らせてしまった。


「遅い。俺が電話をしたら三コール以内に出ろといつも言っているだろう」
 通話ボタンを押すや否や、あの男が苛立った声で言う。後ろ盾の組織をなくしたとは思えない平常通りの声だった。

「ハッ、悪いな、糞の最中だったんだよ」
「相変わらずお下劣な男だ……」
「うるせーよ。それよりいったい何の用だよ?」
 いつもの調子を装って出した私の声は、小さく震えていた。
「ああ。今日の約束を忘れていないかどうか、その確認の電話だ」


 その言葉を皮切りにジョンが話し始めたのは、今日の昼に予定している打ち合わせに関するあれこれだった。
 時間、ホテル名、部屋番号に始まり、ヨークシンオークションに向かうに当たり必要となる諸々が用意できているかどうか、そして、支払いの七百万ジェニーが用意できているかどうかなどなど、全てこのタイミングで今更伝えるようなものではなかった。


「解せねえ。お前から打ち合わせ前にこんな丁寧なモーニングコールが来た事なんざ一度たりともねえっつーのに。……何を企んでやがる」
「ふっふ、そう言ってくれるな。君の事が少し心配になってねぇ」
「……心配?」
「ああそうだ。心配したんだよ、君の事を。……何を黙っている、年長者がまだ幼い君を気に掛けてはいけないのかな? ふふ、いや、そんな事は別にいい。ただ、今回は彼から写真だけではなく肉声のテープを貰っていてねぇ。お前が喜ぶと思って先に教えてあげたのだよ」


アマンダの肉声テープだなんていったい何の冗談だ。彼女は五年も前に死んでいるというのに――。頭の中が真っ白になる。何が正しくて何が間違いなのか、何が真実で何が偽りなのか、もう何も分からなかった。

 二度三度と宙を虚ろに彷徨って私の視線は心配そうな瞳で見つめているクロロの元へと辿り着いた。どうしたらいい? 私は、何を信じればいい? ぼやけ始めた視界の先には力強い目で私を見るクロロがいた。


「ふっふ、何を黙りこけている。嬉しくないのか?」
「……お前は、信用できねぇ」
「信用? お前に信用されていたとは驚きだな。私たちの間にそんなものは最初からないだろうに……ね」
「う、るせぇ……」
「おやおや、怖いねぇ。信用されていないのは百も承知だが、そんなに噛みつかれると……ね。そんなに言うなら、今ここで聞かせてあげても良いんだよ?」


肉声テープ。アマンダの生の声。これが本物ならば、アマンダは生きていることになる。そう、そうなんだ。やっぱりあの惨劇は何かのあやで、アマンダはこいつらに囚われ続けているんだ。

――騙されるな。また同じ事を繰り返すつもりか。

 都合の良い話を信じ、事実から目を逸らし、記憶を捻じ曲げ、思考を停止させて、私はあとどれくらい仮想の世界に篭り続けるつもりなのだ。現実を見ろ、受け入れろ。お前は肉片だらけの血の海の中に、細切れになったアマンダの服を見つけたのだろう。

 自分を叱咤する。しかし、「アマンダが生きているかもしれない」という可能性は狂おしい程に甘い響きを持っていて、いくら信じるな耳を貸すなこれはあいつの騙しの手口だと言い聞かせても、荒れ狂う感情はますますその勢いを強めるだけで一向に収まる気配を見せなかった。


「き、聞かせろ……」
「おやおや、こんな電話口でいいのかい? これはあの時と同じように、一度再生したら二度と再生できない作りのものだよ?」
「いいから!」
「ふっふ、そう焦るな。今から聞かせてやる……」


 嫌みたらしく笑ったあと、ジョンは電話の向こうで何かのボタンをカチリと押した。キュルキュルとテープの音が聞こえ、数拍の空白の後に懐かしい声が聞こえてきた。


『……ミズキ。少し遅れてしまったけれど、お誕生日おめでとう。もう十五歳ね。何年も会えていないけれど、元気でやっているかしら? 』


 慈愛に満ちた優しい声。それは間違いなく彼女の――平和な世界で憧れ、血みどろの世界で縋り付き、虚ろな世界で支えにし、地べたを這いずる世界で求め続けた彼女の――声だった。
似たような声色の人間に喋らせているのかもしれない。合成音声が使われているのかもしれない。死者の声を再現させる念かもしれない。ダメだ、信じるな、騙されるな。そういくら言い聞かせても、目頭が熱くなり嗚咽が込み上げそうになった。固く食い縛った唇から血がポタリと垂れてゆく。


『……ごめんなさいね、こんなダメな母親で。でも、どこにいてもあなたの幸せを祈っているわ。大好きよ、ミズキ。愛しているわ――』


 ミズキ、愛している。それはアマンダが朝と昼となく私に囁き続けてくれた言葉だった。アマンダの優しい笑顔が、ぎゅっと閉じた瞼の裏に鮮明に蘇る。アマンダの温かくも柔らかい手でそっと頭を撫でられる感覚さえした。

 嘘でもいいから騙されていたい。この言葉にすがり付きたい。どうしようもなく胸が掻き立てられて、居ても立ってもいられなくなった。


「ふっふ、そういうことだ。今日の十二時にいつもの場所で……。いいか、ヨークシンオークションの大事な打ち合わせも兼ねているんんだ、一秒たりとも遅れるな、分かったか」


 もう、クロロの顔を見ることはできなかった。

 私はクロロに背を向けたまま、草の上に転がっていた銃とナイフを腰に差すと、樹のうろの中から隠していた七百万ジェニーの封筒をポケットの中に捩じ込み、枝に掛けてあった薄汚れたパーカーを水流でボロボロになったTシャツの上に羽織って、街の方へと足を向けた。


「ミズキ!」


 背中に突き刺さったクロロの声にビクリと肩が跳ね上がったが、立ち止まるだけで精一杯で、私は振り向くことはできなかった。
 膨れ上がる焦燥感で足が震えていて、クロロが背後で少しでも動いたら、私の足は伸びきったゴムがバチンと元に戻るようにして動き出してしまうだろう。向かう先は街の方かクロロの所か、自分でも分からない。


「オレの連絡先だ」

 クロロの代わりに飛んできたのは一枚の紙だった。見ると携帯番号だと思われる数字が書いてあった。

「終わったら連絡をくれ。待っている」


 連絡をするともしないとも言うことができなかった。私はぎゅっと目をつぶってその紙をポケットに捩じ込むと、そのまま街へと戻る道を駆け出した。

 衝動的にしてしまったこの行動が、どんな意味を持ち、何を選び、何を失ったことになるのか。私は考える事もせずに、只ひたすら駆けた。
 周囲に気を張る事もしなかった。もう秘密の鍛錬場とは言えなくなったこの場所に誰かが来ている可能性だとか、私とクロロのやり取りを誰かが見ている可能性だとかも考えもしなかった。

 だから、湖のほとりから百メートルほど離れた繁みの中で、赤髪の男が拳をぎゅっと握りながらその場から音もなく姿を消した事を、この時の私は気づく事ができなかったのだった。

 私の知らない所で、抑えきれない誰かの怒りが山を震わした。




[17.決意 4/7]


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