チョコっと贈り物
 羽織を斬るくらいじゃ駄目。

 伊黒さんは下弦の鬼を容易く倒していた。かすり傷の一つも負っていなかった。
 だからそれを超えるには、血。あの人の身体に刃が届かなければ。血を流させるくらいじゃないと。

 精神を集中させる。
 無駄に大きく動かない。
 限界まで研ぎ澄ませて、心拍数を上げて。

「――――っっ!!」

 白と黒の縞模様の羽織が翻り、私の視界を覆う。直後に感じる足元への気配を察知。すんでのところで跳んで避け、後方へ宙返り。逆さまになった視界の中、床面に師範の足が見える。このまま顔を上げたら上半身を狙われる。身体を左斜めに逸らせて上半身への攻撃を避けつつ、右足で師範の足を狙いに行く。

 右足の蹴りはあえなく交わされるので、次は左足の踏み込みで肩の辺りを狙いに行く。肩の辺り、辺りはまずい。的が全然定まっていない。狙う場所は明確にすること。師範から何万回と言われている。

 頬。頬にしよう。あそこにかすり傷でもつけられたなら。

 風の抵抗と師範の視界を読んで。その隙間を縫うようにうねりを加えながら確実に――ッ!!

 木刀の先が空を斬り次の一手を考える間もなかった。空いた胴体を打ち付けられ、私は痛みに悶絶して膝をついた。でも止まっちゃ駄目。なんとか次の一手、と振り返った私の頬に、伊黒さんの木刀の先がひたりと当たった。

「今生意気にも顔を狙ったな?」
「狙ってないです。頬だけに的を絞りました」
「屁理屈はどうでもいい」

 伊黒さんがいつも言ってることなのに。と心の中で悪態をつきつつ、伊黒さんの右頬を狙った私が、伊黒さんに右頬を抑えられているという事態にひんやりする。
 この人は結局、私が顔をぼんやりと狙った訳ではないことまで正確に見抜いている。悔しい悔しい悔しい。

 お互いに少し離れてもう一度呼吸を整える。と思ったらすぐに伊黒さんが向かってくるので急いで避ける。呼吸が間に合わない。鬼はこちらの呼吸が整うのなんて待ってくれないからか。それもあるけど単純に伊黒さんの呼吸が整っているからもあるな。こんなに全力で向かっていっても師範は一呼吸も上がりはしない。

 どうにか頬。どうにか血。
 迫りくる太刀筋をこちらも正確に避けながら少しずつ自分の間合いにしていかねば。
 伊黒さんと背面の壁の距離が狭まっている。

 ――――いけっっ!!!

 今度こそ!!と力を込めた私は木刀を前へ突き出す。しかし突然目の前が一面の茶色、道場の壁にすり替わったので急激な速さで動きを制御した。すんでのところで壁へ激突するところだった。なんだ今の。伊黒さん避けたというよりどこかへ姿を消し――……

 妙に思って振り返った瞬間、がらがらと少し間の抜けた音で道場口の引き戸が開き、柔らかい声が響いた。

「こんにちは〜」
「やあ甘露寺」

 扉を開けたのは、可愛くて、その上優しくて、その上とてもお強い恋柱・甘露寺蜜璃様だった。桜色から若苗色に変化する素敵な御髪を下げ、今日も溌剌とした笑顔を輝かせていらっしゃる。

 それはいいとして。

 何が「やあ甘露寺」なのか。伊黒さんは、今までずっと扉の近くにいてたまたま遭遇したみたいな顔をして甘露寺様を出迎えている。呼吸に乱れがないから全く違和感がない。私の腑抜け。力不足。
 全くもって師範の足止めはおろか、疲労させることすら敵わずがっくりと頭を垂れる。ふと右頬に痛みを感じて手をやると、切れた頬から血が垂れていた。気が付かぬ間にやり返されていたことに気が付き、苦々しい気持ちが増すようである。

 しかし落ち込んではいられない。恋柱様が来ていらっしゃる。呼吸を整え、崩れた隊服の裾を直して、私は道場の入り口に向かって頭を下げた。

「あらっ! なまえちゃん!」

 私の動きに目を止めた甘露寺様が、にこにことこちらへ手を振ってくださる。思わず振り返したくなる気持ちを堪えて、再度会釈をした。

「なまえちゃんも、来て来て〜!」

 挙げた手でそのままおいでおいでしてくださる甘露寺様のお言葉に甘え、急ぎ道場口まで進む。近付いたら伊黒さんに怒られそうな気がしたけれど、甘露寺様のお声がけに応じなかったら、多分それはそれで怒る。甘露寺様のことになると、師範はより一層面倒くさい。

「これ、前に伊黒さんにお話ししたチョコレートを持ってきたの。甘くてすごく美味しいのよ。割って少しずつ食べられるし、少量でも糖分補給になるから、伊黒さんにも、あの、ぴったりかなって!」
「ありがとう。喜んでいただくよ」
「良かったらなまえちゃんも食べてみてね♪」
「わぁ〜! 私チョコレート、食べてみたかったんです! ありがとうございます!」
「なまえ」

 言った途端に伊黒さんからじろりとねめつけられ、「ひっ」と私は声を失う。

「あら、なまえちゃん、頬から血が出てるわよ?」

 甘露寺様が更にこちらへ気を留めてくださる。

「あっ、えっ、わぁ本当だ! いつやっちゃったんでしょう。ふ、拭いて、あとお茶でも淹れて参ります!」

 これ以上お二人の時間を邪魔すると、午後の稽古は頬が切れる程度では済まなくなりそうなので、私は空気を読みに読んでその場を抜けることにした。





 お茶の支度を終え、盆を持って廊下を進んでいると、庭先から「おい」と声を掛けられた。振り向けば、庭に植えられた松の木の上に横たわる伊黒さんが目に入った。

「あれ」
「甘露寺は調査があると帰った」

 淡々と事実を述べ、伊黒さんはいくつかの枝上を音もなく跳んで地面へ降りる。

「えっ! それは残念」
「お前如きが甘露寺の動向に意見するな」
「意見じゃありませんよ、感想を述べたまでです」
「いつ俺がお前に自由な感想を述べていいと言った」

 次は「自由な感想を述べた罪」かよ、と思いつつこれ以上口を開いたら危険なので押し黙ることにする。ちなみに自由な感想を述べた罪なんてものはない。全てはまとめて「イラつかせる罪」に入る。
 口ではそう言いつつ、睨みつけてこないので伊黒さんの機嫌は多少いい。甘露寺様の余韻のお陰である。

 伊黒さんは縁側へ腰掛ける。表情は見えないけれど、鏑丸が伊黒さんを労わるように優しくシャーと声を出したので、この方の心中は私の想像の通りと思われた。

「お茶、こちらで召し上がりますか?」
「ああ。お前も座れ」
「はい」

 縁側に盆を置き、伊黒さんの分のお茶を注ぐ。
 私がその作業をしている間、伊黒さんはずっと両膝に腕を乗せ項垂れていた。そんなに甘露寺様に後ろ髪ひかれているのか、と思いながら見ていると、「はぁー……」とおもむろに深いため息をついた伊黒さんが意を決したように顔を上げた。
 そして甘露寺様からいただいたチョコレートを、銀紙ごと小さく折ると、それをこちらへ差し出した。

「食え」
「えっ」

 なんと珍しい。甘露寺様からの頂き物を私に分け与えるなんて!
 もしかして、私が「食べてみたかった」なんて口にしたから、弟子の為に悩んで悩んで決死の大盤振る舞いを……?

「師範!」
「俺は師範じゃない」
「伊黒さん! ……い、いいんですか?」

 私がすぐに受け取らなかったので、伊黒さんは手元の小さな銀色を盆の上に置く。
 決死の大盤振る舞いの超小さなチョコレート……。

「勘違いするな。甘露寺がお前の感想を是非聞きたいというから味見させてやるだけだ」

 そう言われて合点がいった。そうだそうだ、伊黒さんが甘露寺様からの頂き物をそうそう人に渡すなど……。って、そう考えるととても小さい!味を見られるかギリギリの最低量かと思うほど小さいっ……!!

「な、なるほど。ではありがたく、いただきますっ!」
「いいか」

 放っておくと日光に溶け出してしまいそうなそれに手を出すと、すかさず伊黒さんは言った。

「甘露寺にすぐ感想の文を出せよ」
「はいっ」

 頷きつつ、チョコレートを口に運ぶ。
 不思議に濃い芳香が鼻や肺の奥まで届くようでとっても素敵な食味だ。

「わぁ〜〜〜美味しいです! こんなに小さくても、とっても濃厚なんですね!」
「五月蠅い。俺に言わなくていいから早くそれをしたためて送れ」
「はいはい承知しました。伊黒さんがとっても喜んでましたって入れておきます」
「おい」

 まずい。分かってて言ったけどやっぱり怒った。

「それは俺が送るからお前は余計なことをするな」

 そろそろ甘露寺様の余韻も抜けてきて、いい塩梅に苛立ってらっしゃる。
 鉄色と山吹色の双眼にじろりと睨まれ、毛が逆立つような感覚がする。まるでチョコレートを奪われたかのような恨みがましささえ感じる。
 鏑丸まで私に険しい表情を向けるので、これは良くないとすぐに方向を修正した。

「すみません違うんです、お優しい伊黒さんが快く分け与えてくださったって言おうとして間違えました」

 そこまで早口で言い切ると、途端に伊黒さんの気配が変わった。

「ああ、それならいい」


 こうして私は、甘露寺様への文をしたためるに至ったのである。

 「伊黒さんは貴女のことが大好きなんですよ〜」

 あんな小さいチョコレートで恩着せがましいったらありゃしない。伊黒さんに腹を立てていた私は、師範の秘密になっていない秘密をばらしてやりたい気分だった。

 が、そうは言っても。

 まだまだじれったいお二人の様子を、近くで眺めていたくもあり。結局それは書かずに、私は封を閉じたのだった。

チョコっと贈り物

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