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 それは運命の手紙が届く、数ヶ月前の出来事である。
 

 「恋ってどんなのものかしら」
 
 お気に入りの少女ヴィーラの冒険の本を閉じ、私はふと頭に浮かんだ疑問を口にした。
 物語は佳境。作者は印税を使って旅に出たためこの続きを読むことは未だ出来ていないが、外の世界や果てしのない冒険を夢見ていた私にとって、小説の中の自由なヴィーラは私の理想と言っても過言では無かった。
 ヴィーラは本当は誰を愛しているのか。この本は主要人物四人の微妙な関係も面白さに拍車をかけているとは思っていたけれど、生憎と私には恋愛経験というものが乏しかった。三年前まで身体が弱く殆ど家にいることしか出来なかった私からしてみたら、恋愛なんていうものは冒険以上に空想の存在である。本に書かれている情報を読み取って登場人物達の気持ちを推し量ることはできても、実際に理解できているかと言えば答えはノーだろう。
 
「あら、気になる人でも出来たの?」
「いえ、そういう訳ではないんですけど」
 
 私の呟きを聞いていたのか、優雅にアフタヌーンティーを飲んでいたリサさんが嬉しそうに目を細めていた。そこにはからかうとかそういった素振りはなく、私の身体が弱かったことを知っているリサさんは、ただ単純に私が人並みのものに触れようとした時に喜んでくれていることを私はよく知っている。だからか私の否定の言葉に少し残念そうな顔をしながら、リサさんはソーサーにティーカップを置いて私が読んでいた本の表紙をするりと撫でた。
 
「わたくしも読んだことがあるけれど、これは四角関係になっていく話だったわね」
「四角関係?」
「ふふ、ルーナには少し早かったかしら。……でもいずれ、貴方も恋をしてあんまり図書館に顔を出してくれなくなったらと思うとそれはそれでお姉さん、寂しいわ」
 
 眉を下げるリサさんに、私は慌てて首を振る。
 本が好きな私にとって、ここの空間はとても居心地が良いのだ。大好きな本に囲まれながら大好きな本を読む。それは何があっても大切な時間だ。たとえリサさんが言うように大切な人が出来たとしても、私はきっと此処へ来ることは止められないだろう。――今はその、大切な人が出来る感覚なんてものもわからないのだけど。
 
「恋ってね。本当に人それぞれなのよ。雷が落ちるように衝撃的なものもあるし、穏やかに芽生えていつの間にか花のように育っていることもある。気づいた時には好きで好きで堪らなくなってるものもあるわ。……きっと貴方も、その時になったらわかる筈よ」
 
 滑らかな手が私の頭を撫でる。リサさんにそうされるのは少し照れくさいけれど、姉がいたらこんな感じなのかと胸の辺りが温かくなった。
 リサさんはそういった感情を誰かに抱いたことがあるということだろうか。もしもこの先私もそういう感情を抱く日が来るのだろうか。
 私が恋をして此処に来ることを疎かにするなんて想像がつかないけれど、もし本当にそうなったとしたら、恋をするのはもう少し先の話で良いかなんて私は暢気に考える。
 「闇夜の英雄」は確かに憧れだけれど、それはただ尊敬しているだけだ。多分恋とまではいっていないだろう――なんて思いながら。
  
 けれど、ねぇリサさん。恋をする前に婚約者がいることがわかったのなら――私はどうするべきなのかしら。



***



 今日も今日とて、アカツキワイナリーと提携した事によって実家の仕事の方は有り難いことに忙しかった。
 先日の――ディルック様がずっと憧れていた闇夜の英雄だったという一件は、本人に告げたように私の胸にだけ留めている。憧れていた人が実は婚約者だったなんて、事実は小説より奇なりということを初めて体感したような気がする。だからといって何かディルック様との関係が変わったりするわけではないだろうが、これからの未来のことを考えれば尊敬を持って夫となる人と人生を歩めるのなら、それはそれで誇らしいことかもしれない。
 少しゲンキンかもしれないが、ディルック様の事を少しでも知ることが出来てよかったと思う。少し前まではどういう心持ちでいたらいいかすらわからなかったのだから、これは進歩だと言えるだろう。
 ディルック様がこのモンドに帰ってくる前にリサさんとした会話を何となく思い出しながら、私は清泉町へとアカツキワイナリーのお酒を届ける為に運搬用の気球を起動した。困ったことに運搬用の気球を起動すれば魔物の目に付くらしく、よく荷物を狙って襲われるのだ。だから基本的に運搬用の気球を使う時は、騎士団か冒険者協会に依頼を出して護衛して貰わなければいけない。お金はかかるけれど荷物が台無しになってしまうよりは余っ程マシだろう。今日は騎士団に申請したら来てくれたガイアさんと共に、清泉町に向けて出発した。
 流石は騎士団の騎兵隊長といったところだろうか。溢れるように湧き出てくるヒルチャールを、「凍れ」という言葉と共に放った線状の氷の刃が消し飛ばした。軽やかにステップを踏むような足取りで片手剣を振り、慣れたようにヒルチャールを倒していく様はとても心強い。先日見たディルック様の戦闘は――ちょっとしか見れなかったけど――両手剣を振る豪快な戦い方にも感じたから、ガイアさんはそれとは正反対の戦い方なようにも見える。
 
「護衛、ありがとうございました。助かったわ」
「あぁ、構わないさ。市民を守るのが騎士団の仕事だ。……それに、酒が台無しになるなんてとんだ悪夢だろう?」
 
 殆ど損害もなく清泉町に付き、お礼をとガイアさんに近づく。どこか怪我はないだろうかと思ったが、私のその心配は余計なお世話だったようだ。特に何も、かすり傷ひとつすらないようだった。
 アカツキワイナリーのお酒は、お酒をこよなく愛するモンドの人間にとって生きがいに近いものだ。届けられたお酒に集まる清泉町の人たちを見ながら、ガイアさんの言うことは成る程正しい、と頷く。
 
「本当なら、騎士団の俺じゃなくてディルックの旦那が護衛に付くべきだったんじゃないか?」
「だってディルック様は忙し……ってなんで?態々一介の配送業者の為に来てくれる人じゃないでしょう?」
 
 一瞬どきりとした。
 ディルック様と婚約者になったことを黙っていろと言われた訳でない。そういう訳ではないけれど、ディルック様は別段それを広めようとも思っていないようだった。街の人気者であるディルック様とそういう関係なのだと知られたら大変なことになるに決まっていて、もしかしたら、私のそういう心配をディルック様は汲んでくれていたのかもしれない。
 
「ふぅん、なるほど。あくまでディルックの旦那とは何も関係がないと?」
「あ……当たり前、でしょ。私の家のことはガイアさんも知っていると思ったけれど。釣り合いが取れるわけないでしょ。私と……ディルック様が」
「勿論知っているさ。だが最近妙にディルックの旦那に近しい女性がいるって噂になってるんだぜ?気になるのも当然だろ」
 
 それは初耳だ。ぎょっとしてガイアさんの顔を見ると意味深に笑みを浮かべられる。最初から知っていて、それで鎌を掛けられたのだろうか。彼とお酒を飲むと喋る気がなかったことまで喋らされてしまうなんて噂があるけれど、お酒が無くてもこの通りらしい。値踏みするように細められる目はなんだか全てを見透かされてしまいそうで少し恐ろしい。
 目を合わせて居られずに下を向くと、ガイアさんは肩を竦めるように笑った。
 
「まぁ、提携を結んだのなら一緒にいることも有り得るだろうな」
「……そう!そうなの」
「そういうことにしておくが、ここからは真面目に忠告だ。ああ見えてあの旦那は方々に恨みを買ってる。そんな時に仲が良い女が居るなんて噂が出回ったら……わかるよな?」
 
 思わずごくりと唾を飲み込む。噂ではファデュイに好ましくない人物と言われていたりするらしいし、闇夜の英雄――本人はそう呼ばないでくれと言っていたけれど――なんてしているのだ。正体が割れている可能性は低いとはいえ、その他にも恨みを買っていてもおかしくはないだろう。
 ディルック様は元々私を望んで婚約者にしたわけではないから、彼の弱点になるような女じゃない。しかし何もそういうことを知らないで噂だけを耳にしたとしたら、彼に恨みを持った者はどう考えるだろうか。
 ましてや、彼は正義感が強い人だ。
 たとえ弱点にはならずとも危機に見舞われた私を見捨てるような人じゃないことは少し接しただけでもわかることだ。
 
「俺は別の仕事があるからこのまま帰るが……なるべく明るい時に誰かと帰ることをお勧めするぜ、ルーナ」
「……えぇ、そうする。ありがとう」
 
 ひらひらと手を振りながら去って行くガイアさんに頭を下げてから、荷解きに手をつける。正直あの人が何処まで私とディルック様のことを知っているのかは気になったけれど、彼の忠告は紛れもなく本当の事だ。気をつけないとと思いながら、私は作業に取りかかった。のだが。
 
 ――やってしまった。

 時刻は夜の8時を回った所であり、辺りもすっかり暗くなっている。あれだけ忠告されたから気をつけなくちゃ、なんて思っていたのに荷解きに思ったより時間が掛かった上、清泉町の料理人であるブロックさんに夕飯を食べていったら?と誘われてしまって断れなかったのだ。断れなかったのは予約が多くてなかなか食べられないブロックさんの料理に釣られてしまったとか、そういうことではない。……ではないと思いたい。
 狩人が住まう町である清泉町の住人はモンド城内の住人と負けず劣らず酒が好きで気の良い人も多い。そういう人たちにもう少し、もう少しと好意を持って引き留められているうちに夜になってしまったのである。
 お酒が届いたからと宴会が始まった清泉町の狩人たちは随分と酔いが回っているように思える。誰かにお願いして護衛を頼もうかと思っていたが、流石に酔っ払っている人に頼むのも気が引ける。そうなればつまりもう、自分の危機管理能力の低さに呆れ返るくらいしか私にはできないようだった。どんなに言い訳を並べても、夜になってしまった以上どうしようもない。
 唯一の幸いと言えば、清泉町はそうモンドの城内から離れている訳ではない。このくらいの距離ならば急いで帰れば何とかなるだろう。
 なんて。そう考えた私が浅はかだった。
 清泉町を出て数分。急ぎ足で帰路を歩く私の背後から、何人かの足音が聞こえた。最初は清泉町の人がついてきてくれたのかな、なんて考えていたけれど、私が足を止めて振り返ればそこには誰もいない。ただ静寂と暗い空間だけが広がっているだけだ。気のせいだと思っても私が歩けば足音がついてくるし、止まれば足音が止む。どう考えても異常だと言えるだろう。
 最近の私は、気が遠くなるくらいにツイてない。
 城内までは本当にあともう少しだ。城内に入ってしまえば騎士団がいるだろう。つい先日も似たようなことを思ったような気がするが背に腹はかえられない。逃げ切る自信はないがこの距離なら。
 そう思って意を決して走り出した瞬間、目の前で赤色の瓶が弾けた。
 足下が燃えている。びりりとする痛みが左足に走って、気づけば私は倒れ込んでいた。男の人の低い笑い声が周りで聞こえて、土を踏む複数の足音が私を取り囲んでいる。
 ガイアさんに忠告された通りだった。軽率な行動を取ってしまった自分をとにかく恥じるしかない。先日のあの夜だってそうだ。大丈夫だと高を括って、結局ディルック様に助けられなければ命を落としていた。冒険を夢見ていたところで、私にはあの小説の、ヴィーラのような幸運も力も無い。
 
「判決を、下す!」
 
 赤い赤い炎の鳥が、暗い夜道を照らしながら男達を巻き込んで羽ばたいた。炎に巻かれた男達は数メートル先まで吹き飛び、倒れ込む私に黒い影が目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
 その赤い輝きに、私は覚えがあった。彼の顔を見るだけで泣きそうになってしまうくらいに、ひどく安心してしまう。元はといえば私の危機管理能力が低いのが悪いのに。また、彼に助けられてしまった。
 
「大丈夫か!?ルーナ!」
「ディルック、さま」
「此処に居てくれ、直ぐに済む」
 
 あの火の鳥は、ディルック様が出したものだったらしい。私がそれを理解するより早く、ディルック様は宝盗団と思わしき男達の方へ走っていってしまっていた。炎を纏うその剣捌きは身の丈ほどもある両手剣であるにも関わらず素早く、増援なのか更に奥から駆けつけている宝盗団も圧倒している。暗い夜道に浮かぶ赤い炎の一線はまさに黎明のようだ。
 ディルック様は闇夜の英雄なんて語られているけれど、彼の繰り出す炎は赤く強い光を放って――闇夜を照らす、黎明の英雄だという表現の方が正しいのではないかと思う。その輝きは闇夜だからこそ強く鮮烈に輝くけれど、きっと陽の光の下でだって損なわれるものではない。
 その輝きに目を奪われていると、少し離れた木の陰に、ボウガンを構えた一人の男の姿が見えた。
 ――あの人も、宝盗団?
 静かに狙いをすましているその先は、明らかにディルック様だろう。ディルック様に声を掛けようと口を開きかけたけれど、今ディルック様は何人もの宝盗団を相手にしている。私が声を掛けて気が散ってしまったら、一気に戦況が変わってしまうことも有り得るのではないかと思ってしまったのだ。
 男の弓を引いた弦は伸びきっている。もう手を離したらディルック様に当たってしまうだろう。
 男のところへは間に合わない。けれど、ディルック様へ向かうその矢の射線へは、きっと間に合う。
 右足に力を入れて立ち上がった。火炎瓶に当たって火傷した左足が少し傷むけれど、それどころじゃ無い。あの矢が放たれたら、間違いなくディルック様が怪我を負ってしまう。
 何故かわからないけど痛烈に、それだけは嫌だった。
 私はどうしようもないほど、彼に無事で居て欲しかったのだ。
 男の手から矢が離れたのが見える。自分がこんなに早く走れたのかと笑ってしまうくらいに、そのときの私は妙に全てがゆっくりに思えた。流石に正面から受ける度胸は無くて背中を向けると、刺さったのが本当にあの細い矢かと疑わしい程にどす、と強い衝撃があった。
 何気なく当たり前のように騎士団や冒険者を頼っていたけれど、こんな細い矢が刺さっただけで酷くいたくて。改めて感謝しなくちゃいけないなと妙に冷静になった頭で間違いなく場違いな考えを抱く。
 
「っぅ、」
 
 もっと大きな声を出してしまうかと思っていたけれど、人間は強すぎる衝撃だと声すら碌に出ないらしい。
 未だきちんと立っているディルック様を見る。数人の宝盗団を吹き飛ばしながら私の方へ向かってくるディルック様に怪我はないようだった。
 ――良かった、私、ちゃんと間に合ったんだ。
 
「ルーナ!」
 
 振り返ったディルック様の、驚いたように見開かれた赤い瞳が目に入る。黒い手が此方に伸びて、その手を掴もうにも指先一つ動かせない。その手だけに視線を向けたままゆっくりと身体が倒れていく。
 薄れていく意識の中で、暗闇の中で揺らめいていた炎がより燃え上がった瞬間が私の目に焼き付いた。



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