潤えば泣き詫びてその隙に(伊仙)*


※現パロ、人外


 「救いたい」、こころを奮ってそう伝えれば、彼は「おこがましい」と笑います。


 もし存在を100に分割するとしたら、立花仙蔵のそれは、各個体のうちひとりでも規律を乱せばそれでジ・エンド――善法寺伊作はそう危惧している。自分のなんか98はボーっとして、残り1.7でようやく引き上げているのだから、見ていて感嘆ばかりが生まれて消える。身体の下をくぐっている仙蔵の白い肉体を眺め、伊作は唾を飲み込んだ。彼はいまも彼を抜け出せないままだ、なんという名の苦痛なのだろう、と無礼な思いを抱いている。
「かわいそうだ、きみは」
 仙蔵は顔を歪め、ただしその内部の感情までを伊作に知らせることはなく、指の先にこもった力でシーツを掴む。たとえ伊作がたぶらかしても、結果が変わることはない。自己を綺麗に切り分けて、異なる次元の狭間に隠す。それを不愉快と思わねばならぬ伊作は、どうしてしかし、仙蔵がそうしてくれることを、好ましいように思っている節があった。
 要は、伊作は仙蔵のことを分からない。「分かち合う行為」ともっぱら謳われることを、何度何回重ねても、この男はずっと遠くを見つめて、四六時中解釈不明のままだ。そうやって、仙蔵の存在がセックスの前後で地続きであることを確認し、伊作はかすかに満足を得ていた。
(どうしてかな。人間だから、とかじゃ説明つかない……とは思うんだけど)
 考えては無駄、と分かっていても思いは揺らめく。伊作は開かない扉の前で息を吸ってから吐き、身体の向きを変え、ずるずる、背中をその戸にもたせ掛ける。街はきっと目覚め始め、でもその息吹はここまでは届かない。南風を頬に受け取る。白木蓮の花弁が群青の宙に舞う。長い石段を滑り落ちた視界の先には、家々とビル、整理された往来。さらにその奥に向かいの山脈が見えた。彼が仙蔵と関係を持ってから、幾度も見下ろした景色だ。



 喚んだのは仙蔵で、居ついたのは伊作だった。瑕疵はどちらの側にもあったし、或いは、なかった。その時仙蔵は伊作――夢魔に取り憑かれたけれども、気を確かに保っていた。
 考古学だか、その辺りの研究室からの依頼だった。文字の擦れて不明瞭な箇所を解くべく、幾つかの灯に囲まれて仙蔵が前文を訓みあげる。焚き上げた香のせいで、葬式のような雰囲気が漂っていた。さながら経をあげる立場の仙蔵は、派遣されてきた学生ひとりの折り曲げた膝を思い遣ることもなく、緩々とそのモノを語ってゆく。
 およそ十七分ほど経ったころ、俄かに仙蔵は苦しみだす。側で痺れに耐えていた学生は驚いた。何しろ紹介元から教わった話では、仙蔵は自身の魂を異界に飛ばす方法で交信をする、だから突然ポツリと黙るけれども、その内還ってくるのだよ、とのことであった。しかし、たった今の仙蔵はどうだろう。恐らく全身に汗をまとい、呻き、又は吠え、二秒して妖艶に笑む。
――なにか、居るんだ……!
 恐怖を感じた学生は、迷わず仙蔵に駆け寄り、肩を揺さ振る。
「立花さん! 立花、さんッッ!」



 要因は、部分を欠いた呪文が再構成されてあたらしい意味を為した、といったところか。しかし、偶然の確率を数えることは、仙蔵の仕事ではない(だからといって、他の誰に頼んだらよいとも言い当てられないのだけれども)。仙蔵はすべからく、顕現したその存在の後始末とか、目撃者となってしまった一人の学生のメンタルケアだとかに奔走した。そして、現れた伊作も性根の悪い方ではなかったから、見ているだけというのが居心地悪く、それに協力したり、協力したつもりなのに足を引っ張ったりして、いたく仙蔵に迷惑がられた。
 だから、(伊作にとっては自分が何処に存在しようとどうでもいいことなのだ、が、)仙蔵にとって、二人のあいだで繰り返される行為は責任の擦り付け合いに相当するのかもしれない。最初を断らずすんなり受け入れたのも、そういうことなのだろうか。伊作はそう思案したりもするが、すぐに飽きてしまって、口元に右の掌を当てて欠伸をする。
 やがて、左手に太陽が昇りきる。人々の蠢き始めるさまに、「美しい街だ」と、伊作は初めてそう感じるのだ。永い時を生きてきたのに、初めて。伊作は自身のことを、情けないと思った。残念ないきもの。伊作は、否、仙蔵だってそうであろう。しかし、意義に身をやつし懸命であることを、ほんの少しの間しか妨げられないのならば、その分だけ自分は、彼に劣っているのかもしれない。浮上した悲観を、伊作は再びの欠伸で打ち消す。
「来ていたのか」
 扉が動き、支えを失った身体が傾いて、仙蔵の脚に触れる。振り向いた伊作の、精一杯の哀しそうを繕った顔は、果たして仙蔵に伝わっているのだろうか。そして、「あの時すべて奪い取って、きみを変えてしまえばよかった」と嘆く伊作のこころの声は、伝わってしまっているのだろうか。



 伊作は、自分がどの場所に産まれようと、どうでもよかった。それでも、今こうして根を下ろすこの街は至極美しい、そう感じている。そしてそれが伊作の本心なら、「煌めいてみたいものだな、そういうふうに」とは、伊作が一度きり耳にした仙蔵の本心、のようなものかもしれぬ。確かに、と伊作は心のうちで同調する。朝日に透ける室内の埃だって、垂れて艶めく黒い髪だって、人間が成ることのできる美しさの限界だ。
 仙蔵が美しくあろうと身を削り、ないし抑えているのだとすれば、それは酷く醜いことだと、伊作は思う。しかし、いっそ自らを習えと怠惰に誘うことしかできない伊作も、また恐ろしいほどに、醜いかたちをしている。



 発かれた旧い書物はこう語る。自分を大切にする方法を、きっとどのふたりも知ることはない、と。




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