獄都夢 | ナノ




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壁掛け時計の振り子が揺れる度、洗練された鋭さのある音が部屋中に広がった。それが耳に痛いと感じる程に一秒一秒が重苦しい。こちらを見据えて座っている肋角の背後の窓には、外灯で薄く照らし出された木が緑の葉を風にそよがせているのみだ。それ以外はどこまでも真っ暗で、まるで館が暗闇の中に飲み込まれてしまったかのようだった。部屋の中央に敷かれた赤い絨毯に足先が触れるか触れないかの位置で、佐疫、平腹、そして木舌がそれぞれ表情を硬くして立っていた。佐疫だけは時折痛みに耐えるように顔をしかめて息をのむ。彼は普段身に纏っている外套を半分引き裂いて、自身の脚にそれをきつく巻きつけて僅かに赤を滲ませていた。


「……報告を聞こう」


肋角の声が部屋に染み渡る。
初めに口を開いたのは佐疫だった。深呼吸をした後にゆっくりと言葉を絞り出していく。


「僕らが今回調査に行きました廃ホテルは、事前情報には無い程の魑魅魍魎達が集まっていました。……亡者の確認を急ぐ中、生者が三名襲われているところに遭遇したのでこれを直ちに捕えようとしたのですが、奇怪な事に分裂し、逃がしました。…僕は分裂した片方を追い、谷裂には生者に息がまだあった為万一に備え待機していてもらいました。脚は、逃げる亡者を追っている最中にホテルの地縛霊になっていた別の亡者にやられました。それで一人では危険だと思ったので木舌に応援を頼んだんです。……しかし…」

「……平腹はどうだ」

「はい…!オレはホテル外に生者が使ってきたと思われる車に魑魅魍魎共がたむろしているを見つけたので、谷裂にそれを報告してから車を確認しに行きました。それで……、えー、生者が一名乗っていたので周囲の者共をあらかた片づけてから、当初の任務遂行の為ホテルに戻りました……!その時には既に木舌が到着していて、谷裂が……」

「木舌」

「はい。おれが廃ホテルに着いた時、既に谷裂が生者を庇うような形で死んでいるのを見つけました。生者の命に別状はなく外傷も擦り傷のみですが、目覚めた後の様子から見るにおそらく精神的な影響を及ぼされています。逃げたという亡者に関しては確認できませんでした。佐疫を負傷させた地縛霊は閻魔庁の方へ既に引き渡してあります」

「……谷裂は」


肋角の視線と問いに三人は勢いよく振り返った。だがそこに立っていたのは肋角の補佐官だ。彼は三人の視線に申し訳なさそうに眉を下げながら肋角の居る机へと歩み寄った。


「まだ目を覚ますには再生が足りていないようです。肉体的には健康そのものですが、どうも強引に霊魂が身体と引き離されたらしくそちらの融合が上手くいっていないようです。死因はショック死の部類でしょう」

「いつ頃目が覚めるか見当はつくか」

「……おそらく、昼まではかかるかと」


「わかった」と肋角は呟いた。補佐官は手にしていた診断書を彼の机の上に添えるように置くと、背筋を伸ばしてから会釈し扉から去っていく。再び静寂に浸された部屋の中で、診断書が肋角の指に擦られる音と時計の秒針の音が空気中に満ちていた。


「不確かな情報を与えたのは俺の責任でもある。……お前達にはすまない事をしたな。佐疫も布を巻くだけに留めずしっかりと手当てする事だ。それから報告に来ても俺は構わん」

「……はい」

「木舌も休み中応援ご苦労だった」

「はい」

「この任務は一端保留とする。また詳細が分かり次第動いてもらう事になるが、それまでは各自通常の業務に励んでくれ。以上だ」


三人が声を合わせて返事をすれば、肋角は小さく頷いて少し微笑んだ。会釈して部屋を出て行く木舌と佐疫に続いて平腹もいそいそとドアノブに手を掛けたが、ふと手を離し肋角を振り返る。その姿を見守るように視線を寄越していた肋角は、平腹の行動にすぐ「どうした」と問いかけた。


「……生者と、獄卒ってどこまで関わって良いんですか?」


どこか悩むように眉を潜めた平腹はおもむろに軍帽を取ってそれを拳で叩きだした。今の今で質問の真意が受け取れなかったのだろう、肋角は落ち着かない様子の平腹を見つめながらもう少し彼が自分から問題提示するのを待った。短く整えられたオレンジを思わせる茶髪の頭を小さく振って、彼は弧を描かない口で言葉を紡ぎだす。


「オレさっき、車に生者が乗ってたって言ったじゃないですか。あれ、車に乗ってたの、朱音だったんです」

「……ほう」

「オレ、つい成り行きで、獄卒って事言っちゃって」

「……そうか」

「これってまずい事?って谷裂に聞こうと思ったのに、死んじゃってたから聞けなくて」


平腹が珍しくため息をつく姿を眺めながら、落胆するところはそこではないだろうと肋角は内心で苦笑する。軍帽のツバを掴んでパタパタと動かし始めた自分の部下に、彼は椅子から腰を上げて悠然とした態度で歩み寄った。素直に見つめ返してくる平腹は、どこか子どものようで懐かしいと思う。


「生者の死に関わる事以外であれば我々の行動に特に制限はない。俺達獄卒はあくまでも『あの世』の住人だが、生者に干渉する事で犯される理はまず一切生じ得ない。わざわざ関わる必要がない為獄卒の多くは生者と関係を持たないだけで、生者と関わる事で任務遂行の効率が良かったり、単に友人として知り合い仲良くなる者も少なからず居る。ただ別れの時は必ず訪れ、我々獄卒はそれを見送るというだけだ。如何にそれが助けられる死であっても、生者が自ら命を絶ったり亡者が関わらぬ限り、その死は全て自然な死であり関与する事は許されない。生者の寿命はそれぞれ、あらかじめ決められているからな。それはその者が転生する際に七回、または十回の審査を受けた時に定められたものだ。つまりその生者がいつ死ぬのか、もっと言えば現世で何が起こるのかも決まっている事なのだ。故に俺達は生者に危害を加えて寿命を全うさせまいとする亡者を取り締まる。亡者は現世の理もあの世の理も介さぬ存在だからな。……と言う事をお前を育てる際にしたはずだったが、忘れたか」

「……スミマセン」

「もう忘れるなよ」


比較的柔らかい茶髪を撫でつけると平腹は眉を下げ肩を竦めて笑顔を見せた。大きな口がいつも通り弧を描き、照れくさそうにふにゃふにゃと動く。全く、面白い具合に育ったものだ。


「それで、あの店の楽しみが何なのかはわかったのか?」

「わかりました!」

「ほう。案外解決が早かったな。誰かに手伝ってもらったか…?」

「斬島が教えてくれましたー!」


斬島。ここで彼の名が出てきた事に肋角は腑に落ちず何か引っ掛かる物を感じる。この手の話題に最も疎いであろう真面目な性格の斬島が、答えを導き出したというのはにわかに想像しがたかった。


「オレは朱音にわくわくしてるんです。朱音がオレを楽しませてるんですよ。だからオレは朱音に会いにうまいコーヒーを飲みに行くんだって、わかりました!」

「……なるほど、わくわくか」


肋角の声が幾分か落胆を含めている事に平腹は気付かない。余りにも嬉し気な部下に対して訂正などできるはずもなく、しかし何故そこまでわかっていて一番単純で明解な心情に辿り着かないのか甚だ疑問で仕方がない。否、これこそ正に純正の歪みない感情の表れなのだろう。一気に結論へ持って行こうとする事は、その感覚の名を知っている者のお節介でしかないのかもしれない。


「肋角さんおやすみなさーい」

「ああ、おやすみ」


平腹が部屋を去って行くのを見送った後、肋角は暫くその場で何か思い耽るように立ち尽くしていたが、ふと壁に掛かった振り子時計に目を止めて息を吐く。本来の就業時間までまだ時間がある。仮眠を取ろうと彼は部屋隅に配置されたソファへと歩み寄っていった。













――――――――――











前後左右上下、そして自身の身体さえ全くの暗闇で何も見えない。今歩いている足場さえ確かなものとは言えず、手探りで壁を探しそれに伝いながら、足先で一歩一歩前方の地を確認しつつ進むしかなかった。呼吸音と自身の手が壁を擦る音、足が地を擦れる音で満ちた空間で、気が狂いそうだと朱音は思った。以前にもこんな事があったような気がしたが、それがいつだったのかわからない。なぜここに居るのか、自分が何者なのかさえ、今の彼女には把握できる余裕がなかった。ただ此処から出なければと光を探していたのだ。そうして前に進むうちに、次第に何かが背後から声を掛けて来ている事に気が付いた。か細い女のような声だ。上手く息が続かないのか声よりも息を吸う音の方が大きく、聞いている朱音の方も息苦しさを覚える程だ。この声に振り向くべきではないと、彼女は冷静に感じていた。誰かが扉を開けるなと言っていた事を思い出し、おそらくこれもその類なのだろうと思う。声に応えてはいけない。不思議と恐怖心はなく、応えなければ安全だという根拠のない確信が朱音にはあった。だからは彼女は足を止める事もなく、ただひたすらに光を探し続けていく。背後から聞こえてくる声が時折男のように呻いたり、子どもの泣き声に変わっても一切気に掛ける事はなかった。

どれだけ歩いたかわからない。ふいに足先に何かが当たり軽く蹴飛ばしてしまったようだ。急いでそれを確認しようとしゃがみこんで手を伸ばしたが、暗闇の中だ、手探りでも探しにくい。やっと指に何かが触れたと感じた時、それは突然震えて光を発し始めた。携帯だった。マナーモードなのか着信のメロディーは流れず、バイブレーションだけが断絶的に闇の中で笑うように響いた。液晶に映った着信相手は友人だ。そっと手に取り電話に応答しようと耳にそれを宛がう。その瞬間、身体を何者かに捕まれて転がるように後ろへと倒れこんだ。いや、倒れこんだはずだったのだが、倒れようにも足を着いていた地が消え失せており朱音はただただ下へと引かれるがままに落ちていく。その内掴む手が段々と増えていくようで、縋り付くようなその強さに痛みを覚えた。体を無理やり引き裂こうとするかのようだ。落ちるにつれて意識が遠退いていく最中、遠くの方で自身の名前を呼ぶ声を聞いた気がした。













「田噛はさー。何でうまいコーヒー飲みに行くんだ?」


休日の昼下がり。給湯室にある冷蔵庫から自分で持って来たのだろう、2リットル炭酸飲料を取り出しながら、平腹は背後の自販機で缶コーヒーを買う田噛に声を掛けた。田噛はまるで聞こえなかったかのように無言で給湯室を離れたが、その後ろを律儀に平腹がついて歩いて来る為あからさまに眉を潜めて「だるい」と呟き吐き捨てた。どうして休日にこんな所で同僚に会うんだ。一人で気兼ねなくのんびり過ごしたいというのに。
田噛は先程起きたばかりで、目覚まし代わりに何か口にしようと自販機のある一階の給湯室まで下りてきたところだった。自室の冷蔵庫に飲み物が何も残っていなかったのだ。だからこれからブラブラ買い物にでも出ようと思っていた。対して平腹は館の外にある簡易な運動広場で他の仕事仲間とサッカーをしてきた後だった。水分補給用にと一階の給湯室に部屋に買い溜めしてある炭酸飲料を一つ預けていたのだ。偶然が重なった結果だった。


「……美味いから飲みに行くんだろ。あそこに行かねーと飲めねえし…。それ以外に何が有んだよ」

「他の曜日のコーヒーはうまくねーの?」

「俺の好みじゃねぇな」

「そっか」


何が知りたかったのか。休憩室のソファを見つけた田噛は半ば落ちるように腰を沈めながら自身の前に立つ平腹を一瞥した。わざわざ答えてやったのにどこか不満げな表情を見せる同僚を、田噛は缶の栓を開けながら怪訝そうな目で見上げた。


「……今日は行くのかよ」


ソファの背もたれに身を預けながら気だるげに彼が問うと、平腹は今まで曇らせていた顔が見間違いかと思う程明るい笑顔になって大きく頷いた。その振動で彼の持つ炭酸の中身が音を立てて揺れたのを田噛は見逃さなかった。


「こないだ行った廃ホテルに朱音も居てなー。車ん中に居たから多分大丈夫だと思うんだけどな」

「あ?」

「朱音に何かあったらもう店行く意味ねーし、確認しとかないとなーって」

「……廃ホテルってえと、谷裂が寝てた原因の、か?」

「んー……、そう」


歯切れの悪い平腹の返答。田噛は缶コーヒーに度々口を着けながら視線を落として思い返す。谷裂が負傷して帰ってきたと聞いた時は珍しいが何かヘマでもしたんだろうと、存外気にする事もないと軽く流していたのだが、意識が戻った彼の様子はどうも普通の損傷とは違うようだった。目は開いたものの、谷裂はそれ以外の動作ができなかったのだ。生者の言葉を借りるなら『植物人間状態』と言ったところだ。補佐官が「肉体と精神を切り離された後遺症」だと肋角に耳打ちしていたのを田噛は聞いている。結局時間は掛かったものの獄卒の再生力は伊達ではなかったのか元の正常な身体に戻ったようだが、その尋常ではない負傷の原因にどう対処すべきなのかは未だに解決されていないらしい。谷裂を襲った亡者について上層部は警戒しているとも小耳に挟んだ。谷裂本人は次に討伐を司令された時に備えて今まで以上に鍛錬に励んでいる。


「佐疫も怪我したんだろ。アイツに傷を負わせる程の亡者がまだ複数居るかもしれねぇな……」

「オレ全然会わなかったなー…。つまんねー」

「知るかよ…。俺は極力関わりたくねぇけどな」


面倒くさい。田噛はげんなりと肩を落として息を吐いた。しかし恐らく、討伐の任務はこちらへと回されてくるだろう。優秀な上司を持つと難儀なものだ。


「今日店に行くなら朱音の事ちゃんと見とけよ。もし万が一あの女に亡者が憑いてやがったら、コーヒー飲めなくなるじゃねーか」

「田噛は来ねーの?」

「もし憑いてたら仕事しなきゃなんねーだろうが。今日休みだぞ、ふざけんな…」

「えー……」


空っぽになった缶を忌々しげに握り音を立てて形を歪ませた田噛は、座ったままで休憩室のゴミ箱にそれを投げ入れた。見事にスローイン。平腹がまた体を揺らして笑顔になると共に炭酸飲料の中身が水音を鳴らす。田噛は重い腰を上げて今度こそ一人で休日を謳歌する為に館の出口へと足を進める。平腹はその背中に手を振り見送りながら、乾いた喉に潤いを流し込むつもりでキャップを勢いよく回した。


「動いて汗クセーんだ丁度良いじゃねぇか。そのままシャワー浴びて来いよ」

「……田噛ぃ」

「汗クセー男は嫌われんだ。床もちゃんと拭いとけよな」


廊下中に響く田噛の笑い声を聞きながら、炭酸飲料を盛大に被った平腹は甘く香るべとべとになった自分の腕を軽く舐めて「うぇ」と顔をしかめたのだった。













――――――――――














休日なのに生憎の雨。それも一日中だった。いくら店内のエアコンで除湿していても、やはりどこか肌がべたついて仕方がない。朱音は厨房奥の流し台に少しだけ腰を預けるようにしてもたれ重たい息を吐いた。友人達とあの異様なホテルに行って以来、悪夢を見るようになったせいで体の疲れが取れず全身が言い知れない気怠さに襲われている。平腹が去った後眠りに落ちた朱音を起こしたのは車の鍵が開いた音だった。目を覚まし体を起こせば辺りにはすっかり日が照りつけており、フロントガラスからこちらへと走ってくる三人の姿が見えた。三人とも青ざめた顔で車に乗り込むと誰一人として口を利かず、ただホテルから一刻も早く離れようと急いでいた。朱音の隣に乗り込んだ友人は始終泣きじゃくっており、助手席に座った友人は自分の肩を抱いて震えるばかり、その彼氏は恐ろしいほどに血の気のない顔で目を見開いて運転に努めていた。大丈夫かと声を掛ける事すら躊躇われる空間に、一人正気を保っている自分の方がおかしくなったのではないかと思う程だった。あれから二日経った。家の最寄駅に下ろしてもらってから三人と全く連絡が取れず不安で仕方がない。だが自分ではどうする事もできない上に、あの夜の事は極力思い出したくないと言う恐怖から無意識に考えないようにと脳は動いている。それでも潜在意識に強く残っているせいなのか、悪夢を見ては一人息苦しい夜に涙した。心霊現象など、誰に話しても信じてくれないだろうと言う絶望もあった。だから今日、本当は休んでしまおうと思ったアルバイトに半ば縋る思いでやってきたのだ。平腹に、会いたかった。


「朱音さん、大丈夫ですか…?」


食器洗いをしていた男の従業員仲間がそっと近づいてくる。自分のエプロンで濡れた手を拭き、そっと朱音の額に手の甲を寄せた彼は驚いたように眉を潜めると、自身の額に同じように手を当ててからもう一度朱音の額に触れた。


「……朱音さん、体温が低すぎませんか」

「……え?」

「そりゃそんなに顔色悪くなりますよ。ちょっと待ってください、とりあえず座って」


流し台の横に積まれた段ボールを一つ床に置くと、彼は朱音をそちらに誘導した。それからホールを覗きに行くと一番古株の女性従業員を呼んで戻ってくる。


「…来る前から顔色あんまり良くなかったもんね。何か温かいもの飲む?」


男従業員は食器洗いに戻りながら、息をつく朱音に心配そうな視線を送った。当人は全くそんな事に気が付かなかったようで驚いたように首を振って肩を竦めて微笑むが、その表情も彼女以外には弱弱しく映ったようで、より一層心配を募らせた。早退するかと問う仲間に朱音は首を振った。


「閉店までもうあと一時間だし、最近よく眠れてないだけできっとすぐ良くなります。風邪とかではないと思いますし……」

「そう…?でも心配だからラストオーダーまでね。無理しちゃだめよ」

「はい…、すみません」


木曜に休みをもらったばかりなのに体調不良で店に迷惑を掛けたくなかった。それと少しだけの期待。でも今日は『彼』が来ない日みたいだ。そう、思った矢先だった。


「朱音さんオリジナルブレンド一つ、……ってどうしたんですか!大丈夫ですか?」


ホールからまた別の従業員が顔を覗かせて座り込む朱音を見つけ目を瞬かせた。それからもう一度ホールを覗いて焦ったような表情を見せると、急ぎ足でこちらに歩んでくる。お客様がたくさん来店されてホールが大変なのだろうかと一抹の不安を抱えたが、彼女はどこか申し訳なさそうに小声で朱音に報告した。


「……うまいコーヒーの方、みえたんですけど。どうしましょう、別の物に変更していただきますか?」


ああ、来てくれたんだ。気付けば自然と頬が緩んで何故か安堵の息が漏れた。身体は依然として気怠いが折角来てくれたお客様を思えば何という事はない。「大丈夫です」と呟くように頷いて、彼女はゆっくりと腰を上げコーヒーを淹れようと抽出器具の準備に取り掛かった。現金な奴かもしれないがそれでも心は幾分かスッキリしており、むしろ安心しすぎてまた涙が出そうだと危惧する程だ。あの夜店の外で会った平腹を思い返す度に、朱音はどこかでもう来てくれないかもしれないとそればかりが気掛かりだった。人間ではないと言った彼の言葉を反芻させればさせる程、あれは冗談だろうと思おうとする心が悲鳴を上げる。彼が嘘をつくような人には見えないし、あの状況、あの話のテンポでふざけるような人でもない。何より得体のしれない存在達から自分を守ってくれたのは平腹だ。今思えば彼もまた、朱音からしたら得体のしれない存在なのかもしれない。すると童話や漫画の中ではよくあるパターン。秘密を知ってしまったらそれまで、もう二度と会ってはならないと言う別れが発生するような気がして怖かったのだ。


「……お待たせしました」

「朱音…!」


いつも通り通りに面したガラス張りの席に彼は座っていた。会ってからまだ二日しか経っていないのに、どうしてか久しぶりに平腹の顔を見た気がする。黄色い瞳が今日も相変わらず不思議で綺麗だなと思う。


「朱音、ちょっと待って」


いつも通りコーヒーをテーブルに置いてバックへと下がろうとした朱音の手を、平腹は慌てて掴んで引き留めた。その手の温度のなさに一瞬驚いたが、自分の体温も今低いのだったと思い直す。それにしてもこうして触れるのはもしかして初めてではないだろうか。


「……朱音、扉は開けなかったよな」

「開けるも何も、私あの後眠ってしまったんです」

「ん、そっか。……あれから何ともないか?」


そっと指を擦るように朱音の手を握る平腹に、体温が低いながらも心臓が動きを速めて少し体が苦しくなった。


「……まだ、泣いてんの?」


問いに彼女が答える前に平腹は僅かに眉を潜めて椅子から腰を浮かせると、そのまま心なしか苦しげな表情を見せる朱音の目尻に指を這わせた。夜怖くて泣いていたせいだろうか。家を出る前に跡がついていないか確認してきたつもりだったが、どうやら赤くなった目元は戻りきっていなかったようだ。平腹が背を向けたガラスに立ち尽くす自分がうっすらと反射している。外を歩く人々がこちらを一瞥していくのが見えて朱音は我に返った。


「怖い夢を、少し見たから……」

「怖い夢?どんなの?」

「それが、あんまりよく覚えてないんです」


平腹から少しだけ退きながら俯く朱音に、彼は椅子に戻りながら首を傾げる。平腹にそんなつもりがない事は重々承知の上なのだが、彼の一挙一動がどうにも彼女の心を駆り立てて騒がせていた。彼が触れた目尻を自分もなぞりたい衝動に駆られる。心配してくれる平腹の目を心底喜んでいる自分がいる。そうした感情に比例する心臓がますます朱音を苦しめた。


「……なー朱音。オレさ、お前と居るとスッゲーわくわくすんだけど。こないだとか、今日のお前見てると、わくわくっていうか、……何か助けてやりたいって思うんだよな。だってお前苦しそうだ」

「え…?」

「オレ、どうしたらお前の事助けられる?」


情けないくらい間抜けな声が漏れた。どうしてこの人は唐突にこんな事を言ってくるんだろう。どうしてそれを真正面から伝えてくるんだろう。嬉しくて仕方がないのに、反対に胸が締め付けられる。純粋な言葉はただ残酷に朱音に響いた。彼女には平腹の言葉があまりにも真っ直ぐすぎて、自分の抱える感情が汚らしいものに思えてしまったのだ。


「朱音、今仕事中だし邪魔したくねーから、オレ今日、仕事終わるまで待ってる」


平腹はまるでそれが決定事項だとでも言うように微笑んだ。朱音も言い切られて流石に戸惑うが、それ以降満足げにコーヒーを口に運ぶ平腹を見て何も言えず踵を返した。断る理由などない。平腹の優しい言葉の真意を朱音は理解しきれずそれ故に心を痛めるばかりなのだが、反面彼の申し出に弾んでいる心がある事も確かで、もういっそ深く考えずに傍に居るだけでも良いかもしれないと半ば悟るように朱音は思う事にした。

ガラスに反射した朱音の去って行く背中を見つめながら、平腹は目を伏せてコーヒーカップをソーサーに戻す。それから彼女に触れた指に視線を落としてそれを眺め、何故か胸につかえるように溜まった息を吐き出した。本当はあのまま朱音を抱きしめてしまいたかったともやもやする自身に、平腹は顔を曇らせる。どうしてこんなにも朱音が大事なのかわからない。今日はちっともわくわくしないのに、ここを離れたくない。むしろここに居たいと思う。その理由を、平腹は何となくわかっているような気がした。

だってまだ、朱音の笑顔を見ていない。朱音の笑顔を見たら、わくわくすると思うから。
















2015.04.23

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