7


 今日も今日とて、汚らわしい奴らは蔓延っている。
 降りしきる雨の中、炎が消えた剣を地面に刺して黒い塵になって消えるアビスの魔術師を見下ろす。ヒチャールの集落で相変わらず怪しげな術を使っていた奴らを見つけて殲滅に走ったが、水元素を操る者だった故に時間が掛かってしまった。雨によって頬に貼り付く髪を払うと、頬に僅かに沁みるような痛みが走る。
 ――先ほどの戦闘で掠めたのか。
 じりじりと痛む切り傷はいつもなら大して気にしないくらいの怪我だというのに、自分の無力さを感じて顔を歪める。避けたつもりが、余裕だったつもりが。全てが自分の不甲斐なさに繋がって腹が立つ。
 雨が煩わしい。視線を下に向けただけで、倒れ伏せる父の姿を思い出して唇を噛み締めた。僕は成人を迎えたばかりのあの頃とは違うと明確に自信を持って言える。復讐に燃え獣のように戦いに身を投じた頃もあったが、それだけではいけないと僕は気づいてモンドに戻ってきた。
 ――けれど、また父さんを喪ったあの時のようになったら。いや、もう既に同じような事が起きようとしたのだ。
 ベルトから下げている炎の神の目が、元素が溜まったことを示すように赤く光っていた。手放して、それから戻ってきたそれは今や無くてはならないものになっている。
 あの日思わず彼女を抱き締めた手が、未だに熱かった。
 華奢で、すぐに壊れてしまいそうだと思った彼女が僕の怪我がないことに安堵していた時の顔を思い出す。じわりと心に何かが広がって、それと同時にきりきりと痛む。
 彼女がずっと幸せに暮らしていくにはどうすればいいかなんて明白だった。ずっと考えて考えて。出した結論が一番正しいのを僕は知っている。ただ、父さんの約束があるからと先延ばしにしていただけで。
 僕は最初から、手を伸ばすべきではなかったのだ。
 
 ルーナが背中に矢を受けてから、一週間が経とうとしていた。



 ***



 あの日から一週間ほど、ディルック様と顔を合わせて居ない。
 勿論、家に回されている仕事がなくなったとかそういう訳ではない。バーバラのお陰で傷が治ったとはいえ大事を取って二日程度休ませて貰ったが、その後はエンジェルズシェアに届け物をしたりアカツキワイナリーに行ったり。色々ディルック様に会いそうな場所に行っているというのに、それでもなおディルック様と会う機会に恵まれていないのだ。
 どうしてあんな風に抱き締められたのだろうとか、私の怪我を気にしているディルック様と顔を合わせたところで恥ずかしいやら戸惑いやらで正直どんな顔をして会ったら良いかわからないのだけど。それでも顔を見られないとなるとなんとなく寂しい気持ちになってしまう。ディルック様は元々忙しい人だ。こうして会えない日の方が多いというのに、私はいつからこんな風になってしまったんだろうか。あの抱擁を思い出すと、不謹慎だとは分かっていても顔が熱くなってしょうがない。
 ディルック様はもの凄く気にしている様子だったけれど、背中の傷は痕が残ったりはしないらしい。だから大丈夫ですよとはディルック様には伝えたのだが、ディルック様はずっと渋い顔をしていたことを思い出す。今思えば、ディルック様は何だか思い詰めたような顔をしていたような気がする。庇わなくていい、と私に告げたディルック様の顔は抱き締められて見えなかったけど、心配をかけてしまったことは確かだろう。
 けれど、私の傷に責任を持つ必要なんて無いのだ。私が勝手にやったことなのだから。
 ディルック様に何一つ怪我がないのだと知って、私がどれだけ安心したか。逆に目の前で私が怪我をしたのを見たのだから、優しいディルック様が心を痛めるのは当然とも言えるだろう。あの時は必死だったけれど、確かに、私の無鉄砲な行動がディルック様に結局迷惑をかけてしまったのは事実である。
 だから一応謝ったものの、改めて「心配かけてごめんなさい」と言おうと思っていたのだ。次に顔を合わせた時、と思っていた分時間が空いてしまって少し焦っているのかもしれない。
 ディルック様を庇い、それで心配を掛けた事は本当に申し訳なく思っている。――けれど後悔はしていないのだと告げたら、また怒られてしまうだろうか。
 今日の仕事を終えエンジェルズシェアから出る。また今日も、ディルック様は此処には居なかった。
 辺りは暗くなり始めた頃合いで、ちらほらとエンジェルズシェアへ向かってくるお客さんの姿がある。今日も此処は賑やかになるだろう。入ってくるお客さんの邪魔にならないように直ぐに入り口から離れ、家路の方へ足を向けた時だった。一度だけ、あの別邸だというアカツキワイナリーで見かけた人が真っ直ぐ私に向かって歩いてきている。その人は私の前で立ち止まると、綺麗な角度で頭を恭しく下げた。
 
「ルーナ様、ご無沙汰しております」
「えっと、貴方は……」
「ディルック様の執事を務めている者です。この後お時間よろしいでしょうか」
「ええ、はい。大丈夫です」
 
 ――ああ、確かに。初めてアカツキワイナリーに行った時ディルック様の後ろに控えていた人だ。
 自分の記憶と合致して頷くと、執事だという彼は笑みを浮かべてもう一度頭を下げた。相変わらずと言うべきか流石と言うべきか、その所作は元令嬢だった私より余っ程洗練されている。「では僭越ながらご案内のため先を歩かせていただきます」と告げた彼の後ろを、少し萎縮しながらついていく。昔は身体が弱く、あまり外に出歩いたことなんて無かった私は、こうやって外でお嬢様らしく扱われたことは殆ど無い。勿論、それを嘆いたことはないし――私の病気が家計を圧迫した原因に一枚噛んでいることもあるけれど――改めて望んだこともない。けれども、実際お嬢様扱いをされるとこそばゆいようなそんな感覚を覚える。
 迷いのない足取りで歩いて行く彼の後ろを歩いて着いた先は、仕立屋だった。
 
「此処は……」
「中でディルック様がお待ちです。どうぞ」
 
 目の前で扉が開かれる。何となく察してはいたけれどいきなり顔を合わせろと言われれば僅かに緊張してしまう。心配かけてごめんなさい――そう言ったらどんな顔をするのだろう。私はちゃんとそれを伝えられるのだろうか。そのまま硬直している訳にもいかなくて深呼吸してから足を踏み入れると、赤いドレスを前に佇んでいるディルック様の後ろ姿が見えた。
 凜とした後ろ姿だ。一歩踏み出す度に、うるさいくらいに私の心臓が脈打っている。緊張しているのか、それとも別の何かだろうか。動悸を抑えるように胸に手を当てたけれど、ただ私が落ち着かないその事実を思い知るだけだった。
 口を開くのに酷く唇が震えた。顔を見たい――見たくない。相反する感情が私の心の中で暴れ回っている。
 
「あぁ、来てくれてありがとう。ルーナ」
「いえ……此処には何の用で?」
「君に夜会用のドレスを贈ろうと思ってね」
「はい!?ちょっと待ってください、っそんな高価なもの貰えないわ」
「君の怪我へのお詫びだと思ってくれ」
「私の怪我はディルック様の所為じゃ、」
「こうしないと気が済まないんだ。……協力してくれ」
 
 狡いわ。
 そう言われると、こちらも強く出られない。口を噤む私に、ディルック様は少し満足げだ。よく考えてみたらきっと私はディルック様のパートナーとして夜会に出席するのだろう。そうなれば、みすぼらしい姿で彼の隣に立つわけにはいかない。
 夜会に出る、となれば正式に婚約者として発表されるということに変わりない。本当に結婚するつもりがあるのだろうかと思っていたが、ちゃんとその気があったらしい。
 
「僕が君に似合うものを探そう。その間これを見ていてくれ」
「……これは?」
「気になる者がいるのなら声をかけてくれ」
 
 分厚い紙の束が手渡され、一番上の紙に視線を落とす。見目のいい男性の姿絵と、名前、経歴、家柄。所謂プロフィールのようなものが記載されている。それは一番上の紙だけではない。渡された紙の束の一枚一枚に、それぞれ別の男性のプロフィールが記載されていた。
 ――これは、一体どういう事なのだろう。
 これからディルック様と結婚を、というかラグヴィンド家の人間になるのなら覚えておかなければいけない人たちなのだろうか。それにしては男性しか書かれていない。
 説明を求めるようにドレスを見ているディルック様の横顔を見上げて、その頬に一筋ついた傷を見つけて固まってしまった。闇夜の英雄をしてついた傷だろうか。会わないうちに増えていた傷に、血の気が引くような感覚がした。
 
「ディルック様、その頬の傷は……?」
「あぁ……。これか。大したことはない。…………君には関係のないことだ」
 
 ――関係がない。
 胸が何かに刺されたように痛かった。
 少なくとも私は彼が闇夜の英雄の正体である事を知っているし、何より親が決めたとはいえ、正式な婚約者な筈だった。
 嫌な予感がする。先ほどまでとは確実に別の意味で心臓が激しく音を立てていた。床にしっかりと足をつけている筈なのに、少しでも足を動かせば倒れてしまいそうに歪んでいるような感覚。足に力を入れたその代わりに、おざなりになった手から紙の束が滑り落ちて床に散らばった。
 床に落としてしまったそれを、ディルック様は拾いもしなければ私を咎めるようなこともしなかった。ただ落ちたそれらを見下ろして、一向に私の顔を見ない。可笑しいと思っていたのだ。この店に入ってから、私は殆ど彼と目が合わなかったのだから。
 
「関係なら、あるでしょう……?私は、貴方の婚約者だった筈です。心配する権利くらいはあるわ」
 
 精一杯胸を張る。この嫌な予感を、勘違いだと笑って欲しかった。
 見据えるようにディルック様の前に立つ私に、ディルック様はようやく顔を此方に向ける。けれどもその目は、見たことがないくらい感情が抜け落ちたような冷たいものだった。
 足が竦む。目を、合わせて居られない。
 
「君との婚約は、取りやめにする。元々触れ回ってもいなかったものだ。最初からなかったことにしてしまえばいい」
「な、」
「……君は、僕では無くもっとまともな相手と結婚するべきだ。その相手は責任を持って僕が見つけよう。……君は何も心配しなくてもいい」
 
 息が苦しい。胸の奥が、刃物で突き刺されたみたいに痛かった。息を吸う度に喉にも何か刺さっている感覚がして、反論しようにも声が出ない。はくはくと浅い呼吸を繰り返して、滲む視界では赤い彼の髪しか認識することができなかった。どんな表情をしているのか、何も見えない。けれど見てしまったら、私はこの場で崩れ落ちそうだった。
 
「どうして、いきなり、」
「ずっと考えてはいたことだ。……決断が遅くなってしまってすまない」
 
 婚約者だと広めない理由は、私が萎縮しているからだと思っていた。萎縮してしまうだろう私を気遣ってくれていたのだとそう思っていた。
 違ったのだ。最初から、本当に、私と歩むつもりはなかったのだ。
 詳しい事情を知っている訳ではないけれど、一人で歩もうとする彼の背中を支えたかった。父親の面影を追っているだけだと最初から知っていたのに、いつしかそんなことを思っていた。
 私だって最初からこの婚約やその先にある結婚を望んでいたわけじゃない。けれど。――けれど。
 
「…………っ勝手だわ」
 
 絞り出してようやく言えた言葉は、それだけだった。
 驚いたように赤い瞳が見開かれて、私は気づけば店を飛び出していた。後ろから私を呼ぶ声が聞こえた気がしたけれど、立ち止まればもう立っている気力すらなくなってしまうだろう。転がり込むように家の中に駆け込んで、勢いよく扉を閉める。幸か不幸か、家の中には誰も居なかった。
 扉に背を預けて、滑り落ちるように床に座り込む。嗚咽が漏れてしまいそうで口に手を当てると、耐えていた筈なのにいつの間にか雫が頬を濡らしていた。拭っても拭っても溢れてきて際限がない。
 ふと、リサさんとしたあの日の会話を思い出す。あの時の、暢気にも何も知らなかった頃の私が酷く羨ましかった。こんなに胸が痛いのなら、私は知りたくなかった。何も知らず、ただ遠い存在としてディルック様を認識しているくらいがきっと幸せだったのだ。
 私はいつの間にか、期待をしていたのだ。
 
「……っ、勝手、だわ……」
 
 もう一度絞り出した声は、ひどい有様だった。震えて、嗚咽に混じって、きっと自分自身でなければ聞き取ることもできないくらいに。
 きっとディルック様は、いい意味で平凡で、優しい人を新たな結婚相手にと私に見つけてくれるのだろう。前を見据えて、一人で何でも解決しようと夜を歩く彼とは違う人を。
 涙が止まらない。
 ずっと考えていたのなら抱き締めてなんてくれなくてよかった。最初から彼と接点がないほうが幸せだった。
 何も知らずどういうものなのかしらと言っていた私はもういない。彼との結婚が愛のないものだと理解していた私も、消えてしまった。
 気づいてしまえば戻れない。

 ――私は、彼に恋をしている。



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