そのうち二人で春霞み(久々鉢)


 偶の休みだから町に出ようと誘われていたのに、久々知兵助は寝坊をした。自室の戸を開けると、陽は既に高く昇っている。やってしまったかなぁ。反省の心を少しだけ込め、髪を結わき直しつつ部屋に振り返ると、文机の上に書き置きがある。

『兵助遅いから先に行きます。全然起きないんだもん。九つほどに茶屋、それまで別行動、おれは髪を切りにいくよ。早く来てねん』

 払いが丸まった独特の筆跡で書かれている。尾浜勘右衛門の字であった。

「ん、いや、何かまだある」

 右下隅に、まるで縮こまれとでも命じられたかのように小さい文字の粒が並んでいる。灯りのついていない部屋の中は薄暗く、目と紙の距離をだいぶ近づけなければ、兵助はその字を読むことが出来ない。

『三郎もまだ起きない。起こしてくれると助かる、済まない』

「雷蔵……か」

 兵助は、そう言えば不破雷蔵の書く字はよく知らなかったなあ、長年同級であっても組が違えばまあそんなものか、と考えながら、ろ組の生徒たちが暮らす方の部屋へと足を運んだ。陽は高いのに風が弱い天候からか、欠伸が止まらなかった。

 目的の部屋へやってきて戸に手を掛け、いきなり入ればまたねちねちと文句を垂れられるだろうと思い至り、ひとまず名を呼ぶことにする。鉢屋三郎はすぐに返事を寄越してきた。曰く、起きているから入れ、とのことであるので、ウンと返事をしたつもりの無言で戸を引くと、まず視界に入ったのが布であった。

「なん……これ」

 兵助は迷惑極まりないといった顔をして、その布を手で払いのけ足を進める。三郎はその先で、寝床にぐでんと横たわっている。

「悪い、干すところがなくてな。それに今日は眩しくてかなわん」

「お前、起きていたのか」

 衣類を干した、ということはその前、つまりは衣類を洗った、があったのだ。そう推測した兵助は、先ごろから寄っている眉間を更に縮めて、睨みつけるに近い表情で三郎を見やる。見られたほうの三郎は、おいおい血の気が盛んだなあと肩を竦め、普段から半分ほどしか晒していない瞳の広さをより狭めてこう話す。

「差し詰め雷蔵あたりだろう」

「頼んだのは自分じゃあない、そう言いたいのだな」

「話が早くて助かる」

「俺はそうして尚もぐうたらしていられるお前に困っているよ」

 兵助は鼻で息をフンと鳴らした後、まずは三郎の身体を軽く蹴り、それでも投げ出され脱力した手足が動かないと見るや、次に敷かれている布団ごとをめくって天地返しを試みる。しかし、三郎は非協力的にごろごろと床を転がるので、丸まった布団が三郎をくるみこんで、結果見るに堪えない太巻きに似た物体が出来上がっただけだった。

 その太巻きをもう一度、今度は強く蹴り飛ばし、アイタッと聞こえる悲鳴は無視をして、兵助は部屋の外へ踵を返す。当然付き合っていられないし、お呼びでないのであればもう、一人で町へ向かってしまおうと考えた。だが、それが出来ない。

「触るなよ」

 三郎の手のひらが、兵助の足首をしっかりと捕まえているのだ。逃れようと掴まれた足を浮かせてぶらぶら揺らすも、力が強く容易には叶わない。

「離せって」

「まあそう言うな」

 言うに決まっている。足を下ろしてため息を相手に聞こえる大きさで吐く。三郎は大げさな、と笑っている。どうして笑っていられるのか、兵助にはさっぱりだ。

「手伝ってくれよ、支度」

 どうもやる気がでないのだ、そう三郎は言う。鼻歌を歌い、ひらひらと手をなびかせ、表情は常とは比べ物にならないくらい機嫌の良いように見えた。



 機嫌がいいのも当然で、本日の三郎の内心は、朝早く目覚めてから(本人は認めたがらないであろうが)世界の誰よりもそわそわしていた。鶏も鳴かない時間帯より普段であったら気乗りもしない洗濯を済ませ、陽がようやっと登り始めれば洗面をし、昨夜、否、何日も前から決めていた外出着を再確認して、それでもまだニヤニヤと口角が上がってしまうものだから、これは今一度寝て起きたところからやり直そうかと考えていると、竹谷八左ヱ門の長いうめき声が聞こえてくる。これは八左ヱ門の起床の合図のようなもので、案の定ゴソゴゾ、バタンと物音がするので、ニヤついた顔面を目撃されたくない三郎は、足音を立てぬように寝床へ戻り、髪の毛一本も空気に触れぬよう頭から掛布団を被った。仮面で口元を隠すことができたらよかったなあ。まあどうでもいいか。と考えながら、他人の一日が始まる音を、じっと縮こまって聞く。

 さて、三郎が何故こんなにも浮ついているのかというと、今日の予定である。「町に出るぞ」と誘われて、「先週もその前も出かけたじゃあないか」と断れば、「今度は五人だから。盛り上がるぞ」と返される。大所帯であることを強調する勘右衛門の狙いは、実際のところは大人数割引が利く歌声喫茶にあると、三郎は知っている。指摘すれば、「だってぇ、あの子可愛かったも〜ん」とのこと。喫茶の店員のことを言っているのであろう。

「五人って、お前と誰だ」

「言っておくけど、三郎は入ってるからね。あとは、八左ヱ門と、雷蔵、あと兵助」

 目を丸くした三郎に、勘右衛門は阿吽で答えて、

「豆腐の油漬け? っていうの? があるよ〜て、教えたのね」

「ほおん」

「次の休みまで続いてるのかは分からないけど」

 豆腐で釣ればいいんだよ、と言ってのける勘右衛門だけは、超人かなにかのように、三郎には感じられる。

三郎の目にする兵助は大抵が実習のときだとか委員会のときだとかで、そういった所謂「オン」のときには背筋も伸びてシュッとした印象を与えてくる男だが、一方で飯時や放課後になると、ぼさっとしているというか、どこかうだつのあがらぬところがあるようにも思えてくる。休みの日はよく寝過ごしているらしく、一度物凄い勢いで廊下を走るところに出くわして、何事かと問うてみれば、「木下鉄丸先生の手伝いがあったのだ、すっかり忘れて」と言い走り去る。なんだ、おっちょこちょいではないか。聞くに文武はどちらもいけるだの、男も女も抱いたらしいだの、此度は枝豆で豆腐を作ろうとしているだの、色々噂される兵助を、三郎はその日初めて、心の中でばかにした。

 ばかにしたついでに少し話でもしてみようと思うのだが、なかなかに機会がない。なにせ、向こうも自分も授業や委員会で忙しい(訂正、委員会が忙しいのは兵助だけである)。一日の終わりになれば暇もできようが、その時にはもう話そうと思ったことすら忘れている始末である。そう、長年同級をやっていても、組が違えばそんなものなのだ。むしろ、長年同級をやっている間に機会がなかったから、これまでもこれからもそれなりの関係に終始するのだとも言えよう。更なることに、同じ組であろうが、兵助とはほとんど交友がない、という奴も居ると聞く。あることないこと噂をされている状況からも、久々知兵助は間柄の構築に積極的でないことが伺えた。

 つまり、兵助を遊びに誘うなどという行動判定は、難易度がすこぶる高い。いくら同室のよしみ、大好物の豆腐をダシにしたとは言え、勘右衛門のやってのけたことに、三郎は芸術点を含めた称賛を与えてもいいと、そう思っていた。

「そんなに?」

 鼻で笑いながら勘右衛門が言う。三郎の頭の中には、特権階級、という言葉が浮かんだ。

「結構人懐っこいやつだよ。からかうと顔真っ赤にしたり真っ青にしたり、一人フランスだ」

「それは愉快だな」

 でしょでしょ、と、勘右衛門は兵助のいろいろな話をしてくれる。寝相が悪く起きたら褌一枚だったこと、寝言で「だめだ! ざるが間に合わない」と叫んで勘右衛門が叱ったこと、寝起きの足のにおいがえげつないこと。

「殆ど寝ているときの話だ」

「まあね。お前が喜んでくれるなら何個でも蔵出しするさ」

 別に喜んじゃあいないのだが、と笑ってやると、勘右衛門もつられて笑うが、ふと立ち止まって、

「やっぱりさ、」

と言う。勘右衛門は、たまにこうやって含みのある言い方をするのだ。これの調子を聞くと、物語のセリフじゃあないのだから、と三郎はいつも少しだけ嫌な気分になる。

「三郎は女の子キョーミないんだよ」

 分かってるよ、おれ。と言い残して、勘右衛門はすたすたと自室へ戻っていった。置いて行かれた三郎は、何を分かられたのかをすっかり分からず、だがしかし、自分も久々知兵助をからかってみたいものだ、いざ出来たならどんなに気持ちがいいことだろうと、まあ底意地の悪いことを、考えていた。

 そして三郎はこう思う。「絶好の機会じゃあないか、今日は」と。なんでも、兵助は寝坊をしていて(ここまではよく、二週間に一回ぐらいは、ある話だ)、それを待てない勘右衛門らは、兵助を置いて出かけるつもりのようである。「私は起こさないの……?」とは思わないでもないが、このまま狸寝入りを決め込めば、十中八九自分も置いて行かれることだろう。さすれば気にした雷蔵あたりが、兵助へ私を起こすように(あるいはその逆)と指示をして、後は晴れて口実を得た私が、あの久々知兵助をドカスカのピンだ。



 「子供じゃああるまいし」と、断ろうと思ったのだ。そもそもこの男、普段よりいやに周りをうろついて、なにか企んでいることは明白である。鈍い、反応が薄い、刺しても血が飛ばない、と散々に噂されていようとも分かる。支度を手伝わせて、失態未満の出来事に難癖をつけ、やがて自分をドンジョロのビャンにいてこましてくるに違いない。兵助はニヤニヤと気色の悪い笑みを浮かべる三郎にこう問うた。

「手伝うって、何をだ」

 そうして事実、経緯を省いて、兵助は今、ふわふわとした頭髪に触れている。三郎はまだ鼻歌を続けていた。客観視すればたちまち混乱を招くこの光景に、どういう理由だか居ついてしまっていて、だがしかし非日常である自覚はあるので、要約すれば兵助は少なくとも、動揺をしていた。本当のところ、「くだんの喫茶の南蛮豆腐定食は数量限定だ」とか、「二人でひとりの支度をすれば倍、巻ける」とかの類、簡易幻術を仕掛けられたに過ぎないのに。

「うん。もうちょっと引っ張ってくれ」

 ならば自分でやってくれ、と兵助は思うのだが、三郎は口を濯いで木桶に水を吐き出しているところだ。先ほどまでは口の中を手鏡で覗いていて、髪を整えてやっている兵助の事情も考えず自由に頭を動かしていた。争うのはもう億劫だし時間を食う。だから兵助は何も言わないでおいた。

「お前、その、言いづらいが」

 三郎は横顔に目線だけを寄越して話しかける。努めて明るくした声色は、「言いづらい」とする心情の裏打ちだ。

「なんだ」

「遅いだろう、支度とか、そういうの」

 兵助は頭の中で石と石がぶつかるような音を聞いた。失礼な奴。三郎はつまり、こちらは歯を磨いて口を濯ぎ終わったというのにお前はまだのたのたと髪を結っているのか、と問いたいのだ。確かに兵助はのんびり屋というか、決して鈍間とは言わないけど、んー、まあ着実ってことじゃない? とは同室生活が長い勘右衛門の談である。改めて他者から指摘を受けると、それが欠点と決まった訳ではないのにカチンときたり過剰に気になったりするもので、例に漏れず兵助はたちまちに沈み込んでしまった。そうかやっぱり俺は。だから町に行くにも置いて行かれてしまうのだ。

「兵助?」

 すっかり手の止まってしまった様子を察知して、三郎は兵助に声をかける。返事はない。束ねた髪を首元で握られているものだから、振り向いたとしても俯いた兵助の表情を知ることはできないだろう。ぽっかり空いた会話、挙動の間。持て余して用済みの木桶を傾けたり戻したりしていた三郎の背中に、ぽすり、重みが乗る。

「三郎のせいで」

「ん」

「俺のやる気がなくなってしまったよ」

「ああ」

「お前がぐうたらしているから」

「そうだな」

「俺のせいではないんだ」

「お前の言うことがいつも正しい」

 庭で鳥が鳴いているのが聞こえる。というのは嘘で、三郎の頭の中は、背後で呼吸をする兵助の気配で一杯である。

「お前、案外いい匂いがするなあ」

 藪をつついても出てきた蛇が怒り狂っているとは限らない。その時の三郎は、平坦な調子で物を言う兵助が何を考えているかを知りたくて、堪らなかった。



 兵助が匂いの出処を知りたがるので、三郎はそこでようやく振り返り、兵助の頭を胸に抱える。沈香の匂いが、三郎の動きに合わせてふわっと広がる。ああ、昨夜の準備が実ったのだ。(浮ついたこころから生まれたものとはいえ)計画はやはり何事にも勝るものだ。そう三郎が自画自賛していると、兵助は鼻を上着にうずめたまま、ぽつ、ぽつと話し始めた。

「なんだか珍しい感じだ」

「私が香りを用意しているのがそんなにか」

「いや、それは別段。お前はいつも色々な匂いがするから。でも、」

 そこで区切って、兵助は顔を上げる。

「いい匂いと思ったのは初めてだ」

 微笑みと好感を同時に向けられて、三郎はどぎまぎした。邪気が無いにも程がある。これは、ちょっと、ぎゃふんと言わせるんじゃあ、かわいそうじゃないだろうか。そう思い始めて、三郎は自分の立てた入念な計画の面の皮がボロボロと剥がれ落ちていくのを分かり始めたが、もう後戻りもできない感じだった。

「このまま、日が暮れてしまいそうだな」

「そうだなあ」

「定食は、残念だった」

「うん、お前のせいだが、もう許そうかな」

弱った兵助を宥めているという事実が、三郎に満足感をもたらした。弱らせたのは三郎当人であるのに、兵助がそれを本心では指摘してこないのも、三郎にとって優しかった。なんだか急に、世界が愛情に満ちた気がしていた。

「お前、俺が機嫌いいと、うれしいだろう」

 腕の中で、兵助がそう聞いてくる。くつくつ、楽しそうな息遣いが混じっている。

「俺が単純でよかったなあ、三郎」

 三郎は、うんとは言えないので、代わりに兵助の髪の耳に近いあたりを、撫でておいた。




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