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「ミズキ」

それを目にした時、男は手元の羅針盤を投げ捨てて、竜のように荒れ狂う水柱に向かって走り出していた。





昨晩、男はニュースティ駅前のホテルにいた。

パソコンの前に座り、送られてくる一週間後に迫ったオークションの情報を入念にチェックしていく男の傍らには、金色の輪が三重に重なっている物体がある。それはミズキの現在位置を示すもので、円環に刻まれた記号と文字列から読み解くに、ミズキは今タナトニア公国の南西部、ここから車で四時間、高速飛行船で三時間半の距離の場所にいるようだった。

ミズキが移動をし始めた夕方頃にそのまま後を追って行っても良かったのだが、現在位置の精度が高まっていない状況で追っても得られるものは多くないと、男はミズキがホームとしているこのエリアに留まって残った仕事をする事にしたのだった。

男は画面に表示されている建物の図面と警備員の配置図を鋭い目で見ながら、時折思い出したように羅針盤へと視線を流す。

実際のところ、あと三日もすれば手元にある羅針盤はミズキから断続的に放出される微弱なオーラを受容して数センチと誤差もなく居場所を示すようになるので、この時の男の判断は間違っているとは言えなかった。

しかし、この時ばかりは勝手が違った。


男が違和感に気づいたのは時計の針が十時をいくばくか過ぎた辺りだった。それまで静寂を保っていた羅針盤が、突然クルクルと激しく回り出したのだった。ミズキの身に、寝ている時でさえ操作していたオーラを解除するような何かが起きている。男は冷酷な瞳で羅針盤を見ながら、唇に手を当てた。

大量のオーラを受容した羅針盤は一瞬の内にその精度を高め、今では一センチの狂いもなくミズキのいる位置を指し示すようになっている。考えうる可能性の全てを脳内で弾き出した男は、数秒の空白の後、唇を吊り上げて立ち上がりハンガーに掛けてあるジャケットを手に取った。


「チェックメイトだ、ミズキ――」


男の目は獲物を狙う獣のような強い光に満ちていた。三人目の男――クロロ=ルシルフルが動き出した瞬間だった。勢い良く出て行った扉の内側で、壁に掛けてあったハンガーが誰も居なくなったホテルの床にカタンと落ちた。


奪取する時間を考えると飛行船で向かうより車で向かった方が断然早い。クロロはホテル近くの路上で車を奪い、そのままミズキのいるタナトニア公国の港町「タナトン」へと向かった。
ミズキを手に入れるまであと四時間。

ここまで来たのなら心を完全に落とすところまでやらなければ、このゲームの勝利とは言えないだろう。さて、どんな手であの女を落とそうか。タナトンに近づけば近づくほど高揚してゆく自分自身を、クロロは感じずには居られなかった。道中、スピード違反を警告するパトカーがサイレンを鳴らしていたが、クロロはそれを余裕の笑顔で振り切った。

しかし、チェックメイトまであと一手、その思いで車を飛ばしていたクロロから、目的地まであと二十分となった所で、不敵な笑みが消えた。その目は助手席に置かれた羅針盤を睨みつけていた。


「何が、起きているんだ……」


羅針盤は終始カタカタと震え、その針はまるで多大なオーラに当てられ機能を狂わされたように、クルクルと回り続けている。クロロは下唇を噛み、アクセルをさらに踏み込んだ。

十五分後、羅針盤の指し示す場所に辿り着いたクロロは、その光景に言葉を失った。鼻を突く生臭い匂い、壁に残るいくつもの弾痕、そして、重なるようにして倒れている男たちの山。明らかに何らかの襲撃があったと思われる様子にクロロは困惑した。本当にミズキはこの場所に居たのだろうか。あの、キスをしただけで顔を真っ赤にして逃げ出してしまう少女が――


『……ねえクロロ、その子が『蜘蛛との接触を目的とした人間』――である可能性は?』


いつかシャルナークに言われた言葉が頭をよぎる。もし、これがミズキがしたことだと言うのならば、シャルナークの言う通り、実力を隠して蜘蛛の頭であるオレに近づいてきた可能性が出てくる。そうしたら、あの時の涙も、紅潮した頬も、蕩けた瞳も、切なそうな声も、苦しそうに噛まれた下唇も、全てが偽りだと言うことになる。

明かりの消えた中庭を歩きながら、クロロは口元に手を当て、思考を高速で巡らせる。とその時、視界に何かが入り、クロロは足を止めた。

それは、血のついたトランプと、銀色の鋲だった。まさか――。クロロは駆け出し、落ちているそれを手に取り、すかさず目に凝をした。間違いない、あの二人のものだ。


なぜこの場所にこれがあるのか。この襲撃にこの二人が関わっているのだろか。そもそもミズキは本当にこの場所に居たのだろうか。ミズキとあの二人はどんな関係なのだろうか。


疑問が次から次へと浮かぶも、騒ぎを聞きつけた警官がこの場所を固め始めている。突入するまであと三十秒とないだろう。他に手掛かりとなるものはないかと周囲を見渡すと目の端に警備室に映った。クロロは警備室に飛び込むと、PCモニターから素早く監視カメラの映像記録を抜き取り、警官が突入する前に屋敷から走り去った。

それから数分後、屋敷から百メートルと離れていない二十四時間管理体制のビルにクロロは忍び込み、盗み取った監視カメラのデータを警備室の巨大モニターに再生させた。

監視カメラの死角となる場所から突入し、突入後数分と経たずに監視カメラの大元を破壊しているその手腕。間違いなくプロの仕業だった。監視カメラの映像を破棄しなかったのは、いくらデータを解析されたところで、ぼんやりとしたシルエットからは個人の特定に至らないと踏んでいるからだろう。

しかし、だからこそクロロは確信した。これは、プロの――、イルミ=ゾルディックの仕業だと。そして、この奇抜な衣装のシルエットの人間はヒソカだ。ヒソカを知る人間ならシルエットだけでも分かる。あの二人はこの襲撃に参加し、そして、クロロが到着する数分前まであそこに居たのだ。では、これは――


「ミズキ、か?」


クロロは二人と一緒に居る小柄な少年を凝視した。確かにミズキと身体的特徴は一致していたが、初めて会った時の白いワンピース姿とも二回目に会った時の水商売風のドレス姿とも掛け離れたその姿に、クロロはこの人物がミズキであるのかどうか確信を得ることは出来なかった。


「――やられた」


羅針盤に視線を戻したクロロは舌を打った。監視カメラの内容を確認する十分ほどの間に、羅針盤の指し示す位置が、屋敷から天空へとなっている。飛行船に乗っているのだろう。ここから最寄りの飛行船ポートに向かって、船を手配したとしても三十分以上は時間をロスする。もし、ミズキの乗っている船がゾルディックの高速飛行船だとしたら、船に乗って追いかけたとしても距離を離されてしまうだろう。


あの二人と連絡を取るべきだろうかと一瞬思案するも、クロロは直ぐにその案を却下した。自分との戦闘を望むヒソカにむざむざ情報を与える必要はないし、女ごときでイルミとの対等な取引関係を崩したくはない。

それに、他人にお膳立てされて手に入れた獲物など、露ほど価値がない。自分で手に入れなくては意味がないのだ。

クロロは携帯を懐にしまうと床に転がる警備員を踏み越えて、最寄りの飛行船ポートへと向かった。







飛行船の手配は思いの外手こずった。夜中の二時三時に直ぐに船を出してくれる人間などおらず、やっとのことで飛行船を手に入れたクロロが、ミズキの乗っていると思われるゾルディックの私用船を追ってストックスの街に着いたのは、朝の八時が過ぎた頃だった。ミズキは既に郊外へと移動している。飛行船で移動している数時間の間に、羅針盤はもう振動しなくなっていたが、それはクロロの中でもう大きな問題ではなかった。


知りたい。知りたい。お前が知りたい。お前が何者で、何を知り、何を隠し、何を求め、何をしているのか。全てを知りたい。暴きたい――。


それが今のクロロを動かす原動力だった。こんなに知りたいと思った女は――こんなに振り回される女は、初めてかもしれない……と、クロロは羅針盤の指し示す方向を見ながらふっと笑った。

ガラナス山のふもとに辿り着いたクロロは、手元の羅針盤でミズキの位置を確認しながら、岩肌の剥き出しとなっている急斜面を駆け登る。走れば走るほどミズキまでの距離が、八百メートル、五百メートル、三百メートルと短くなってゆく。やっと、手に入る。クロロは笑いを噛み締めた。

しかし、鬱蒼と茂る木の枝を掻き分けて辿り着いたクロロが目にしたのは、まるで竜巻のように渦を巻いて湖から立ち上る、何本もの水柱だった。闘技台の上で躍り狂うコマのように轟音を立てながらぶつかり合い、そして弾き合っている。

能力者同士が戦っているのだろうか。そう思うも、辺りを探ってみても戦闘している人物はおろかオーラのぶつかり合いも感じられない。嫌な予感がゾクリと胸をよぎり、クロロは弾かれたようにして羅針盤を見た。

その針は、無情にも立ち上る水柱の一本を指し示していた。


「ミズキ」


クロロは駆け出した。クロロの後ろで羅針盤が草の上にトサッと落ちる。湖の中に躊躇いもなく入り、濁流を掻き分けて前に進む。途中、何度も水流に足を取られそうになるも、オーラを全身に纏わせてそれにあらがい、迫り来る水柱を"硬"した手で真っ二つに割って、さらに足を進める。

襲い掛かる水柱を何度なく手刀で薙ぎ払ってついにミズキの元に辿り着いたクロロは、ぐったりとしたミズキを腕に抱えた。


「……これは酷い」


遠目には分らなかったが、至近距離で見てみるといかに危険な状態か一目瞭然だった。折れ曲がりあさっての方向に向いている手足に、青く膨れ上がった腹部。おそらく折れた肋骨が内臓が突き破っているのだろう、胸部はべこりと凹んでいた。


「即死レベルだな。あと五分保つかどうか……」


草の上にミズキを横たえ、クロロは呟く。その眉根には苛立ちとも苦しみとも分からない深いシワが刻まれていた。

そうやって立ち止まっていたのはどれくらいだっただろうか、クロロはおもむろにオーラを練ると、右手にオーラで作った本を出現させた。『スキルハンター(盗賊の極意)』――他人の能力を盗む特質系能力。右手に出現させた本には過去に盗み取った数多の念能力が収納されていた。クロロはその中の能力の一つを発動させる。


『エンジェルブレス(小天使の息吹)』


それは、グリードアイランドをプレイしたことある人間から盗んだものだった。入手難易度SSランクのカード「大天使の息吹」を模して作られたらしい能力で、対象者を治癒する能力を持っていた。

しかし、一度きりという制約のもと対象者の傷や病をたちどころに治すオリジナルの「大天使の息吹」に比べてこの能力は、対象者の持つオーラ量に依存した量しか相手を治癒出来ない、強化系能力の念に過ぎなかった。しかも、治癒中、発動者は強制的に絶になってしまうという厄介な制限もついている。

ただ、対象者の自己治癒能力を限界まで引き上げることしか出来ない代物。それが『エンジェルブレス(小天使の息吹)』だった。


ミズキの傷がどれくらい元に戻るか、全てはミズキの生命力次第。

やっと探し出した女が死にかけていることにクロロは苛立ちを隠せない様子ではあったが、念を発動させているクロロの瞳は、この女に瀕死状態を切り抜ける力があるのかどうか、どこか審判するような冷めた瞳をしていた。


「これで、どこまで治るものか……」


その顔には、死んだら死んだでそこまで――、少し手こずったゲームが終わりを迎えるだけだ、という感情がありありと刻まれていた。

しかし、念を発動させて一分と経たない内に、クロロの顔色は焦りを帯びたものへと急変した。



「なんだこれは――。暴れてやがる……」



ミズキの腹部に当てた左手がガタガタと大きく左右に揺れていた。エンジェルブレスは対象者のオーラを強化系のオーラに変換して自己治癒力を極限まで強めるというもので、通常、対象者のオーラを強化系に変換する作業は一度で済むはずだった。

しかし、ミズキのオーラはまるで複数人のオーラが一度に介しているように統一性がなく、その上、そのオーラ量は底が見えない。少しでも気を抜くと、腹部に当てた左手が弾き飛ばされそうだった。

発動時に強制的に"絶"状態になるという厄介な制約のせいで、肉体の力だけでその暴れるオーラを抑え込まなければならない。キュッと唇の引き締まったクロロの額から一筋の汗が垂れていく中、潜在する全てのオーラが強化系のオーラに変換されたミズキは、自己治癒力の向上というレベルを越して、まるでビデオの逆再生をしているかのようなスピードで身体の傷を修復していった。

十分も過ぎた頃には、ミズキの体からは先ほど受けた傷どころか身体の至る所にあった古傷さえも綺麗さっぱり無くなり、まるで生まれたての赤子のように滑らかな皮膚へとなっていた。


なんだこの女は、全てが想定外だ――。


治癒が終わったクロロは本をパタンと閉じた。額の汗をぬぐってその場に腰を下ろし、クロロは目の前に横たわるミズキをまじまじと見た。

薄汚れてボロボロに破れた男物の服。自己治癒力の活性化の影響で今やその肌も髪も生命力に満ちたものとなっているが、思春期特有のモデル体型への憧れとは一線を画す、栄養の行き届いていない痩せぎすな体型に、治癒する前に目に入ったいくつもの古傷、湖の脇に落ちている手入れの行き届いたナイフと年季の入った拳銃。あの二人と一緒に映っていた少年は、ミズキに間違いないと、クロロは確信を得た。

なぜこんな格好をしているのか、どちらの姿が本当のミズキなのか、あの二人とはどういう関係なのか、そして、このオーラは何なのか――。疑問は尽きることがなかった。

しかし『ミズキを手に入れた』、それだけは紛れもない事実だった。


「早く、目を覚ませ」


クロロは、太陽の光を受けて手首で光る真鍮色の腕輪に手をそっと置き、そのままミズキの細い手首をそろそろと伝って、桜貝のような爪で飾られたミズキの華奢な指先に、自身の指を絡ませた。


「ミズキ……」


濡れた前髪を空いた手で拭い、耳元でその名前を二度三度と囁く。それでも、ミズキは目を覚まさない。自己治癒力活性化の影響で、赤子の肌のような水々しさを得た柔らかい頬に、クロロは体温を与えるように自身の額をピタリとつける。ミズキの温もりと脈動が肌を通じて伝わってきた。

知りたい。知りたい。お前が知りたい。お前が何者で、何を知り、何を隠し、何を求め、何をしているのか。全てを知りたい。暴きたい。早く目を覚ませ、ミズキ――。


クロロはツンと上を向いたまま半開きになっているミズキの唇に、そっとキスを落とした。冷たいミズキの唇に熱を与えるように、何度も何度も重ねる。

静まり返った水面で魚がパシャリと跳ね、二人の間を爽やかな風が吹き抜けていた。




[17.決意 2/7 ]


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