以上でよろしいでしょうか? 自分の頭上を雨粒がしきりに叩いては弾き、傘の露先からとめどなく滴っていく。平腹はその雫を眺めるように能面のような笑顔を保ったまま放心している様子で店の前に立っていた。雨が降りしきる中皆一様に傘を差して彼の前を通り過ぎていく。濡れたコンクリートを絶え間なく歩いて行く人々の、水を含んだ足音と水を掃ける自動車のタイヤの音。遠くで聞こえる音響式信号機の歪なメロディ。その全てが何処か無機質で冷たさを含んでいるようで、寒くはないのにどうしてか胸の内が涼しいと感じる。 「……平腹さん」 空虚さを孕む夜の街に交じるような朱音の声。平腹は声のした方へとゆっくり振り向いて、こちらへと歩んできた彼女を目に捉えた。その視界の端でまた、雫が傘から落ちる。 「お待たせしました」 淡い水玉の傘から覗きこむように平腹を見上げた朱音の表情は心なしか強張って見えた。平腹は制服を身に着けていない彼女の姿が目新しいのか、全身をくまなく眺めるように視線を動かしながら口角を上げる。貼り付けていたような表情から自然な笑顔へと戻る彼に朱音は安堵しながら、これからどうしようかと考えた。本来の仕事を上がる時間よりも大分早い事に間違いはないがそれでも時刻は夜更けである。自身の体調からしてもこれからお茶をする余裕は正直ない。平腹が何の為に自分を待っていてくれたのか明確にわからないせいで判断が難しかった。何て言おうか。気持ち雨音が激しくなってきたような気がして、朱音の心も合わせて急ぐ。平腹をずっと雨の中に立たせておくのは忍びなかった。 「朱音、体調悪いって?」 考えているうちに無意識に俯いていたらしい彼女の傘を、平腹は自分の傘で軽くつついた。 「店出る時に男の店員から聞いた。……体温低いってほんと?」 彼はおもむろに傘を持たない手で朱音の傘を持つ手に触れる。包み込むように上から握りこみ距離を縮めた平腹に、驚いて目を白黒させた彼女は焦るように視線を彷徨わせた。自分が触れるだけで狼狽える彼女の姿を単純に面白いと感じながら、その形や温度を確かめるように指で撫でる。 「体温低いってどうやってわかんの?どうすんの?」 「え…と、」 平腹は笑っているがその声音は真剣に問い掛けており、朱音は彼が本当にその答えを知りたがっているのだと素直に感じ取った。しかし実践してみせる事は恥ずかしく、何より今平腹に片手を握られて自由が利かない。 「自分の体温と比べるんですよ。額に手を当てたりとか、首元に触れてみるとか。熱があると熱かったりして、何となくわかるんです」 「額にー?」 遊ぶように握っていた手を離しおもむろに朱音の額へと手を伸ばす平腹に、予測できなかったわけではないが彼女は思わず身を引いた。その反射的な動きに彼は眉を寄せて抗議する。 「何で逃げんの?」 「いえ…その、人が見てます、から」 あながち嘘ではない。何せ二人は店の前に居るのだ。二人を通り過ぎて行く人々や、店の中の客達の視線がちらほらと覗いているのに朱音は気付いていた。だが平腹はそんな視線など意に介さない。不満気に顔を曇らせた彼はそのまま強引に朱音の額に手を付けた。 「んー…?で、どうすんの?」 「……というか、平腹さんの手の方も冷たい気がします」 「え?そうかー?」 雨が降り続ける外に居るせいなのか、自身の体温が低いせいなのか、はたまた彼の体温も低いのか。朱音は額に押し付けられた手の温度が、店の中で腕を取られた時に感じた温度と相違ないような気がしていた。触れているとじわじわ温もりを感じてくるが、それにしても温度がない。元気な割に肌が白いと思っていたが、常にこの体温が平熱なのだろうか。不意に生まれた疑問は朱音の中の羞恥を忘れさせた。考える前に動いていた彼女の手はそっと平腹の眼前へと向かい、彼もそれに合わせるように首を下げて額を差し出す。指先が触れ朱音が自分のしている事に気が付いた時にはもう遅く、平腹は彼女の手に額をすり寄せて何故か至極嬉しそうに笑っていた。 「オレの体温低い?」 「……低いと、思います」 「朱音はさっきより何かあったかくなったなー。大丈夫か?」 「大丈夫…、」 なわけがない。 朱音は平腹の額へと伸ばした腕が鼓動に合わせて大きく揺らいでいるような感覚に戦慄していた。腕だけではない。全身がまるで心臓と一体化したように脈を打っているのだ。そのせいで今の自分の体温がいかに低いのかも再度自覚する。震える鼓動に体が耐えられず、急激に温度を高めたのであろう血液に全身が追い付けず軋んでいた。呼吸も少し苦しくなり、油断すれば膝から崩れ落ちてしまいそうだ。何とかしてこの状況を打開しなければと焦る朱音の内心など知る由も無い平腹は、不思議そうな表情で温度の上がった彼女の頬に手を滑らせる。そんな事をされて打開策が浮かぶ余地もなく、朱音の頭は真っ白になった。 「ひ、平腹さん私体調やっぱり悪いみたいで!」 僅かに残った正気で半ば叫ぶように声を上げる。 「ごめんなさい!帰ります!」 朱音はそう言い放つと勢い良く平腹から離れて背を向けて駆け出した。取り繕う余裕などあるわけもなく、明らかに逃げた彼女に残された平腹も唖然としてその背と揺れる傘を見送った。朱音は通りを歩く人々を縫いながら、少しでも遠く離れようとただひたすらに走って息を切らせる。傘をさしている意味などない程に脚元も服も雨にさらされた。水溜りすら避けなかった。むしろ水に濡れる事で頭を冷やせたらと願っていたのだ。元々運動は得意ではない上に久々の長距離走。加えて体調不良が朱音の体に負担をかける。人が右往左往する通りから脇に抜けて周囲が閑散とする住宅地へと変わる頃、朱音の呼吸は絶え絶えになっており脚も重く動くのみで到底走っているようには見えなかった。ひとたび立ち止まってしまえば最後、脚が棒になってしまいそうだった。 「……ッ、」 いっそこのまま固いコンクリートの上に倒れこめたら楽なのだろうなどと、意味もなく無価値な事を考えてはまるで失笑するかのように無理やりに口角を上げる。そうでもしないと脳裏に平腹の笑顔を思い出してしまう自分を誤魔化せない。伸ばした手に額をすり寄せられた時のあの嬉しそうな顔が思い出される度に、軽やかに浮つく心とそれに比例して胸が苦しくなる。平腹に行動以上の他意など有りはしない事は朱音もよくわかっているつもりだ。だからこそ自然体で、素直で、一直線な彼の言動は朱音を無遠慮に掻き乱して戸惑わせる。特別な気持ちなど微塵も感じないのに、つい、勘違いしそうになる。勘違いしてしまいたくなる。 周囲の良く知る人間たちとは異なる性格や常識の持ち主だとは思っていたが、案の定自分達とは違う存在だった平腹。それ故に感覚の相違が生じてもそれは当然の事で、気にする事ではないと理解したつもりだった。けれど自分が思っていた以上に彼に思いを馳せていたみたいだ。特別な客だと認識したからいけなかったのだろうか。いつから、こんな風に思うようになってしまったのだろうか。 「……もう、来てくれなくなったら、どうしよう…」 あからさまに走って逃げてきてしまった。仕事が終わるまで待つと言ってくれたのに。助けたいって言ってくれたのに。拒絶するような態度で帰って来てしまった。 「どうしよう…、ッ」 「朱音」 突然肩を圧迫された。それが掴まれた事によるものだと朱音が判断するよりも先に、平腹の声が背中から耳に届く。反射的に体を竦めて振り返った彼女の前には、傘をささず雨ざらしになって立つ平腹の姿があった。 「朱音。何で逃げるんだよ。オレお前の事助けたいって言ったじゃん」 住宅地の外灯の光は雨模様の夜では役に立たないようだ。薄ぼんやりと彼の輪郭は見えるのに、その表情は暗がりに溶けてよく見えない。ただ彼の黄色の瞳だけは、まるで光を集めたように明るさを帯びている。しかしその瞳が細められているのは雨の雫のせいなのか、彼の表情によるものなのかはやはりわからなかった。 「……朱音はオレが嫌になったの?」 雨が強くコンクリートに当たって弾く音が、平腹の声音を有耶無耶にさせる。それでも幾らか苦しげに吐かれた言葉は朱音の鼓膜を通って脳を大きく揺さぶった。違う。そんなわけがない。そう言いたいのに口にする勇気が持てず、彼女は代わりに首を横に振った。それから傘を少し高めに掲げると、雨に降られ続ける平腹を庇うように歩み寄ってその輪に入れる。逃げた事への罪悪感も、平腹が追ってきた事への驚愕も、胸の痛みが一層強くなろうとも。今はただ目の前の彼を冷たい雨から守りたかったのだ。彼がどこまでも真っ直ぐに自分と接しようとしてくる姿勢に、朱音も無意識に誠意を返そうとしていた。 「朱音。オレ、どうしたら良いの」 身体の脇に下ろしている手を上げるだけで触れそうな距離。平腹は雨に濡れて水を滴らせる腕をそっと朱音へと伸ばそうとした。だがふと視線を彼女から逸らしてそれをやめる。近付いた事で彼の表情が見えるようになった朱音は、そのあまりの悲痛気な面持ちに息をのんだ。酷く悲しげで、苦しげで、痛みを堪えるように眉を潜めている姿は普段の平腹からは到底想像できないものだったのだ。どこかを凝視するようで宙を浮く彼の視線はまるで、先程朱音が逃げた事を思い出しているかのようだった。思い出して、触れようとした手を止めたのだ。 「……そういえば前に肋角さんが、女性に断りなく触れるのは良くないって言ってたもんな。それで、朱音はオレから逃げたの?」 『逃げた』という単語を耳にする度に胸が軋む。心臓が痛む。大声で違うと叫ぶ事ができたらどんなに良いのだろう。どうしてこんな時でも彼のように素直に言葉にできないのかと、朱音は自身のあまりの情けなさにどうしようもなく泣きそうになる。そんな彼女に視線を戻し、また平腹は口を開いた。 「でもオレ、我慢できないんだ。朱音オレが触ると色んな面白い顔見せてくれるし。……今だって朱音がそんな顔してんのがものすごくキツくて、見たくないけど。でも何とかしたくて、抱きしめたいんだ。……なぁ、これってダメな事なのか?」 平腹の真剣で率直な言葉は朱音の心臓を貫いた。彼女はもう言葉を発する事を諦めたように平腹の瞳を見つめながら涙を零す。様々な感情がその一粒一粒に交じって溶けるように大粒の雫を落とす朱音に、平腹もつられるように泣きそうな顔になって唇を開閉させる。だが彼も言葉は発しなかった。代わりに濡れた両手を固く握ってから解き、また固く握りしめる。そうして躊躇った直後、平腹は振り切るように朱音との最後の距離を縮めてその肩を両腕に閉じ込めた。 「何で泣くの。泣くなよ。朱音が泣くとオレ、もっとわかんなくなる。なぁ……、何か言って。……お願いだから……ッ」 朱音はずぶ濡れになった平腹に包まれて、じわじわと自身の服が濡れていくのを感じていた。そこから染み入る冷たさに、考える事を放棄していた脳が静かに動き出していく。触れる事で伝わってくる平腹の小刻みに震えている体は、決して寒いからではなかった。朱音の事を抱きしめた今でも、平腹なりに彼女を気遣って弱い力で腕を回していたのだ。本当は強く抱きすくめたいのだろう。それを我慢して、包み込むだけに留めているのだ。それが他でもない彼女に、痛いほど伝わっているとは思わない。 「……平腹さんは私と居て、わくわくするっておっしゃいましたよね」 平腹の震える肩に額を寄せて、朱音は呟くほど小さな声で言葉を紡ぐ。湿った空気とは正反対に乾ききった声はかろうじて彼の耳に届いたようだ。跳ねるように顔を上げた平腹の目を避けるように、彼女はそっと瞼を閉じる。 「……私は平腹さんと居ると、ドキドキするんですよ…」 「どきどき…?」 「心臓が、…ドキドキするんです」 平腹は朱音の言うドキドキを上手く飲み込めないようだった。彼は暫くおうむ返しに『ドキドキ』と呟き繰り返していたが、ふと思いついたように朱音を見下ろしてから体を離した。ドキドキの意味を理解したのかと身構える彼女を他所に、彼はコンクリートに膝をついてから再度抱き締めてくる。その際に平腹は耳を朱音の胸へとあてがって、じっと耳を澄ませるように目を閉じた。彼の耳に幾分か速度の速い鼓動が届く。 「今もドキドキしてるのか?」 「…そうですよ」 「これ、ドキドキなのか?」 「……どう言う意味ですか?」 僅かに眉を歪めた朱音に気付かぬまま、平腹は彼女の胸の上で笑みをこぼしながら頬を寄せた。耳を揺らす激しくも優しい心音が彼の表情を一層柔らかくさせていく。 「オレずっと、わくわくしてるんだと思ってた」 「え…?」 「朱音、オレと一緒だな!」 また勢い良く体を離して立ったと思えば、ほら、と今度は自身の胸に朱音の頭を押し付けて抱き締めた。水分をふんだんに吸った彼のシャツのせいで彼女は顔半分を濡らす。その不快感に複雑な表情を見せた朱音だったが、その耳で平腹の心音を確認した瞬間目を見開いて呆然とした。彼女の耳は自分よりも激しく動き続けている鼓動を感知したのだ。 「な。オレと一緒」 平腹の体を通して伝わる彼の声と鼓動に、朱音は内心で言葉を失くしてただ惚ける。だが彼の「一緒」という単語には些か疑念が有ったようで、彼女は小さく首を振ってみせた。その動作に平腹は首を傾げる。 「一緒……とは限りませんよ。だって私は……、」 私のドキドキは、 「……平腹さんが、好きだからなるんです…」 伝えてしまおうとは考えていなかった。むしろ考えていなかった故に口から出た告白だった。言ってしまってから気付いた朱音は、それでも不思議と焦りはしなかった。好意を伝えたからといって、平腹がその好意をどう捉えるかなど予想がついていたからだろう。特別な意味を込めた想いは、きっと彼には届かない。 「……もっかい、」 そう、思っていたのに。 「もっかい言って朱音」 黄色く光る瞳を見開いて、平腹は朱音を抱く腕に力を込める。 「……平腹さんが、……好き…だから…」 「すき…」 「……え、っと…、」 「すき。好き…」 平腹は呆然としながら「好き」と繰り返した。しかし放心しているようでその腕は少しずつ朱音の体を強く抱いていく。彼が「好き」と口にする度に強まる抱擁に、次第に彼女も平腹の思考が今どうなっているのかを理解し始めた。おそらく彼は、全ての『理由』の答えを見つけられたのだ。 「…好きなんだ。オレ。朱音が好き…」 「……」 「オレ朱音が好き…。スッゲー好き。好き」 「あ、の…」 「好き。大好き。朱音、オレ朱音大好き」 慈しむように抱きすくめられ、朱音は彼の更に鼓動を早める心臓が自分と同じものであることを悟った。同時に喜びと戸惑いに身を置いてしまい、彼女の脳は再び思考を停止させる。平腹は朱音が固まってしまったのをいい事にその髪に頬を寄せて擦り寄り、手で撫で回し、口付けた。そうして持ち上げてしまうかというほどに強く強く抱き締める。 「朱音。どうしようオレ。今スゲー幸せ…」 囁くように言う平腹の言葉に朱音は同意を示す代わりにそっと彼の肩に顔を埋め、嬉しい涙を染み込ませていた。 全盛期では美しく装飾が施され、銅像や絵画などの美術品を一層引き立てていたのであろう壁紙は剥がれ落ち、外壁が崩れてその面影を一切残さない。所々に残る地面と同化した絨毯の端キレや、褪せた色調が物悲しくそこに残っていた。それでもまだ建物としての存在は保っているようだ。少なくとも雨や風避けになる程度には。 「……確かに魑魅魍魎の住処としては申し分ないな」 肋角は悠然とした足取りで廃ホテルの中を捜査して回っていた。外で雨が降っているせいか周囲の音が一層静まり返っているように感じられる。彼の靴音と歩く度に掠れるロングコートの音だけがホテルの中を徘徊し反響するかのように小さく響きながら、どこに行きつくでもなく雨音に溶ける。廃ホテルに集まっていた妖怪たちは突然の彼の訪問を疎ましく思っているが、どの者もそれを示したり口にしたりはしなかった。むしろ逃げるように隠れ潜み一切の接触を拒むかのようだ。以前平腹の肩によじ登っては落とされて笑っていた小さな妖怪達も、息を潜めて肋角の様子を伺うばかりだ。全ての魑魅魍魎の視線を一身に受けている肋角だったが、彼自身は微塵も気に掛けておらず、ただ黙々と廃ホテルの一室一室を見て歩いていた。 「……此処もか」 ホテルの一室で足を止めた彼はその部屋の中で倒れこんでいる男の亡者の姿を捉えて呟いた。亡者は目を見開いた状態で冷たい床の上に身を投げ出し何かをボソボソと呟き続けている。 肋角が傍に寄ろうともまるでその姿を認知していないのか視線すら寄越さず、ただ淡々と唇を動かして同じ言葉を繰り返す。肋角は男の亡者を見下ろしながら眉を潜めた。佐疫の報告通り想定していた数以上の魑魅魍魎が生息しているが、今日自分の脚で赴いた結果、それ以上にこのホテルには亡者が大人数居座っている事を彼は確認していた。先日の時点では亡者が多数居たという報告は受けていない。復帰した谷裂、佐疫からの応援要請に駆け付けた木舌からもこのような事態は伝えられていない。だとすれば彼らが去った後に、この亡者たちは廃ホテルに現れたという事だろうか。肋角は僅かに何かを考えるような素振りを見せた後、亡者に何をするでもなく背を向け次の部屋へと足を進め始めた。 何故このホテルに集まっているのか。その問題はこの際後回しだろうと彼は考えていた。それよりも此処に居つく亡者達の言動が不可解だったのだ。このホテルに散在している亡者は先程の男で既に十数人を超えている。問題はその量だけではなく、亡者達が皆一様に床に倒れこんで、目を見開いて放心したまま同じ言葉を繰り返し呟いているという点だった。男だろうが女だろうが子どもだろうが関係なく、ただひたすらに無表情、無感情に呟き続けている。谷裂の件や上からの指示もあり、触れる事は得策ではないと判断している肋角が彼らに関わる事はなかったが、それでもこの異常さは内心に焦燥感を生み出した。佐疫からの報告にもあった『分裂した亡者』の仕業だろうか。これは少し厄介な事が起きそうだと、新たに目に入った横たわる亡者の姿を一瞥しながら肋角は重く息を吐き出した。 「……どうして忘れてたんだろう」 平腹と別れた後、玄関の扉を閉じた直後に朱音はそう零した。 「……どう、して」 あれから暫く抱きしめ合っていたが、容赦なく降りしきる雨の中、朱音はさすがに冷え込んでいくだけの濡れた身体を平気だとは言えず、素直に早急に家に帰りたい事を伝えた。平腹の身も案じて家で少し休んでいくかと聞いてみたが、彼は獄卒だから大丈夫だと笑って首を振った。それでも家の前までは送ると言うので、朱音はその言葉に甘えて先程まで一緒に帰路を付き添ってもらってきたところだった。予想以上に平腹も朱音の体調を気に掛けていたようで、彼は「ちゃんとあったまれよ」と念を押して手を振った。その優しさが歯がゆくて逃げるように玄関を開けて家の中へと入った。入ったところまでは良かったのだ。 『シニタクナイ……シニタクナイ……』 直ぐに洗面所へ行って平腹にタオルと傘くらいは持っていこうと思っていたのに。 『……シニタクナイ、シニタク、ナイ…』 朱音はあの日から携帯を持ち歩かなかった。友人と連絡を取ろうとした時に使ったのは自宅の固定電話だ。携帯は居間に転がっている。掛かって来た電話を受けようとして取り落としてから触っていない。触れなかったのだ。電源が切れたように画面は真っ暗だと言うのに、ずっと携帯のスピーカーから「シニタクナイ」とか細い女の声が繰り返されていた。電波が悪いようなノイズを交えたその声は止まらず、時間が経つにつれて徐々に音量を上げているような気さえする。怖くて堪らなかった。眠れないのは悪夢のせいだけではなかった。だがここまで恐怖を感じていても家を出るとそんな事など一切忘れてしまうのだ。怖くて家を出ても、玄関の扉を開けた瞬間、どうして自分は今家を出たのだろうかと思ってしまうのだ。 「ひらはらさん…」 まだ外に居るはずだ。傘だけでもいい。彼に渡そう。 平常心を保とうと必死になる自身を奮い立たせて扉脇にある傘立てに手を伸ばした。震える指先で傘の手元を掴んで玄関の扉に向き合う。その背中に、刃物が突き刺さったような感覚を覚える程の冷気を感じた。声が耳元に迫って来ていた事を、朱音は気が付かなかったのだ。 「……シニ、タクナイ……?」 耳の横で、口が大きく弧を描いたような気がした。 2015.05.05 2015.05.11 加筆 |