我の思案と彼の思慮(久々鉢)*


 扉を開けると、水場特有の柔らかい響きで音が返ってくる。浴室内に湯気はほとんどない。さっきふたりで薪を足したばかりなのだ。時たま、ぴたぴたと天井から冷やされた滴が落ち、床にあたって跳ねている。
「これで満足かッ」
「物に当たるなよ」
 三郎が箒を蹴飛ばすのを見て、兵助はひとことたしなめる。だがそれも、形式的だ。気持ちは分からなくはないのだ。
 飲み会を二人で抜け出した。こっそり、別々に抜け出したつもりなのに、三郎が部屋を出る際に同級生からかけられた言葉は「ご武運を!」だの「静かにね」だの──「分かってるっつーの」と、三郎は今も怒りが収まらない。箒がしっかりつっかえ棒となっているか、結局手で触って確かめた。確かに引き戸は動かない。三郎が振り返ると、兵助はその様子を見守っていたらしい。
「もう、する?」
 その人好きのする微笑みに、三郎は頭を抱えたくなった。混乱させられたのだ。デリカシーを欠いた仲間の言だとか、真夜中に浴室で非想定行為をしようとしている自分たちだとか、どっちもどっち、若気の至り、ノリだよノリ──そう片付けてしまえればいいけれど。いちいち癪に障ったり、反面で自分の行動に逡巡したり、三郎の面の下はいつも目まぐるしい。
 そうやって煮え切らないときの三郎を、兵助はまあまあ適切に、導くことができる。今だって、ムードもへったくれもない誘い方をしておいて、それでも兵助が求めているのは三郎だけなのだと真っ直ぐにわかる。求めに応えてやれることの悦びを知らない男ではないから、三郎は、「端的に言うな、恥ずかしい!」と配慮不足を咎めたいところなのに、「……うん」と答えてしまうのだ。
「兵助は正しい」、三郎は度々兵助をそう評した。やることなすこと全てが正解だ。なんなら、正しさが兵助の方に集まってくる、まである。
「それは、ちょっと買い被りすぎじゃないか」
 くすくすと笑いながら、兵助は汲んだ湯を腰の辺りからかけ流す。兵助にとっては適温より少し温い。熱がりの三郎には丁度良い。二人の身体が、水滴に濡れていく。
「要はずるいって意味だ」
「ならずるいと言えばいい」
「そう言ってしまうと私が妬んでいるように聞こえるだろう」
「妬んでくれないのか」
 そう言って、兵助は三郎の背後から頬に触れ、摘み、左右に引き延ばす。
「兵助くん、ずるーい! って、ははっ、これを、三郎が。はは、くっ」
「そんなにお前が喜ぶんなら、今度やってみせようか」
 便乗して軽口を叩く三郎の顎に指をかけ、軽く振り向かせて唇を合わせる。そういえばずっとこうしたかったのだ、と兵助は思っている。
「ん、へい、すけ」
「お前、酒を飲むと舌が尋常じゃなく」
「あ、」
「紅くなるよな。ほら」
 まじまじと見られている先は自分の粘膜で、そう思うと、頬にもたちまち赤みが増すのが分かる。
「これを、」
「……ふ、!」
「これを見へられたら、も、おへは」
 兵助は長々と話しながら接吻をするときがあって、そんなときは三郎も酷く興奮した。仕掛けているほうの兵助も舌足らず、間抜けになるのを構わず話し続けるから、今どこを愛撫されているのかとか、相手の舌が伸び切っているのかどうかとか、そういうイメージが一段と湧いてきて仕方がない。
「あつい」
「おっと、ようやく温まってきたか」
「そうじゃない」
 兵助が首元で息をするのが何より熱く、三郎の胸は苦しく軋む。もどかしくなって、肩を滑る兵助の手を取り、指を絡める。
「おっと、」
「早く洗おう」
「本当にそう思ってる?」
 こいつ、本当にねちっこい……。おおよそ泣きそうになりながら、三郎はムキになって目を眇める。さっきまで酒宴の席に構わず熱心に視線を寄越したくせに、今更無駄に優しくするなんて、どうかしているんじゃないか。
「いざ手中にとなると、完食を勿体無く思う性質なのだ」
「機を逃すぞ。忍者としての素質がないんだ」
「まったくだ」
 兵助は軽く口角をあげて、手ぬぐいの上で泡を作り始める。依然として性急さを欠いたその仕草に、三郎はとうとう待ちきれなくなった。膝立ちしている兵助の肩を、板敷の洗い場に押す。
「った……」
「なぁ兵助。私だって好きで平然としている訳じゃない」
「三郎、」
「分かってくれてると思っていたよ。でもそうじゃないみたいだ」
 ──だから、分からせてやるよ。凄みを増した三郎が、兵助の腰を跨ぐ。


 月並みな喩えだが、食事の場面であれば兵助は豆腐を最後に残しておく。こういった問答は、「犬が好きか猫を好むか」という問いに似ている。趣味嗜好に決まった答えなど存在しないのだ。
 「尻を打ったからお前が動け」と言ったところ、「望むところよ」と三郎は不敵に笑った。決して悪意があって焦らしていたわけではないものの、面白いように自分に丸め込まれている三郎を見上げて、ニヤケが止まらない兵助である。
「おお〜三郎くん。いきなりかい」
「うるさいぞ。たててる癖に」
 兵助は、そりゃあもう、と言いたくなった。思い返せば、本日の三郎はどこかで素直というか、折れやすかった。熟してきた宴の合間に何気なく顔を寄せれば、「風呂場に」と声を掛けてくるのだ。視覚的に兵助を煽るだけでは飽き足らず、誘うことまでしてくるとは。思わずごくりと唾液を飲み込んだ兵助を、聡い勘右衛門あたりが聞き逃さず、そうして席を立つ三郎が囃し立てられるに至ったのだろう。
 息を止めて腰を沈めていく三郎の手の甲をなぞり、呼吸を促す。はあ、と漏れる吐息の成分ひとつひとつが浴室内に反射して、つぶさに見ることができるようであった。
「入っ、た」
「うん」
 自分の手は三郎に触れるのに冷えすぎてはいないだろうかと気になって、兵助は指を湯にくぐらせる。大分温度が上がっていたので、伸ばした右手をとっさにひっこめることになった。
「折角ご奉仕しているというのに、いい身分だ」
 片頬を引きつらせ、三郎が言う。集中しろ、と示したいのだろう、はたまた抗議のつもりか、中を途端に狭めてきた。兵助もこれには呻いたが、受けたダメージは仕掛けた三郎のほうが大きかった。なんとか腹に入れた力は保っているが、両の瞳はうるんで、こぼれおちてしまいそうだ。
「泣くな、三郎」
「は、もう、なん……で」
 三郎が固く目をつぶり天井を仰ぐ。見える白い喉の筋に噛みつきたい欲求を、兵助は必死で抑えていた。
「泣くな、ほらちゃんと、教育して」
「ふ、動く、いま動くから」
 気持ちがいいのが何度も体内の膜で跳ね返っている心地だった。耐えて自ら動き始めるのは、正直苦行に近い。それでも兵助に尽くしたい気分の一心で、三郎は腰を滑らせる。
「ほんとに……おまえ、はぁ!」
「うん。ごめんって。さっきも謝っただろ」
「そうじゃな、い、そうじゃな、!」
「ごめんって、お前のことやらしい目で見た、みんなの前で」
「ば……っか、しね」
 兵助はさっきから視線を合わせてくれようとしない。目を伏せて、三郎からは睫毛がより一層長く見えた。どうして、と三郎は思っていた。どうしてこんなに腹が立つのに、尽くしたい、叱りたい、分かりたい、分かってほしい、のか。
 ──もう動けない。三郎が諦めると、兵助が突き上げてくる。何度かそうした応酬を重ねて、数が数えられなくなったとき、兵助が身を起こして、耳元で
「だって俺が口に出したらお前、怒るくせに」
と囁いたのを、振り絞った力で、三郎は聞いた。


 背中を不規則なリズムで叩くと、振動がこちらの骨にまで伝わってきた。三郎は意識こそ失わなかったが、すっかりへそを曲げて、兵助に向かいあって抱えられたままになっている。
「……生きてる?」
「返事がない。社会的に死んでいるようだ」
「お前、しつこいな」
 「どの口が」と三郎がつぶやくので、兵助は背中を叩く力を少しだけ強める。肯定しても悔しいし、否定は当然に面倒だった。
「私はね兵助、なにも怒りたくって怒っているわけじゃない」
「ああ」
「正しいお前を、貶めるつもりもないんだ」
 そうしてまた滴が落ち、水面とぶつかる音を聞いて兵助は、「ああ、早く機嫌を取り直して、こいつを湯に入れないとなあ」と思うのであった。





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