73





「何かあったら呼ぶから。」

イルミが使用人にそう言うのを聞き、ヒソカはミズキからパッと手を離した。

「そこ、邪魔。」

使用人から渡された衣服を手に戻ってきたイルミは、ベッド脇の椅子でトランプ遊びをしているヒソカに向かってつっけんどんにそう言った。席を譲るよう目で促され、「はいはい◆」と肩をすくめて席を立ったヒソカのその顔は、いつもの奇術師の顔に戻っていた。


「それ、ミズキの服かい?」
「そうだけど?」
「それにしても、替えの服まで用意出来るちゃうなんて。ここは何でもアリだね」
「たまたまキル用の服があっただけだよ。それよりヒソカ、そこどいて。」
着替えをさせるつもりなのだろう。イルミはミズキの身体に向かって手を伸ばす。
「ちょっと待ってイルミ。キミがやるつもりなのかい?」
「そのつもりだけど。何?」
「さっきの使用人は?彼女にやらせるんじゃないのかい?」
「何でそんなこと聞くの?誰にやらせようとオレの自由じゃん。」
「いや……しかし……」
歯切れ悪そうにしているヒソカに、イルミは大きく息をつく。
「今回のビターラッド襲撃は完全にオレの独断。ゾルディックの仕事とは無関係なの。マーサはオレの乳母でオレの使用人だけど、だからと言ってこんな夜中に色々仕事をさせるわけにはいかないじゃん。」


生まれながらに人を使う人間として生まれてきたイルミは、暗殺技術の他にも人の上に立つ心構えを幼い頃より叩き込まれていた。上に立つものとしての当たり前の結論。ところが、ヒソカはその理屈を理解したとしても、イルミの行動に「是」と言う事が出来なかった。


「何。この手は。オレにやるなって言うの?」
「いや……そういうワケじゃ……」
「自分にやらせろって言いたいわけ? それこそ許すわけないじゃん。ヒソカにミズキの着替えなんかさせたら、何が起こるか分からないでしょ。」


さっきの出来事の事を言っているのだろう。少し悪ふざけが過ぎたとヒソカは後悔したが、全ては後の祭りだった。


「良い加減にしないとーー」


イルミがイライラした様子でオーラを立ち上らせる。しかしその瞬間、今まで死んだように眠っていたミズキが「う……ん……」と声を上げ、その瞳を開けた。

イルミはヒソカとの言い合いをすぐに切り上げてミズキの顔を覗き込んだ。良かった、いつものミズキだ。しかし、ホッとしたのもつかの間、のろのろと体を起こしたミズキの目を見たイルミは、サッと顔色を変えた。虚無。今までミズキの瞳に宿り、ヒソカの目を引きイルミを惹きつけクロロも心さえ揺るがした、呆れるほどの生への執着がミズキの瞳から微塵もなく消え去っていた。


「……血……血、ダ……アマンダ……ノ……」


まるで生きる屍のような虚ろな瞳で、ミズキは油の切れたブリキ人形のようにぎこちなく自分の身体をペタペタ触り、うわ言のように「血……血……」と繰り返している。その姿にイルミは下唇をキュッと噛んだ。


「血?ミズキ、血が嫌なの? シャワー浴びる?」


平静通りの声で問いかけるイルミにも、ミズキは何も返さない。イルミは虚ろな瞳のままでいるミズキを抱き起こし、そのまま無言でシャワー室まで連れて行った。


「ちゃんと鍵閉めるんだよ?ここには危険な変態がいるからね。」


ちらりと部屋にいるヒソカに視線を送って言うも、ミズキは何も返さない。しかし、人間に組み込まれた習性だろうか、トイレに向かった人間が意識せずともズボンを下げて便器に座るように、ミズキもドアにガチャリと鍵を閉め衣服に手を掛け始めた。扉を閉めた先で衣擦れの音が聞こえ、やっとイルミは張り詰めていた息を吐いた。もたれかかった壁の向こうにいるミズキに思考を巡らせる。ミズキは大丈夫なのだろうかーー。イルミは天井を仰ぎ見た。天井に嵌め込まれた丸い照明がやけに眩しく思えて仕方がなかった。







シャワーヘッドから途切れなく出てくる温かいお湯を頭から受けて、ミズキの体からこびりついていた血がゆるゆると取れていった。水飛沫がタイルを叩きつけ、ミズキの足元には透明な水に混じっていくつもの血の筋が出来ている。しかしそれも時間が経つ内に完全になくなった。それでも、ミズキはピクリとも動かなかない。馬鹿の一つ覚えのように、頭からシャワーを浴び続けているその身体はまるで幽霊のように脱力し、その顔には何一つ表情がない。目は確かに開いていたが、瞳はここではないどこかを見たままだった。


『……が……たん…だ…』


何もかもが白く霞む鈍重な世界の中で、ミズキは声を聞いた気がした。頭が働かない。瞬きをするのでさえ酷く億劫で、何か一つ反応を返すだけで気が遠くなるほどの時間がかかった。


『お前…が……したん…だ』


再び声が聞こえる。この声を聞いたことがあると、声が耳を通り抜けてから数秒経ってからミズキはそう思った。視線を感じる。どこからだろうか。ミズキの中の何かが叫ぶ。探しちゃいけない、見ちゃいけないとーー。しかし、その声は右から左へとを抜けてゆき、ミズキは虚ろな瞳のまま首を左後ろへと動かしてしまった。

鏡。そこにあったのはビジネスホテルに良くある壁にはめ込むタイプの鏡だった。立ち上る湯気の向こうに、こちらをじっと見返すミズキの姿があった。しかし、そこに映っていたミズキはミズキであってミズキでなかった。

笑っている。目を糸のように細め唇をにんまりと吊り上げて笑っていたのだった。それが言う。にやにやと薄ら笑みを浮かべながら。ミズキの一番聞きたくない言葉をーー。


『お前がアマンダを殺したんだ』


やめて、言わないでーー。ミズキがそう思うより早く、記憶の渦がミズキを襲った。あの日のーー、怒りと憎しみに駆られて衝動的に男達を肉塊にしていった時の記憶が、濁流となって溢れ出す。


『アマンダはどうなったのだろうか?』


ミズキがそれを頭に思い浮かべたのは、逃げ出した男を人気のない路地裏に追い詰めて、元の形が分からない程のぐちゃぐちゃの残骸にバラし終えた後だった。建物に掛かるくらいの高さにあった月は、いつの間にか届かない程高い位置にある。どれくらいの間私はこうしていたのだろうか……。ふらりと立ち上がり、アパルトメントの方を見たミズキの顔は、一拍置いた後にみるみる青くなっていった。


なぜ私はアマンダの側に居ない。なぜこんな所でこんなことをして居る。なぜ、なぜ、なぜーー。まともになったミズキを襲ったのは押し潰すほどの後悔だった。蒼白を通り越し今や土気色の顔をしたミズキは、口をわななかせながら走り出した。何度も転び、何度も膝を擦り、そうしてやっとアパルトメントに辿り着いたミズキが見たものは、想像を絶するものだった。

むわっと鼻を突く血の匂い。壁も床も天井さえも、血で真っ赤になっている。握りつぶされた眼球。踏み潰された脳みそ。筋肉がこびり付いたままの骨の破片。でろり、と飛び出た内臓。どれが誰のものなのか。そもそもここには何人分のものがあるのか。それすらももう分からなかった。


「アマンダ……アマンダ……」


肉塊を掻き分けて彼女を探す。誰のものとも知らぬ内臓を投げ捨て、あらん方向に折れ曲がった腕をなぎ払い、脳味噌がだらりと垂れる頭蓋骨を放り投げ、ミズキはアマンダを探し続けた。まるでつま先立ちで崖の先に立っているようで、声も出ず、指先はカタカタと震えっぱなしだった。手も、服も、髪も、靴も、身体の何もかもが赤く染まり上がっても、ミズキは彼女を探す手を止める事はしなかった。どれくらいの時間が経っただろうか。ミズキはついにそれを見つけた。


「あ、あ……あ……………」


ミズキはそれを手に取った。軽い、手に収まる大きさのそれ。それは、アマンダの服だった。白地にシックな黒い花をあしらったその服は、今朝、アマンダが着ていた服に違いがなかった。全身から血の気が引き、目の前が真っ暗になる。ズダズダに裂かれたその服には、血と肉片がべったりと染み込んでいた。


「ア、マンダ……アマンダ……」


おびただしい量の肉片が散らばっているこの部屋。どの破片が誰のものともなのか。そもそも何人分の肉塊があるのか。それすらも分からない血みどろのこの部屋。この部屋のどこかにアマンダが。アマンダのカケラがーー。


「いやあぁぁぁぁぁーーーーー!!!!」


死んだ。死んだ。神は死んだ。もうこの世のどこにもいない。私が殺した。殺してしまった。私の。私のせいで。もう会うことは叶わない。何よりも大切で、何よりも大事だった、私の全て。アマンダ。私の救い、私の希望。私のお母さん。大事だったのに。大切だったのに。私のせいで。アマンダ。

足元がガラガラと音を立てて崩れ、私は真っ逆さまに落ちていった。一寸の光も届かない崖の底へと。落ちていくーー。


ゴトリと音を立ててミズキは昏倒した。目は固く閉じたままピクリとも動かない。無情な記憶が彼女の全てを破壊した。壊れた器は二度と元に戻らない。どんなに必死につなぎ合わせたとしても、元に戻ることは決してない。蒼白なほど色の失せたその身体を、シャワーヘッドから飛び出すお湯が、静かに打ち付けていた。



[ 15.混乱 3/2 ]


[prevbacknext]



top


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -