不器用なぼくら

 ディルック様に避けられている。
 別にあからさまに、とかそういう訳ではない。けれどあの日まであんなに触れてくれていたのに遠慮するように私と接触するのすら避けているように思える。
 ディルック様にキスをされて、それから引き剥がされて――あの衝撃的な出来事から一週間ほどの日が過ぎていた。あれからもう一度会った瞬間にまた謝られたし私も気にしていないのだとディルック様に告げたけれど、これは多分、いや間違いなく。ディルック様はもの凄く気にしているのではなかろうか。
 西風騎士団の図書館から借りた本を返すために、私はまた上へと続く階段を上って建物の中に入る。此処でディルック様とばったり会うことはありえないだろう。だからなんというか。ディルック様に知られずリサさんに相談ができるという意味でここは何より絶好の場所である。
 警備をしているワイラットに会釈をして扉を開けると、いつものようにリサさんが紅茶を楽しんでいるようだった。
 
「こんにちは」
「あらルーナ、その本読み終わったの?」
 
 そう問いかけるリサさんの目は楽しそうに緩められて興味津々であることがわかる。確かに何とか――途中で止めたりしたけれど――読み終えた。読み終えたけれども、私は今そんな状況にないのだ。
 
「読みました、けど」
「けど?」
「こんな風にうまくいきません……」
「あら……?」
 
 本を抱え込んだまま俯く私に、リサさんは直ぐ何かあったことに気づいたらしい。ティーカップをソーサーに置くと、腰掛けていた椅子から立ち上がった。
 私がもしもリサさんみたいに経験豊富だったとしたら、今みたいなことにはなっていなかったのだろうか。それともディルック様から触れてくれることを期待しすぎるあまりにはしたないと思われてしまったのだろうか。結局私がこの本のように上手くやれる訳はなく、現実に振り回されるばかりだ。
 
「また喧嘩でもしたの?」
「そういう訳では、」
 
 ただ、ディルック様がどう考えているのがわからないのだ。私を引き剥がすまでは少し強引さを含むキスに驚いたりした。けれどやっぱり、私は嬉しかったのだ。ディルック様はいつも紳士で優しいから――私にもそういう欲めいた感情を抱いてくれる時があるのだ、と。自分に魅力が足りないのではと思っていたから余計に。
 ぽつぽつとリサさんに独白のように零す私に、リサさんはただ見守るような優しい笑みを浮かべて静かに相槌を打っては細くしなやかな指を顎に当てると、少し考えてから眉を下げた。
 
「それはディルック様も同じなんじゃないかしら」
「え……?」
「ディルック様も貴女がどう思っているのかわからないから……きっと気を遣っているんだと思うわ」
 
 貴女は、ちゃんとディルック様に気持ちを伝えているの?
 リサさんにそう聞かれてはっとする。確かに、私はディルック様に改めて結婚を申し込まれた時に頷いた。けれど直接ディルック様に私の気持ちを伝えたかとそう問われるとそれは否だ。むしろ私から触れたりすることもしなかった分、ディルック様からはわかりずらかっただろう。
 何もしていないにも関わらず勝手に私の気持ちは伝わっていると思っていた。ディルック様から与えられるものに喜ぶばかりで、私は。
 
「リサさん、本ありがとうございました」
「ふふ、本が無くてもいつでも来ていいのよ」
「……はい」
 
 急いで返却の手続きを済ませて騎士団を出る。
 あの時とは明らかに状況は違うけれど、すれ違ってもディルック様は私を追いかけてくれた。諦めないでくれた。
 今度は、私の番だ。





 エンジェルズシェアは今日も賑わいを見せている。暗くなってから酒好きのモンド人が集まり、酒が名物であるこのモンドを訪れた他国の客人も、アカツキワイナリーの酒が飲めるエンジェルズシェアに足を運ぶのだ。
 けれど今日、ディルック様はバーテンダーとして立たないらしい。
 店の中に入ってディルック様の事を聞いたけれどチャールズさんは今日来る予定は無いんだ、と肩を竦めてしまった。困った事に、私もまたディルック様がここに居ないとなるとその所在を知る術がない。また外で「闇夜の英雄」の活動でもしているのだろうか。それとも、ワイナリーのオーナーとしての仕事をしているのだろうか。ディルック様から会いに来てくれない限り私からディルック様に会えないことに愕然としてしまった。
 ――私、ディルック様に甘えすぎていたんだわ。
 今更気づいても遅いけれど、わかっていたような気持ちになってわかっていなかった。身分の違いは勿論、ディルック様がどれだけ私の方へ合わせてくれていたのかを。
 色々な人に聞き込みをしたけれど、闇夜の英雄をしているディルック様がその情報を他人に流す訳がない。以前助けて貰った裏口の方へ向かうと今日もゲイルが暇そうに監視しているようだった。あまり近くに居すぎては疑問を抱かれるだろうから、エンジェルズシェアの方へと上って彼が帰ってくるだろうその機会を大人しく待つ。ディルック様が今日此処を通る確証がある訳ではない。――ただ、どうしても私が会いたいだけで。
 じっと裏口から誰かが来ないかと見つめていたが、一時間程経った頃だろうか。ゲイルが動いた。騎士団の方へ歩いているところを見るとそろそろ交代の時間だろうか。大きな欠伸をしながら歩いて行くゲイルを横目に見ていると、裏口に赤い頭を見つけて慌てて立ち上がった。どうやら、ディルック様はこうして西風騎士団の交代時間を把握して人目を避けていたらしい。
 エンジェルズシェアの方へ足を向けるディルック様は、未だ私の事には気づいていない。階段の上に移動する私に、階段を上ろうと顔を上げたディルック様は予想外だとでも言うように目を丸くしていた。
 
「ルーナ……?」
「お帰りなさい、ディルック様」
 
 人のいなくなったこの場で、二人の声だけが響く。夜の涼やかな風がディルック様の髪を揺らして、燃える炎のようなその髪すら愛おしいと思う。
 私を見るなり階段を上る足を速めたディルック様が一段下で止まった。上の段にいることによっていつもと違って私の方が目線が上になっていて、上から見下ろすディルック様なんてあの改めてプロポーズをしてくれた日以来だ。何だか新鮮で、話すことがあるにも関わらずまじまじと見てしまう。
 見たところひとつも怪我がないようでホッと息を吐くと、ディルック様の手が私の手に触れた。
 
「こんな夜更けにどうしたんだ、危ないだろう」
「ディルック様を待っていたんです」
「僕を……?」
「ただ……会い、たくて、」
 
 肝心なところなのに急に恥ずかしくなる。顔が熱くなって俯いても、一段下にいるディルック様には丸見えだろう。けれど私はディルック様にちゃんと告げると決めたのだ。こんなことで恥ずかしがっていられない。
 
「会いたい、」
 
 彼はぽつりと戸惑ったように呟いて、私の頬に手を伸ばした。けれどそれは私に触れる前にどうしていいのかわからないとでもいうように宙に彷徨ってやがて下ろされる。言ってもいいものかはわからないけれど、私も――そしてディルック様も、困ってしまうほどに恋というモノが下手なのだ。
 下ろしてしまったディルック様の手を取る。彼はそれに驚いたようでびくりと肩を揺らして、それでも私はそのまま自分の頬へとディルック様の手のひらを押し当てた。
 
「触れてください」
「ルーナ、」
「……嬉しい、ので」
 
 静かな空間に、息を飲む音が響いた。数秒経ったけれど未だ驚いて元々丸くて大きな瞳が更に丸くなっているその顔を、男性に対して使うのは失礼かもしれないが可愛いと思う。ディルック様はそのまま私が支えなくても私の頬に触れて、近かった距離を更に縮める。唇が触れそうな程に顔が近づいて、恥ずかしいけれど目を逸らすのは勿体ない気がして見つめ返す。彼の瞳は彼の持つ炎の神の目のように輝いて、その瞳に映る私はどうしようもなく情けない顔をしていた。
 
「僕の都合のいいように受け取ってもいいのかい?」
「都合のいいようにって、どんな風に?」
「…………君も僕の事を好いてくれているのかと」
「その通り、ですから」
 
 お互いの気持ちを探り合うように、距離を詰める。額がこつんと私の額に触れて、こんな至近距離でディルック様の顔をまじまじと見ることなんてなかった私は今すぐにでも顔から湯気が出てしまいそうだ。それでもこのままではいけない。私は今度こそ、ディルック様に言わなくてはならないのだ。
 
「ディルック様、」
「ん……?」
「私は貴方が思っているよりずっと、……ディルック様のことが好きです」
 
 唇が触れてしまいそうな距離で、ディルック様がぴたりと静止した。また瞳を真ん丸にして、それから目の前で大きく揺れる。動揺しているのだろうか。大きく息を吐き出したディルック様は、そのまま私に手を伸ばすと私の後頭部と腰に手をかけて引き寄せた。
 細身ではあるけれど、しっかり鍛えられたその腕の中にいるだけできゅん、と心臓が音を立てたのが分かった。ぎゅうぎゅうと力が込められる腕はいつもよりきついもので、その事すら嬉しい。
 
「だから、ディルック様に触れられるのは嬉しいんです。……気を遣わなくて大丈夫ですから、もっと」
「ルーナ。……それ以上は僕も止まれなくなってしまう」
 
 必死にどれだけ嬉しいのか、私がどう思っているのかを伝えようとしたけれど、途中でディルック様の手のひらに口を塞がれる。心なしかほんのりディルック様の顔が赤くて、そんな彼の反応が嬉しくて。塞がれた手をそっと外して「触れて欲しいのですが」と口にすると、今度はそのまま唇で塞がれてしまった。
 あの時よりも今度はもっと優しいキスだった。小さなリップ音に肩を揺らす私に口を開けろとでも言うように唇の隙間に舌が差し込まれる。ゆっくりと口を開けて絡むそれはひどく熱くて、頭が沸騰してしまいそうだ。
 根元から舌先で擦り上げて、上顎にも擽るように舌先が掠める。膝に力が入らなくなってずり落ちそうになった私をディルック様がしっかりと抱え直して、私の舌がちゅうと吸われてしまった。
 全身がふわふわとしている感覚。手も足も上手く力が入らなくてディルック様を見つめると、ディルック様はそのまま私の膝裏に腕を添えて抱き上げた。
 
「ひゃ!?」
「ルーナ」
「はい……っ!?」
「今日は帰せない」
 
 迷いのない足取りで進んでいくディルック様の首の後ろに手を回して、あまりの恥ずかしさに黙り込んだ。ディルック様もそのまま何も語ることは無く、でも私を抱き上げる手は離すまいとでも言うようにやっぱり力強い。少し前までだったら、私に良いだろうかと許可を取っていただろう。それがないことにディルック様の意志を感じて嬉しくなってしまう。
 恥ずかしいけれど、――それでも。私もこの手を離そうとは思わない。
 

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