輝いたままならば(勘竹勘)*


※現パロ

 これが大人になったということか。近頃、いよいよふざける方法が分からなくなった。八左ヱ門はおれの息継ぎ場だ。底辺まで沈み込むのを見計らって、勢いよく掬い上げる。他人はそれを残酷だと詰るかもしれないが、どうだってよかった。八左ヱ門は、おれのたったひとつの、生きられる場所を提供してくれる。


 三日前に危うい夢を見た。その日は何も言わなかった。八左ヱ門も何も言ってこなかった。おれは物事を打ち明ける方策を知らぬ。八左ヱ門は、おれがそういったふうなので、諦めてしまったのかもしれない(、それはもう、随分前から)。
 二日経って、土曜日の昼にふたりで出かけたスーパーマーケットの帰り道で、前を歩く制服の群れがどんどんと遠くなっていく。八左ヱ門はおれに歩幅を合わせていたが、やがてぴたりと止まり、堤防沿いの砂利道、掛ける場所なんてどこにもないのに、「少し休もう」と言った。ばかなおれは、掛ける場所なんてどこにもないから、そのことを指摘した。多分嘲るような態度だったのだろうと思う。八左ヱ門はきっとそれに怒ったのだ。おれの頬を両手で包んで、おれのことをじっと見た。向こうからベルを頻りに鳴らして近づいてきたオバサンは、おれたちの近くを通るときだけ、まるで強盗から身を潜めているかの如く息を殺して通り過ぎ、三十メートルほど行ったところでまたけたたましく音を鳴らすことを再開した。おれは恥ずかしくなり、八左ヱ門の左手だけを自分の手で払った。午後の蝉の声が時間がたつごとに少なくなっていく。おれは、スーパーマーケットで買った氷菓の保ち具合を思いやった。
 大人になったなんて嘘だ。なにせおれたちはまだ十九歳だし。でもおれは、自分がとことん恥ずかしい存在であるように思う。助けられなければ生きていけないのに、助けてくれるひとたちのことを捨てて、八左ヱ門を選んだことだとか、いろいろ。
 きっとおれは病気なのだろう。名前のつかない、治らない病気。進んで大人になろうとしない奴のことなんて、医学的に救ったってむだだ。成長ができるのに成長を拒むことの愚かさを、おれは身をもって証明している。
 だからおれは、八左ヱ門のことを愚かだな、と思う。


「なあ八左ヱ門」
 なに、と今、開かれた瞳が言っている。話しかけなければよかったと思った。瞼を固く閉じて耐えている八左ヱ門の表情を好ましいと思っているからだ。
「おれは、よく笑っていたか。他人を、笑わせていたか」
 ――ないし、他人を救っていたか――そう聞きたかったが、口にしなくても分かるだろうと思ってそれは省いた。こうやって言葉を省くことを、八左ヱ門はしばしば良しとしてくれないが、好きにさせてほしくておれは言いつけを守らない。
「お前はよくやっていたと思うよ、ただ俺は……」
「それは頻度のこと? それとも程度のこと?」
 八左ヱ門が躊躇って開けた間にかぶせるように質問を重ねる。神様はおれのことをずるいと責めるだろうか。いいじゃないか。だって聞きたくないのだ。おれの調子はちっとも悪くない。それを分かることができない八左ヱ門の言葉なんか、ぜんぜん聞きたくない。
 閉じた瞼に八左ヱ門の汗が落ちるのがわかる。八左ヱ門がおれを尊重するのを、おれは心底いやがっている。


 机に向かう八左ヱ門の後ろから近付いて、型落ちのヘッドホンをずらし、のぞき込んで口づける。ヘッドホンから漏れるオールナイトニッポンの語りが雨の音に混じる。八左ヱ門の掛ける椅子が回る。ノートには奇麗とは言えない字で英文が一行おきに綴られている。縋っているのは圧倒的におれのほうなのに、八左ヱ門が夢中でおれの舌を舐めるのは、どうにも世の中のバランスがとれていない気がした。
「勘右衛門、」
「だめだよ、始めたばっかりだろう、それ」
飽きちゃったんだよ、頼むよ。甘えるように笑う八左ヱ門はめずらしい。胸がくるしくなる。八左ヱ門が幸せになる方法はなんだろう。ふたりで一緒に大学に入ることではないように思うのだけれど、それ以外の方法はひとつしか、思いつかない。


 医療ドラマが映ったので、少し焦ってチャンネルを切り替える。キッチンで飯を温めている八左ヱ門には、おそらく聞こえなかっただろう。アルバイト先からママチャリを飛ばしてきた八左ヱ門は汗ばんでいる。暖房を消したので、おれは肌寒かったけれど、構わなかった。八左ヱ門にとっておれがそうであるように、おれにとっても八左ヱ門がすべてだ。
「アー、早くロード買いてえな」
「買ってあげるよ。どれ」
「ダメだ。自分で買わないと意味ない」
 今更そこを意固地になったって意味はない。この部屋もガスも電気も水もお前が今温めてるデパ地下で買ったよく分からん総菜も、おれが全部賄っているんだから。八左ヱ門、お前が嫌がったって時間の許す限り、おれはお前のために支払うことをやめないよ。そしてこの時間がずっと続けばいいと思っている。
「いいよな。空きコマ発生してもその時間も時給出るんだってさ」
「前、コマ給って言ってなかった?」
「そっか、そうかも」
「受かればお前も講師できるけどね」
「言ってくれるなァ」
「でもその先輩、よっぽどだねぇ。スタンドと予備校って取り合わせ」
「そうだよ。俺なんか養ってないで勘右衛門、もっと、」
 そこまで言って、八左ヱ門は言葉に困って頬を掻く。謝ることは、おれから禁止した(それはもう、随分前から)。だから、八左ヱ門はおれに謝ることができないのだ。
世界に放たれた事象とは段々と責任を失うもので、自己が取り入れた事実のみがどんどん大きくなってゆく。この部屋には、この星には、おれたちにとって無駄なことが多すぎる。


 「これで最後なんだ、残念だけど」と名も知らぬ(知りたくもない)男が言う。おれはサイドテーブルに置かれた折り目のついた札の数を数えながら、「それは残念。どうして?」と(知りたくもないけれど)聞く。「母親の介護で、実家に戻るんだ。生活費も入れてやらないとだし」――「そう」とおれは実際に声に出していたか、分からない。おれが「予定どおり」医者になっていたら、そいつも介護要らなかった、かもね。たしかに残念だ。新しい振り込み元を、おれが探さなくちゃあならないから。
 髪に触れてくる男の手を軽くはたいて立ち上がる。ホテルのエントランスに差し掛かったあたりからは駆け足になった。無性に悲しかった。八左ヱ門がおれを選んで、おれが八左ヱ門を選んで、救われないいのちがあることが、悲しかった。だから走った。涙が顎から垂れるから、信号待ちではベージュトレンチに黒髪ポニーテールのねーちゃんがおれをじろじろ見た。でもおれは恥ずかしいなんて思いやしなかった。恥ずかしいんじゃない。悲しいのだから。
 河原にたどり着いたころには空が橙と黒に移り変わっていた。それをたしかにうつくしい色だとおれは知っていた。八左ヱ門を選ばなかったおれだったら、うつくしいなんてとても思わないんだろうなと思った。涙はいつの間にか止まっていて、泣いていたことをばからしく思えるくらいには脳が冷めていた。
「勘右衛門」
 近くで八左ヱ門の声がする。きっとおれのことを叱りにきたのだ。それを優しいと、嬉しいと思うおれのことを、どうか許してね。
「帰ろう、勘右衛門」
「ちがうでしょ」
「勘、」
「ありがとうって。俺を選んでくれてありがとう、だよ、八左ヱ門」
「ん、そうだな」
「ばかめ。」
 おれを受け容れたばっかりに、しあわせになれないばかな、ばかな八左ヱ門。
「ああお前、鼻水つけるなよ、この服洗ったばっかりなのに」
「新しいのを買えばいいよ。もしくは、抱きしめなきゃいいんだ」
「どっちもできないよ」
 しあわせになれなくてもいいとお前が言うから、おれは大人にならないまま、お前を自由にしないまま、呼吸をしていられるよ。




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