ヒーローはいない



 その時、私は前線にいた。
 下っ端の私は勿論鉄砲玉扱いで、死に物狂いで突撃してくる海賊たちを迎撃する役目――ううん、白ひげ海賊団なんて伝説の扱いだ。その首を討ち取れと言われても、お上は私たちなんかが出来るなんて微塵も思ってないだろう。だから、私たちは本当の意味での捨て駒みたいなものであった。
 大将赤犬がエースを討ち取って、殿を務めたらしい白ひげも立ったままその伝説たる生涯を遂げ、最早戦意喪失した海賊たちに海軍は興奮状態のまま攻撃を止めない。どっちが正義か悪か判別がつかないその戦場は、地獄と呼ぶにふさわしかっただろう。
 怒号が飛び交う。逃げ惑う海賊たちを、海軍が執拗に追いかけ回す。
 運良く生き延びた私は、倒れ伏す仲間たちの身体に身を潜めて、両手を固く握りながらこの戦いが終わることを祈るしか無かった。敵の総大将も、処刑されるはずだった海賊王の息子ももう息を引き取っている。それなのに戦争は終わらない。
 ――もう嫌だ、と思った。
 大将赤犬が私の近くに降り立って、拳を振るう。赤く熱い衝撃が熱波として広がり、隠れている私の頬をじりじりと焼いた。
 ああ、私はあのマグマに飲み込まれてここで死ぬのだろう。
 短い人生がやるせなくて、苦しくて、悔しくて、奥歯を噛み締めても私が大将の前に出ていったところで敵う筈もない。一瞬で迫る死の気配に身を固くした時、その影は大将赤犬の前に立ちはだかった。
 泣きながら、「命がもったいない」と叫んだその姿を私は今でも昨日のように思い出せる。あの大将赤犬の前で抗議するその言葉の一言一句を、私は違えることなく覚えていた。
 彼は泣いていたけれど、大将の前に武器も持たずに飛び出したその勇気と優しさは、あの場にいた誰よりもあったに違いない。
 彼が大将赤犬の前に立たなかったら、赤髪のシャンクスが現れる一瞬がなかったら。私は間違いなく死んでいただろう。

 その瞬間、私の命の恩人であり、そして誰より優しい彼──絶対に出世するだろうコビー曹長の部下になって支えることが私の目標になったのだ。


***


 それから、2年の月日が経った。
 あの頂上決戦から戻ってこられた私がまず行ったのは当然ながら身体を鍛えること、強くなることだ。功績を挙げてある程度階級を上げなくては異動を希望しても通らない。私が予想した通り、大将赤犬――今や元帥になったサカズキに反発したというのに、あのコビー曹長は驚くべきスピードで昇進して、まだ十八という若い年齢であるというのに大佐に就任していた。
 流石だな、と彼の昇進を聞く度に心の中で喜んでいた私も、1年前に異動が叶い大佐となった彼の部下として働いている。
 その時の喜びといったらこれ以上ないもので。彼にとっては初対面だろうに興奮して憧れなんですと迫ってしまった私は彼にも、そして当時から直属の部下であったヘルメッポ少佐にも呆れられていたのをよく覚えている。――恥ずかしいのでもう忘れてしまいたいけれど、それは今でもヘルメッポ少佐に弄られる事象と化しているのは諦めるしかないのだろうか。
 ロッキーポート事件を経て一躍英雄と呼ばれるほどに民衆をも味方につけた彼は、その人気も見込まれて任務を振られることが多い。海賊に支配されている島の救援とか、後ろ向きになっている住民への説得は彼が出向くだけで話が早いからだ。だから彼の仕事量は必然的に事務仕事も含めて徐々に多くなっている。

「コビー大佐、書類にサインお願いします」
「ん……、あぁ、わかりました」

 大佐に宛てがわれた執務室にいる時のコビー大佐はたまに眠そうにしている。激務なのだから少しくらい昼寝しても咎められないだろうに、真面目な彼は仕事に一切手を抜かない。ミルクと砂糖をたっぷり入れた彼用のコーヒーをついでに机に置くと、彼は嬉しそうに「ありがとう」と私にお礼を口にした。

「仮眠でも取ったらどうですか、大佐。3時間後には任務で出航するんでしょう」
「いえ、そうすると書類の締切が……」

 眠そうにしながらもその手は動き続けている。どれだけ疲れていても当然のようにこうして働く姿はまさし く英雄の何ふさわしいだろうけれど、その名に少しの寂しさを覚える時もある。
 だってロッキーポート事件がなくとも、私の中で彼は既に英雄だった。自覚は無いかもしれないが頂上決戦のあの瞬間、彼のおかげで命を拾った人間がどれほど居ただろうか。ボロ雑巾のように使い捨てにされる私たちの気持ちを汲んでくれたのは、あの時彼しかいなかったのだ。私はもう英雄だって知ってたのに、大きな事件があったからと急に持て囃されて――わかっている、これはつまらない嫉妬のようなものだ。複雑な気持ちになっていることを隠すように唇を引き結ぶと、いつの間にか一段落ついたのかコビー大佐がペンを置いて私の持ってきた甘いコーヒーを啜っていた。

「コビー大佐」
「なんですか?」
「最近上は大佐に仕事を振りすぎです!いくら大佐が凄くてかっこいい英雄でも限度があります!」
「ごほっ……、!?ちょ、ちょっと待ってください」
「私ちょっと上に掛け合ってきます!」
「待ってくださいってば!」

 驚いたのか咳き込んだコビー大佐は勢いよく執務室から飛び出そうとした私の手首を掴む。私がどれだけ鍛えていようと、普段どれだけコビー大佐が人好きのする優しい顔をしていようと、そこには男女の明確な差があった。手首を掴まれた反動で後ろに倒れそうになった私をコビー大佐が抱き留める。背中に服越しでも感じる引き締まった胸板が、妙に私の胸を騒がせた。

「あなたの気遣いは嬉しいですが僕はもっと頑張らないと」
「え……」
「僕の夢は"大将"なので」

 大将。そこらの海兵が口にするのなら仲間や上司に無理だと笑い飛ばされるくらいの夢だろうけれど、コビー大佐が口にするのなら現実味のある夢だった。この人は一体どれだけ速く突き進んでいくのだろう。その背中に食らいついていくにはとてつもなく大変な気がするけれど、私の"英雄"の為なら頑張れるだろう。

「なら私もずっと部下でいれるように頑張らないといけないですね」
「……笑わないんですか?」
「コビー大佐ならなれると思うので」
「…………」

 瞬く間にその若さで大佐に上り詰めた彼はこれから先も快進撃を続けるだろう。もしかしたら最年少大将も夢じゃないかもしれない。

「民衆の英雄ですし、きっとすぐです。勿論私もコビー大佐のことは英雄だと思ってますが、」
「それ、やめませんか」
「え……?」

 不意に低い声色が落ちた。私より背の高いコビー大佐に覆いかぶさるように後ろから腕が回されて身動きが取れない。油断していた、というか元から私はコビー大佐のことを信頼しきっていたから、いつもと違うコビー大佐の様子にぞくりとした恐怖というには甘い何かが胸の中に広がっている。私はこんなに小さかったか――それともコビー大佐が思ったより私より大きいのか。判別がつかないまま、私は息を飲んだ。

「あなたが、……あなたが僕を聖人のように扱うのはやめてください。英雄だなんて言って勝手に距離を開けるのはやめてください」

ぎゅう、と腕の力が強くなる。呼吸の仕方を忘れたみたいに私の時間が止まった。

「ちゃんと、僕を見てくれませんか」

 ぐるりと私の身体を自分の方に向けたコビー大佐は、確かに英雄とは言い難い、――ひとりの男の人の顔で私を見下ろしていた。


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