77




 濡れたシャツを脱いで近場の枝に掛ければ、熱気のこもる夏風が濡れた肌から水気を取り除いてゆく。クロロは上半身裸の状態で、草の上で横たわるミズキへと視線を落とし、その手をぎゅっと握った。
 体温が戻って来ている。そろそろだな、とクロロが思うのとミズキのまつ毛がピクリと震えたのは同時だった。固く閉じていた瞼がゆっくりと開く。

「ミズキ」

 握った手をさらに強く握ると、ミズキはぼんやりとした様子のまま瞳をゆっくりと右に、次に左に、そして最後にクロロへと向けた。

「ク、ロロ?」

 ミズキはぼうっとした顔のまま、まるで空に浮かぶ雲の糸を集めて織ったような、ふわりとした柔らかい声で小さく呟き、赤子のような純真無垢な微笑みをクロロへと向け、そして、握られていない右手をクロロの頬へと伸ばした。

「ミズキ……」

 クロロは伸ばされた右手をひしと握り、自身の口元へと手繰り寄せてその桜貝のような爪先へと唇を落とした。

 目を覚ましたら聞きたいことがあった。お前は何者で、何を知り、何を隠し、何を求め、何をしているのか――聞きたいことはそれこそ数え切れないほどある。
 しかし、絡めた指先から伝わる温もりが、落とした唇から伝わる感触が、風に乗って漂ってくる彼女の香りが、劣情を刺激して思考を遮った。

「あっ……」

 まだ服の乾いていないミズキを情動のままに引き寄せると、濡れた服越しにミズキの体温がじわりと広がる。接した部分がまるで蠱毒に侵されるように痺れ始め、なぜかその熱がもっと欲しくなった。
 隙間をなくすほどに力いっぱい掻き抱けば、ミズキの匂いが鼻腔をくすぐる。
 肌が密着するほどになってやっと感じられたミズキのその香りは、香水や化粧品といった合成香料とは一線を画しているのにどこか甘く、作り物ではないそれは、男の格好をしているだとか女の格好をしているだとかそういう次元を越えて、クロロのオスの部分をどうしようもなく刺激した。

「ん……ふっ……」

 この女が欲しい。何もかも。
 ミズキの唇を強引に塞いでそのまま舌をねじ込むと、熟れ始めた桃のような爽やかな甘さが胸を満たす。やっと手に入った女だ、自制なんてしていられない。クロロは身体をさらに密着させ、さらに奥へと舌を挿れ込んだ。

「え……な、んで……」

 目を見開くミズキを横目に、クロロはしっとりと濡れたミズキの肉厚な舌を唾液と共に絡め取り、吸い上げる。その唇はマシュマロのように柔らかく、その唾液は脳髄が痺れるほど甘く狂おしかった。

「ちょっ……んっ、なぜ――」

 ミズキから漏れ出る艶めいた声に、鼓膜が過敏に震え、脳髄が熱を持つ。体がカッと熱くなる。クロロは狼狽するミズキの華奢な手首を取り、地面に押さえつけ、キスの雨を降らせた。唇に、頬に、額に、鼻に、まぶたに。ミズキの顔でキスをされていない箇所はないくらいだった。それでもクロロの衝動は収まらない。

「ク、クロロ? 本物?」

 夢の中の出来事だと思っていたのだろうか。ミズキは混乱した様子で制止の声を上げている。
 しかしクロロはミズキの制止の声を唇で塞ぎ、水流でボロボロになった衣服をたくし上げ、閉じられていた脚を割って身体を滑り込ませた。太陽の下に露わになったミズキの肌はきめが細かく、肌に吸い付くようだった。

――もっと味わいたい。

 パサリと服を脱ぎ捨ててミズキの剥き出しの上半身に肌を重ねると、触れ合った場所からミズキの体温が広がっていった。まるで重なり合った肌と肌とが一つになって溶け合うようなその感覚に、クロロは母胎の羊水の中でまどろむような心地良さを感じた。

――もっと欲しい。

男物の服に化粧っ気のない顔、女性らしさとは程遠い貧相な身体つき。類稀な美貌を持っているわけでもない。豊満な肉体を持っているわけでもない。女としての魅力とは掛け離れているはずなのに、それにも関わらずクロロはミズキが欲しくてたまらなかった。飢えにも似た感情がクロロを襲う。

「や、クロロ……止め――」

 ミズキの細い指先をギュッと握りながら、隙間なく身体を密着させ、舌先でミズキの肌を味わってゆく。耳朶をしゃぶり、首筋を舐め上げ、胸元に所有印を刻む。止まらなかった。

 ミズキ。ミズキ、ミズキ……。心の中で彼女の名前を何度も呼ぶ。唇で、舌で、指先で、腕で、脚で、皮膚で、身体の器官全てでミズキを感じていた。

 なぜこの女なのだろうか。もっと美しい女とも、もっと肉体美豊満な女とも関係をもったことがあるのに。なぜこの女にだけ、こんなにも肉体が反応しているのだろうか。頭の片隅で己に問い掛けるも、答えを見つけ出す事は出来なかった。

――ミズキが欲しい。

 その情動は加速度的に増してゆく。むしゃぶり尽くしたい。骨の髄まで――。クロロは身体を焦がすその衝動に突き動かされるようにして、ミズキのズボンへと手を掛けた。

「い、嫌! 止めて!」

 突然ミズキが声を荒げ、クロロを突き飛ばした。目を開けた時とは打って変わった力ある瞳で、肩を上下させている。

「な、何でクロロが? 夢じゃなかったの!?」
「当たり前だ。夢だと思ったのか?」
「なんで?だって、私、確かに――」

 ミズキは自身の胸部と腹部を、困惑した様子でペタペタと触った。どの時点までミズキに意識があったのかは分からないが、意図してあの水柱の中に入っていったとしたならば、身体に損傷がない今の状況が奇異に思えるだろう。
 このまま嫌がるミズキ相手に事を進めても利はないだろうと判断し、クロロは口を開いた。

「……治したんだ、オレの念で」
「治し、た……? 私、死んでないの?」
「ああ、死んでいない。もっとも死ぬ寸前ではあったがな」
「私、失敗したの? 全ての元凶なのに……私、死んでないの?」
 ミズキは虚空を見つめたまま身体を硬直させた。
「ミズキどうしたん――」
 ぶわりと風が吹いた気がして、クロロは言いかけた口を閉じた。
「なんで、なんで……私は――。私は……私なんか……」

 拳を握りながらうわ言のように呟くミズキから、絵の具をぶちまけたような濃い色合いの「何か」が、あのヨークシンの夜と同じように無秩序に噴き出し始めた。
 赤、青、黄色、緑。原色だらけの色の氾濫に耳の奥がぼーっと痺れ、ミズキ以外の存在が遠ざかってゆく気さえした。

 暴力的とも言える色彩の洪水。うずくまって声にならない叫びを漏らすミズキをそっと抱きしめながら、まるでピカソのゲルニカだなとクロロは思った。
 スペニーニャ内戦の際に行われた航空からの無差別爆撃を題材に描かれ、人々の苦しみと混沌とを原色を多用して描かれたその絵画は、見るものの心を鷲掴んで揺さぶった。ミズキのこれはそれに近いものがある――と、そこまで考えてからクロロはゲルニカがモノトーンを基調に描かれた作品であったことを思い出した。

 原色は一切使われていない。ゲルニカはモノクロ基調の作品だった。あるはずのない色味を絵画に感じ、あまつさえそれを真実だと一瞬でも思ってしまった自分自身に、クロロは驚きを隠せなかった。

 思い違いではない。思考の侵食。己の思考が彼女の存在によって惑わされている。
 それはクロロにとって前後不覚になるほどの衝撃的な出来事であった。

 常日頃から蜘蛛の頭に必要な要素は、圧倒的な力でもカリスマ性でも知能の高さでもなく、先を見通す『先見性』と『冷静さ』、そして、『強い意志』であると考えているクロロは、鉄壁の理性を常に働かせており、感情も欲望も思考も己の全てをこの理性の支配下に置いてコントロールしていた。ミズキを追うと決めた時でさえも、この理性の支配の元での決断だった。

 それなのに、特筆する能力があるわけでもない、突出した容貌があるわけでもない、どこにでもいるただの女――そんな女に、困難なトラブルに見舞われた時でもブラックリストハンターと対峙した時でもゾルディックの現当主と戦った時でも揺るがなかった思考が乱されているだなんて、なんという事態だろうか。

 いや、思考だけではない。もしかしたら己の感情も欲望も過去の決断でさえも狂わされているのかもしれない。そうだ、先程だって女を落とす手順として効果的ではないのに、ミズキを衝動のままに押し倒してしまっている。気づかない内に判断が狂わされているではないか。

 一度綻びが見つかるともう元の状態に戻る事は出来なかった。

――この女が欲しい。

その思いに間違いはない。事実、ミズキを前にしてオレの体は性的に興奮している。不確かな正体を暴きたいという欲求もある。手玉に取られた苛立ちの解消という側面もあるかもしれない。しかし、本当にそれだけなのだろうか。

 彼の優秀な頭脳は一瞬で様々な可能性を弾き出し、そして、ある一つの結論に辿り着いた。
『コストに対してリターンが少なすぎる』と。

 蜘蛛の仕事に役立つ人間でもない。盗み出したい念能力がある訳でもない。類稀な肉体と美貌を持つ絶世の美女という訳でもない。そんな女になぜヨークシンオークション前のこの大事な時間を費やしたのだろうか。なぜその判断を許してしまっていたのだろうか。この女にそこまでの価値はないと言うのに――。

 それは、冷静になれば直ぐに至る結論であった。しかしクロロはミズキを追った。
 理性が『その女には追うほどの価値はない』と結論を出していても、理性では抑制出来ない「何か」が自分自身でも気づかないうちにクロロを追い立てていたのだった。

この女は危険だ。直ぐに離れなければいけない――。

 クロロの脳はミズキを悪影響を与える危険なものだと判断した。
 背中に回した腕を解き、立ち上がり、背を向けて歩き去るのが最も良い行動だろう。入水自殺直後である事も、何やら強い衝撃を受けている事も、苦しみの渦中にいるだろう事も関係ない。金の腕輪さえ回収してしまえば今後煩わされる事もだろう。さっさと女を捨てて立ち去れ。それが、クロロの理性が下した判断だった。


 しかし、ミズキを抱き締めるクロロの手はその指示に反してさらに力を増し、苦しげに寄せられた眉根はより深い皺を刻んだ。

「ミズキ……」

 小刻みに震えるミズキの頭を抱き、髪を梳き、冷たい頬に頬を付ける。彼女を呼ぶ彼の声は、思いとは裏腹に胸が締め付けられるような切なさを含んでいた。理性では抑制できない「何か」がクロロを動かしていた。

「ミズキ」

 ミズキの発する色は、原色に黒色をぶち撒けたような色になっていた。そこには胸を裂くような強く激しい悲しみがあった。

「嫌だ……なんで私が生きて、彼女が死ななきゃならないの……。もう、いや……嫌だ――」

 ミズキは虚空を見つめたままうわ言のように言葉を呟き続けている。その瞳は、目の前に居るにも関わらずクロロの姿を一片も映していない。クロロの声もミズキには届いていなかった。

「ミズキ、落ち着け」
 それでもクロロはミズキへと声を掛け続ける。
「いや、いやっ! なんで……なんで私が――」

 暴れ始めたミズキを力の限り掻き抱く。
 どれ程の苦痛が彼女を襲ったのだろうか。幾百の悲しみと幾千の苦しみを一つに纏めて絞り出したような声を出しているにも関わらず、ミズキの目は干ばつの起きた沼地のようにカラカラに乾ききっていた。涙の枯れた虚ろな瞳が、痛々しかった。

「ミズキ……」

 こんな時、何て言えば良いのだろうか。甘い言葉。慰めの言葉。奮起させる言葉。力づける言葉……。心神喪失した女ほど操りやすいものはない。自分の支配下に置くための効果的な言葉も手順も、いく通りも備えているつもりだった。しかし口から出たのは、

「もう、終わったんだ――」
 そんな不明瞭で不確かな、効果性とは掛け離れた言葉だった。

「違う……終わってなんかない……。終わってなんか……。だって、アマンダは……彼女は――」
「ミズキ。終わったんだ……。もう、全て終わったんだ」

 何がどう終わったのか。それ以前にそもそも何があったのか。クロロは何も分からなかった。ただ目の前で悲しむミズキをどうにかしたくて、クロロは「もう終わったんだ」と掻き抱きながら繰り返した。

「終わってない、終わってなんかいない……。だって、全てが終わったって認めたら――、アマンダが死んだって認めたら――、私は……私は……」
「ミズキ」
「いや、嫌だ、認めたくないよ……アマンダが死んだなんて認めたくない。アマンダが死んでいたのなら。私は今まで何のために――。クロロ、クロロぉ……」

 乾ききっていたミズキの目から涙が溢れ出し、ガチガチに固まっていた身体から強張りが抜けて行く。クロロは骨が折れそうなほど、ミズキを固く抱き締めた。

「うわぁーーん」

 ミズキは大粒の涙を流して泣き始めた。それは以前見たような我慢に我慢を重ねた上で零れ落ちた涙とは一線を画していて、まるで何年も押し殺してきた感情を一斉に解放したような泣き方だった。
 滝のように流れる涙を拭う事もせずに、ミズキが子供のようにしゃっくりを上げて泣き続けた。


 気を引こうと泣き真似をする女。包丁片手に別れるなら死んでやると叫んだ女。貴方の為なら何でもするわと懇願した女。どの女も涙を流していた。どの女の泣き顔も醜かった。
 女の泣き顔は醜い。今までそう思っていたが、顔をくしゃくしゃにして泣き続けるミズキの顔はお世辞にも綺麗だとは言えないのに、なぜか目を離す事が出来なかった。

『大事な人』『あの人』『アマンダ』

 話の断片から聞いたその言葉。ミズキが大切に想い命を賭けても構わないと思っている人物。ミズキの悲しみも悲しみも、今流している涙でさえも全てがその人に向けて発せられている。目の前にクロロがいるにも関わらず、クロロに向けられた感情はひとつまみもなかった。

 その事実はクロロの心臓をきゅうっと締め付けた。
 こっちを向け。オレを瞳に映せ。オレを知り、オレを求めろ――。ミズキに全てを知らしめたいと、クロロの中で感情が膨れ上がる。彼女を押し倒し、身体を貪り、自分のものにして。彼女の中に己の存在を刻みつけたい。

 しかしその一方で、ミズキが落ち着くまでいつまでもでも慰めてあげたいと思っていた。背中を摩り、頭を撫で、身体を抱き締める。ミズキが望むなら一晩でも二晩でも付き合ってあげたかった。

 相反する感情。何が正解で、何が間違いか。どれに利があって、どれに利がないか。最小の労力で最大の利益をもたらす行動は何だろうか。クロロはもうそう言った事を考える事を止め、己から湧き上がる感情にただただ身を任せるようになっていた。

 理性を働かせずに感情に身を任せるのはどれくらいぶりだろうか。三年前、五年前、もしかしたら旅団結成前まで遡るかもしれない。
 メリット、デメリット、効果的な対応策に求める答えへの最短ルートなどなど、あれやこれやを考えずに心から湧き出る衝動に身を浸すのは、正直心地よかった。まるでずっと背負い続けてきた鉛のコートを脱いだように肩が軽く、泣きじゃくるミズキの背をそろそろと撫でながら、クロロはもうしばらくこの心地に身を浸しておきたいと思った。

 ミズキが欲しい。それはちょっとしたゲーム性が始まりだった。次第に目を付けた獲物に対する『執着』、蜘蛛を束ねる者としてのプライドがクロロを突き動かすようになっていた。
 しかし、今はもうそれだけではないモノが己の中に存在している事をクロロは自覚していた。ゲーム性や執着では説明できない、熱く焦げ付くようでいてキュッと締め付けられるような苦しさを含むそれ。それは理性も思考も抑制も狂わせる恐ろしい力とを持っていたが、その一方で長年背負い続けている何かから解放させてくれるような優しさを持っていた。

「ミズキ、ミズキ……」

 こんな時はなんて言えばいいのだろうか。好きだ? 愛している? そんな感情、自分の中に存在しているかどうか分からないのに――。

 だけどそんな事はもうどうでも良い。ミズキが目の前にいる。それだけで良い。
 クロロは、春の日差しのような温かい目でミズキを見つめながら、ミズキの背を優しく撫で続けていた。





 それからどれくらい経っただろうか。ミズキは静かに顔を上げた。その顔は泣き腫らして真っ赤になっていた。しかし、先程までの痛々しさは消え去っており、クロロは何かから吹っ切れたような清々しい顔をするミズキの頬を慈しむようにそっと撫でた。

「クロロ……」
「なんだ?」
「その……ありがと。あと、助けてくれたのに、八つ当たりしてごめん。色々あってちょっと混乱してたんだ……」
「もう、いいのか?」
「良くは、ない……。まだ整理できてない事もいっぱいあるし、これからどうしたらいいか分からないけど……。でも、このままこうしているわけにはいかないから……」
寂しそうな瞳でそう言ってクロロから離れようとするミズキを、クロロはぎゅっと抱き寄せた。
「辛いならずっとこうしている。どこにも行く当てが無いならオレの所に来い。どうしていいか分からないなら一緒に考えてやる。だから、そんな苦しそうな顔をするな――」
 クロロはミズキの唇を塞いだ。それは、そっと触れるだけの優しいキスだった。
「クロロ――」


 二人はひしと抱き合った。それは、長い間離れていた半身を求めるような抱擁だった。感情のままに、欲望のままに、心のままに、肉体の求めるままに、二人は口付けを交わす。

 二人を隔てるものは、もう何も無いはずだった。しかし――、

 ピリリリ。互いに唇を貪り合う二人の間を、無機質な電子音が鳴り響いた。
二人の動きがピタリと止まる。音の発信源は、湖のほとりに銃やナイフと一緒に乱暴に置かれたミズキの携帯電話だった。

「あの男からだ――」

 小さな声で喘ぐように呟いたミズキの顔は蒼白で、絡めた指先は氷のように冷たく、小刻みに震えていた。

 ピリリリリ。なおも電子音は続く。感情を持たないその音は、周囲の夏の暑さに反して底冷えするような冷たさを持っていた。風がざぁっと吹いて、木の葉を一斉に揺らしてゆく。不気味な風だった。

 唐突に鳴り響いた携帯電話によって引き裂かれてしまうことを、この時の二人はまだ知らなかった。



[17.決意 3/7 ]


[prevbacknext]



top


人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -