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プァプァァ。後ろから突然聞こえたクラクションに、私は体を強張らせた。

「どこ見てんだ!このクソガキ!!」
「あ……ごめんなさい」

こんな風に車に引かれそうになるのもこれで三度目だ。私は車窓から体を乗り出して怒声を上げる男に、ペコリと頭を下げた。
頭が酷く重かった。イルミの説明によると、私はイルミとの別れ際にビルの屋上で足を滑らせ、そのまま頭を打って気絶してしまったらしいが、この身体のだるさと頭の重さはただの強打と気絶からなるものとは思えなかった。しかしイルミの言う通り、頭の中には朧げではあったが確かに足を滑らせて頭を打った記憶があったので、私は色んな疑問をうやむやのままに全て飲み込み、心配顔をする二人を後にした。

「あいつらに借りができちまったな……」

気絶した私の隣で困った顔で首を傾げるイルミの様子が頭にありありと浮かぶ。もしかしたらヒソカと一緒にどこぞに遊びに行く予定だったのかと思うと、二人への罪悪感で胸がいっぱいになった。

「今度会ったら飯でも奢ってやるか。ま、その辺のファーストフードくらいしか奢れねぇけど。……つーか、今何時だ?」

携帯を取り出しして時間を確認すると、七時十五分だった。今日は昼にヨークシン出立前の最後の打ち合わせがあり、夜にはヨークシン行きの飛行船に乗らなくては行けない。出来ることならヨークシンに発つ前に牛乳瓶に念を掛けたかったが、ライスの牛乳配達の時間は一時間半も前に過ぎている。それならば、ガラナス山で最後の鍛錬に向かうべきだ。

「よっし、行くか……」

私は携帯をパチンと閉じて、ガラナス山に足を向けた。それは、いつも通りのいつもの日常だった。しかし、私の胸は言い知れない焦燥感と大事なことがぽっかり落ちたようなその覚束なさでいっぱいだった。





「ハァハァ……クソッ、意味わかんねぇ、何でこんなに疲れんだよ……」


気合いを入れた側から気力がまるで穴の空いた風船から抜け出すように漏れてゆき、ガラナス山のいつもの場所に辿り着くまで、普段の倍の時間がかかってしまった。

「顔でも洗おう……」

冷水を浴びれば少しはマシになるだろう、そう思い湖に目を向けた瞬間、まるで金槌で殴られたような痛みが頭に走った。


――だめ、いっちゃだめ


頭のどこかで誰かが囁く。それは悲しみに満ちた声だった。
ふざけるな、顔を洗うだけだっつーのに何なんだこれは……。湖に近づくごとに強くなる痛みに耐えて私は水辺に歩み寄った。そしてその場に膝をついて頭を湖に突っ込んだ。ぶくぶくぶく……と口から気泡が漏れ、冷水が靄のかかった鈍い頭を包んだ。

「ぷはっ……ハァハァ……」

窒息一歩手前で顔を上げ、肩で息をする。びしょ濡れになった髪からポタリポタリと水滴が垂れ、八月の爽やかな緑を映す水面に落ちて水紋を描く。ゆらゆら揺れる水面の先に自分のやつれた顔が写っていた。

「……ひでぇ顔」

櫛の通っていないボサボサの髪に、隈が色濃く残る荒んだ目。水面に映る年頃の女とは決して思えない自分のみすぼらしい顔をパシャンと苛立ち紛れに叩くと、水波紋で私の顔がぐにゃりと歪む。それが唇を吊り上げて笑った気がして、私はギョッと身を強張らせた。

心臓がぎゅるりと捻じり上げられ、まるで流砂に足元から飲まれてゆくような不安が、じわりじわりと広がっていく。この感覚に、私は覚えがあった。つい最近――、本当につい最近に感じた気がするのに、それがいつだったか私は思い出すことが出来なかった。

――思い出しちゃダメ……

段々と激しくなる頭痛に、目の前がチカチカと点滅し始め、痛みで吐き気すら感じた。噛み締めた唇からたらりと血が落ち、まるで薄ら笑いをする自分が映る水面でゆらゆらと赤い水紋を作ってゆく。負けるな……。こんな時は彼女の名前を……あの人の名前を――


「え、名前……?」


思い出せない。あれほど繰り返し繰り返し唱え続けた彼女の名前が、まるで薄もやのベールで囲われたように出てこなかった。その事実に私は戦慄し、恐怖した。どんな苦しみも厭わないと求め続けた彼女の名前も彼女の声も彼女の笑顔も、彼女に関する何もかもが霞がかかった状態で思い出せないだなんて、なんてことだ。その事実に戦慄し恐怖した私は、悩む間も無く腰に下げたナイフを太股に勢い良く振り下ろした。

「ぐっ……」

灼けるような痛みが太ももに走り、目の奥で火花が散る。しかし、私には彼女の記憶を失う方が、太ももの痛みと比べものにならないくらい辛いのだ。ナイフを握る手にさらに力を入れると、誰かのそれはダメだと言う声と共に、頭の中で鳴り響くドラがどんどん大きくなっていった。

「うっがぁぁぁー!オレは負けねぇぇぇぇー!!」

叫び声を上げてオーラを一斉放出する。永遠のような一瞬が流れ、頭の中でバチンと何かが爆ぜたのを最後に、頭の中で聞こえていた声と痛みは跡形もなく消え去った。私はついにそれに打ち勝ったのだった。ハァ……ハァ……と私の荒い呼吸音だけが辺りを包んでいた。


「終わった……全てが、終わった……。ふふっ、ふふふふ……あはははははははっ!!ははっ、はは……ごめん、ごめんよ……イルミ、ごめん……」


全てが終わった。私は霞の向こうにあった彼女の――アマンダの記憶を全て取り戻した。しかし、失った物も大きかった。
大事なものを全て忘れて過ごす穏やかな日々と、大事な物を抱えて過ごす苦痛に満ちた日々――それはどちらの方が幸せなのだろうか。私にはもう分からなかった。乾いた笑いが込み上げる。


「ごめんな、イルミ……せっかく……せっかく、忘れさせてくれたのに……オレ、アマンダを忘れたままではいられなかったよ……ごめん……」


ばたんと川辺に仰向けになると、どこまでも続く青い空が視界いっぱいに広がり、葉の繁った樹木の枝に止まる小鳥が奏でる綺麗な歌声が耳をくすぐった。なんて美しい世界なんだ。今まで、仕事に追われ続けていたせいで、この世がこんなにも美しさに溢れていることに私は気づきもしなかった。

「綺麗……本当に綺麗だ……」

でも、この美しい世界にアマンダはいない。どこにもいない……。乾いた笑いしか口からは出なかった。
私は彼女を何よりも大切に思っていた。自分の命なんてどうでも良いと思えるくらい彼女が大事だった。私の光で、私の希望で、私の全てだったアマンダ。彼女を助けられるのなら他の何もいらなかった。彼女を取り戻せるのなら何を犠牲にしても良かった。だけど、それももう終わり――

「アマンダ……見つけたよ、アマンダ……。アマンダを殺した犯人、やっと見つけたんだ……」

私は腰に下げていた愛銃とナイフとポシェットをドサリとその場に解き、ゆっくりと湖に向かって進んでいった。前方には放出したオーラで作り上げた何本もの水柱。まるで竜巻のように立ち上るその水柱は、時速百キロで走るダンプカー並みの力を持つ。オーラを解いた状態でその水柱を受ければ、常人の身体は一瞬のうちにバラバラになるだろう。そう、一瞬で――


「待ってて、アマンダ……。今、貴方を殺した犯人をこの世から抹殺するから……」


岸辺が遠くに見える。水はもう胸元まで来ていた。目の前には、まるで餌を前に「待て」の命令を受けた犬のように私を待つ水柱。後は私が合図をするだけ。そう、それだけで全てが終わる。


「イルミ、ヒソカ……今までありがとな。散々な人生だったけど、最近は結構……楽しかったんだぜ……」


誰も聞いていないと知りながら、私は最期の言葉を言った。私が死んだらあいつらはどんな反応をするのだろうか。少しは悲しんでくれるのだろうか? そんな事を思いながら私はそっと目を瞑った。アマンダ、今、行きます――


「バイバイ」


その言葉を最後に、私は手を振り下ろした。轟音が耳をつんざき、まるでトラックに追突されたかのような激しい衝動を身体に感じ、あばら骨がバキバキと砕けていった。


『ミズキ――』


薄れていく意識の中で、懐かしい声に名前を呼ばれた気がした。誰の声だろう――。その答えに辿り着く前に私の意識は途切れ、そのまま暗闇の底へと落ちていった。





[16.決意 1/7 ]



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