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ごうんごうん……と飛行船のモーター音が鳴る中、イルミは洗面器の中に浸したタオルをぎゅっと絞った。

二時間前、焦点の合わない瞳で笑い続けるミズキに対峙した二人は、その有様に言葉を失うほど動揺した。声を掛けても肩を揺すっても頬を叩いてもミズキが戻る様子はなく、近づいてくる警察のサイレン音を拾った二人は、ミズキを気絶させて強引に飛行船に連れ帰ったのだった。

それから二時間、ミズキは青白い顔をしたまま眠り続けている。目を覚ます様子はない。


固く絞ったタオルでミズキの顔を拭くと、乾き始めた血がタオルの摩擦でパリパリと落ちていった。


「これ……酷いね。どんな殺し方をしたらこんなに汚れるんだろ……」


誰に言うとでもなく、イルミは呟いた。事実ミズキの体は、ありとあらゆる所ーー服も顔も髪も手も赤く汚れていた。普通に殺しただけではこんな風にはならない。いったい何があったのだろうか? イルミはぎゅっと眉根を寄せた。

ポチャンと洗面器に浸したタオルから、赤い色がまるで絵の具のようにどんどんと広がっていく。手と顔はともかく、服に染み込んだ血液はタオルで拭ったくらいでは取れそうもない。イルミはすっくと立ち上がると室内の内線電話を手に取った。


「あ、マーサ? 服を一式持って来て。サイズはキルと同じもの。急ぎで。」


操縦室にいる使用人のマーサに手短に内容を伝えると、イルミは椅子にもたれ掛かり、大きく息を吐いた。ミズキーー。何があったの? 誰がミズキをそんな風にしたの? 聞きたいことはたくさんあった。しかし、ミズキは目を覚まさない。イルミは今一度大きく息を吐き天井を仰ぎ見た。


「お疲れだね、イルミ◆」


声の聞こえてきた方に視線をゆっくりと動かすと、今まで何食わぬ顔で雑誌を読んでいたヒソカがそこには居た。


「何その言い草。人の船に勝手に乗り込んできといて。」
「それはキミが、近くのホテルにミズキを寝かせようっていうボクの提案を却下するからだろ?」
「当たり前でしょ。こんな状態になっているミズキをヒソカと一緒に居させるわけないじゃん。ヒソカって『血塗れの姿に興奮した』とか言って眠っているミズキに襲いかかりそうだし。」
「おや、ボクの事良く分かっているじゃないか♣」
「……冗談なんだけど。」
「ボクも冗談さ◆」

ヒソカとイルミの間にピリリとした空気が流れる。

「ククッ、いくらボクでも意識のない人間を相手にする趣味はないさ。どっちかって言うと意識のある人間を追い詰めて追い詰めて自分の手元に堕とす方が好きだからね◆」
その言葉にイルミがまるで汚物でも見るような目をヒソカに向ける。
「……でも、さっきのミズキの姿に興奮しなかったというのは嘘になる。キミも見ただろ? 血と臓物の中で笑い続けるミズキを。あのオーラ……いったいどれほどのオーラ量なのかも検討もつかない。念を知る人間なら誰でもあのオーラの凄まじさが分かるはずだろ?」
「……確かにそうだけど。」
「憎悪と狂気と絶望の混じったあの重厚なオーラが、ボクの身体に突き刺さるんだ、息もできないほどに……ネ。もうビンビンだよ♥ 」
ヒソカは腰を突き出して笑った。
「何がミズキをそうさせたのか。何がミズキを駆り立てたのか。もっともっと知りたい。もっと深く、もっと奥までーー。こんなに知りたくなるコは初めてだよ◆」


その言葉にイルミは眉を顰めた。こんな変態と同じ思考だなんてーー。ヒソカが自分と同じように『ミズキに色んなことを聞きたい』と思っていたことが癪だったのだ。イルミはぷいとヒソカから顔を背けた。


「イルミ、ボクもミズキを綺麗にする手伝いをしていいかい?」


ヒソカの尋ねる声。さっきからオレがミズキを綺麗にしてあげているというのに、この男は今更何を言っているのだろうーー。イルミは、「どうぞご自由に。」とぶっきらぼうに答えると、ギシリと背もたれに体重を掛けた。

そんなイルミを見てヒソカはニヤリと笑い、ミズキの手をうやうやしく取った。そして、その指先を前触れもなく自身の口に運んだのだった。ちゅぷ……と粘着質な水音が立つ。突然ミズキの指を舐め始めたヒソカに、イルミは目を丸くした。


「ヒソカ、何をっ…!!」


椅子からガタリと立ち上がってそう言ったイルミに、ヒソカはしてやったりというような目を向ける。しかし、ヒソカはミズキの指を使ったその淫猥な遊びをやめようとしなかった。まるで、自分のモノだと言わんばかりにねっとりと舌を絡め、アレをしゃぶるような卑猥な動きでミズキの指を何度となく扱き上げる。


「何って? 指舐めだよ、ミズキの指を綺麗にしていたんだ◆」
ミズキの指を十分に堪能してから、ヒソカはいけしゃあしゃあと言った。
「だからってこんな……」
「あれ?イルミ、顔が赤いよ?ククッ……もしかして変な想像しちゃったのかい?」
「死ね。」
投げつけられた鋲を右に左に避けながら、ヒソカは喉を鳴らした。
「随分と照準がズレているんじゃないか。動揺しているのかい? こんなの基本中の基本じゃないかい◆」
「基本って?」
「もちろん、セック……」


ヒソカが言い終わるより先に、イルミは鋲を投げつける。ヒソカの突拍子もない行動を何度となく目にしていたイルミであったが、この時ばかりは我慢の限界であった。ミズキがこんな目にあっているというのに、この後に及んでこの男はーー。鋲を握るイルミの手に殊更力が入ったその時、部屋のチャイムがジリリと鳴った。


「呼んでるよ?キミの使用人じゃないのかな?」


ヒソカが飄々とした態度で言う。その物言いも何もかもが頭に来る。しかし、自分で使用人を呼んでしまった手前放っておくわけにもいかない。イルミはもう一度じろりとヒソカを睨んだ後、しぶしぶ鋲をしまった。


「ヒソカがそういう男だって前から知ってたけど。こんな時までふざけてるなんて。ホント、ヒソカ、最低。」


吐き捨てるようにそう言って扉に向かうイルミに、ヒソカはさも愉快といった様子でククッと喉を鳴らした。しかし、その目は笑っていなかった。ヒソカは真剣な色合いを帯びた瞳で、扉に向かうイルミの背中をじっと見ていた。


「やっと、二人きりになれたーー」


イルミが使用人と話をしているのを確認してから、ヒソカは小さく呟いた。それはとても小さな声だった。その口元には、さっきまであった人を小馬鹿にするような笑みはない。ヒソカは、まるでガラス細工を触るような優しい手つきでミズキの手をそっと取ると、その手をぎゅっと握った。

まるで死人のように冷たいミズキの手。その手を握るヒソカの手は、微かに震えていた。


「ミズキ、ミズキ……目を覚ましておくれ。お願いだからーー」


握りしめた手を額に当てて、ヒソカは言った。その声は普段の飄々とした姿からは想像できないほど弱々しい声だった。しかし、ミズキはピクリとも動かない。

ヒソカは下唇を噛み締めると、今一度ミズキの手を額に当ててぎゅっと握った。お願いだからーー。誰にも聞こえない声でもう一度そう呟くと、ヒソカはミズキの指先にそっと唇を当てた。それは、まるで大切な宝物に口づけるような、優しい優しいキスだった。時が止まる。飛行船の、ごうんごうん……というモーター音が静かに部屋を満たしていった。





[ 15.混乱 1/3 ]


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