無音
ある日突然、彼女の音が聞こえなくなった。
一体なぜ?前までは、あの透き通るような綺麗な音が聞こえていたのに。彼女に何かあったのか、と思ったが、いつも通り楽しそうにしている。無理をしているのでは、と思って声をかけるも、「いきなりどうしたの?大丈夫だよ?」と疑問符を浮かべられてしまった。
正直、心当たりは、ある。……音が聞こえなくなったのは、俺が彼女への想いを自覚したときからだった。俺は女の子なら基本誰でも意識してしまうし、その中でも禰豆子ちゃんが一番好きだったけど、彼女だけは少し違ったのだ。あぁ、これが本気の恋なんだ、って、初めて思えたんだ。
「善逸、なに考え込んでるの?」
「あ、名前……」
彼女が近くまで来ていたことに気がつかなかった。音が聞こえないから。彼女……名前は俺の隣まで来て、ちょこんと座った。
「なんでもないよ」
「そう?」
「うん」
なんでそこまで俺のことを気にかけてくれるの?もしかして心配してくれてるの?なんて、どうせ思い上がりだ。音が聞こえたところで、俺は自分の信じたいものを信じるから関係ないんけど……聞こえなくなるのは不安だ。名前がなにを考えて、俺に声をかけてきてくれているのかが、わからないから。
「ねぇ善逸、ほんとに大丈夫?そんな顔、善逸らしくないよ」
「俺、どんな顔してる?」
「悩んでます!みたいな顔」
そんな顔、してたんだ。名前は優しい人だ。そんな顔の人がいたら、きっと心配して声をかけるだろう。俺じゃなくても。
俺は、名前に話してみることにした。
「……俺ね、名前の音が聞こえなくなっちゃったの」
「え、私だけ?」
「うん。だから、ちょっと、不安で。名前が何考えてるのか、わからないからさあ」
「私の音、聞きたい?」
「聞くのが、怖い時もある。でも、聞こえないほうが怖いんだ」
思わずそう言ってしまった。少し後悔する。名前は何か考えた後、思いついたように口を開いた。
「……これでも聞こえない?」
名前はそう言うと、俺のことをぎゅっと抱きしめた。俺の耳を、胸に押し当てるように。お、お、おっぱ!?
「名前!?そ、その、お、おっぱいがですね、当たっているのですが!?俺死んじゃうよ!?ねえ!?いや嬉しいんだけどね!ご褒美なんだけどね!刺激が強すぎるっていうか!」
女の子の、しかも名前のおっぱいが、く、くっついてる、俺に。ドキドキしすぎて死にそう。自分の心臓の音がうるさい。しかし、それとは別の心臓の音がすることに気がついた。名前の、だ。しかも、この音って……。
「名前……」
思わず顔を上げて名前を見ると、頬を真っ赤に染めて俺を見ていた。
「ほ、ほんとなんだな?」
音は嘘をつかない。でも、思わずそう聞いてしまった。今まで、俺のことを好きになってくれた女の子はいなかったから。
名前は、コクコクと頷いている。
「え、これ夢?夢かな?俺こんな幸せでいいの?」
「ふふ、夢じゃないよ」
彼女は笑っている。
あ、可愛い。名前の笑顔は、野に咲く花のように可憐だ。
「好きです……」
思わず、そう呟く。
前は他の女の子に結婚してくれ、と大声で叫んでいたくせに、なんで肝心の告白はこんなに声が小さいんだ、とは言わないでくれ。
「私も」
名前がそう言いながら更に頬を染めた。
ふと、音が聞こえた。幸せの音。その音は、俺たちを包み込んでいる。というより、俺たちから出ているのか。
この日から、だんだんと名前の音が聞こえて来るようになってきた。それでも、他の人よりは聞きづらいけど。未だに、あの音が名前から俺に向けられているのが、少し信じられない。音で聞こえてるくせに、思わず確認してしまうことがある。そんな俺に呆れることなく、「好きだよ」と言葉にしてくれる彼女が、どうしようもなく好きだ。