鎹鴉の憂鬱
「指令ジャ指令ジャ……!」
「きゃっ」

 早朝。なまえが朝食の配膳準備をしていると、唐突な気配が飛び込んできた。開け放たれた玄関から入ってきたのは、義勇の鎹鴉の寛三郎であった。何やら切羽詰まっている様子で、寛三郎はなまえの周囲を飛び回っている。

「義勇ヨ、指令ジャ……」

 なまえは急なことに驚いて肩を縮こまらせながら様子を見た。隊士には鎹鴉という連絡用の鴉が専属でつくというのは知識として聞いていたが、生まれて初めて人語を話す鴉を目にし、しかもこれが唐突で勢いが良かった為、彼女の心臓はばくばくと音を立てていた。

「冨岡様は、只今お身体の汚れを落とされておりますが……」

 何やら義勇へ用事を申し伝えたいようなので、なまえは恐る恐る話しかけてみた。

「富雄デハナイ、義勇ジャ」
「とみお……?あっ、はい、あの、義勇様が入浴中なのです」

 鴉が冨岡というとピンと来ていない様子だったので、急ぎなまえは言い直す。しかしそれでも寛三郎にはよく伝わらなかった。

「義勇ナノカ?」
「はいっ、義勇様です」
「少シ身体ガコケタナ。デハ南西ノ町ヘムカエ」
「はい!?」

 寛三郎は高齢の為、やや理解に行き違う部分がある。屋敷の中にたった一人でおり、名前を発したなまえを義勇と勘違いした寛三郎は、柔らかに彼女の肩へ着地した。
 話が通じない上、至近距離におさまった鴉の重みと生きた質感に、なまえはますます困惑する。

「わっ私は義勇様ではございません! 義勇様はお風呂です」
「風呂カ」
「お身体の汚れを落とされております」
「義勇ハ身体ヲ落トシタノカ!」
「いっいえ、汚れを、落とされて、おります!」

 なまえは実際の老人に語るようにはっきり、ゆっくりと話した。

 突っつかれるのではないかと危惧した嘴は、近くで見ると先端が滑らかに丸くなっており、毛並みもふわふわと美しい。自身の肩にかかっている趾は尖った見た目に反して決して痛くはなく、義勇を心配する口ぶりから、なまえはこの鴉が攻撃的でないことを感じ取る。胸を抑え、深呼吸し、改めてなまえは寛三郎と目を合わせた。

「義勇ハ無事カ?」
「はい、ご無事です!」
「ソウカ。デハ向カウゾ」
「んっ!? いえ、私は義勇様ではないのですっ!」
「ドウシタ……」

 寛三郎は、義勇の家にいるのに義勇ではないと言われ混乱していた。今まで長いこと、義勇の居所には義勇しかいないのが当たり前であったから、無理もなかった。
 「義勇」という単語に反応してしまうので、なまえは「えっと、私は……」と必死に言い回しを考える。そうこうしているうちに、ガタガタと扉の開く音がして脱衣所から義勇が顔を出した。
 二人……もとい一人と一羽のやりとりが聞こえていたらしく、急いだ義勇は隊服の下だけを履き、上半身にはタオルを羽織った状態だ。癖の強い髪はほどかれ、まだ湿っている。

「寛三郎、俺はここだ」
「オオ! 義勇!」

 主の出現に喜んだ寛三郎は声を上げたが、今度は不思議そうになまえを振り返る。

「デハコレハ誰ダ」
「屋敷の管理を任せている。名前は……」

 そこまですらすらと説明して、義勇は急に口ごもった。彼女の存在と顔は覚えたが、そういえば初日に名乗られて以降、必要最低限の会話しか交わしたことがないので、義勇ははっきりと彼女の名前を記憶していなかった。
 その様子に気が付いたなまえが、慌てて自身で名乗った。

「わ、私はみょうじなまえと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「みょうじなまえ……」

 にわかに沈黙が流れる。寛三郎が状況を理解するのに時間がかかることは義勇もなまえも承知で、そのまま待った。

「ヨシ!なまえ、行クゾ」
「えっっ」

 寛三郎はなまえのことを覚えてくれたが、そこにまた齟齬が生じている。

「寛三郎、彼女は隊士ではない」
「大志デハナイ。知ッテイル。なまえデアロウ。サア、行クゾ」
「彼女は行かない……」
「彼女ハイカナイ……なまえハ行クカ……」
「なまえは行かない。寛三郎、支度をするから来い」

 そこまで言ってやっと、寛三郎は合点がいったらしい。なまえの肩から飛び立つと、寛三郎は義勇の羽織を探しに脱衣所へ進んだ。

「すまない」

 ふぅ、と小さくため息をついた義勇はそう言うと、「あっ、いえ!」と返事するなまえの声を背に、再び脱衣所へと消えた。


 なまえはしばし、そのままぼけっと立っていた。
 タオルの隙間から見えた身体の筋肉、話している間中ぽたぽたと滴っていた髪の毛の雫。水柱から発せられた自分の名前。
 そのどれもがなまえには刺激が強かった。

 どきどきとする胸が落ち着くのを待っているうちに鍋から吹きこぼれる音がし、なまえは急いで仕事に戻った。

鎹鴉の憂鬱

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