はじめてのバレンタイン
認める。これは奥の手だと。「先生、気持ちの大きさは人それぞれだよ?」
私が言うと冨岡先生ははっとしたようにこちらに目を向け立ち止まった。作戦は成功かもしれない。
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ついさっき、冨岡先生にバレンタインチョコを渡した。
冨岡先生は性格的に生徒からの信頼が厚いとか懐かれているとかいう訳でもないのだけど、見た目はいいからバレンタインにはそれなりに人気がある。多くは「トミーが何返してくるか楽しみ」とか、「どんな反応するか見たい」とかを理由にした明るく楽しい義理チョコなんだけど、侮るなかれ、私が用意したのは本命チョコだ。
だけれども、先生ったら私がチョコを渡したそばから、持っていたバインダーに挟まれたA4の用紙に何かを記入し始めた。冨岡先生は空気を読むのがあまり得意ではないのだ。で、私も空気を読まずに先生が記入している用紙を覗き込んだら。そしたら、だ。
『16.みょうじなまえ×1』
私の名前が書かれているではないか。しかも、16番目に。
「何ですかこれ!?」
「ああ、これは」
嫌な予感がして聞いてみれば、冨岡先生は純真できらきらした瞳を真っすぐこちらに向け、まるでいいことを教えてくれるみたいな顔をして言った。
「返す時に漏れがないように記録している」
……ああ、そうですか。それを目の前で記録しちゃう辺り、さすがだなと思う。そういうところが可愛いんだけど。
「じゃあ私のお返しは先生の手作りだったら何でもいいから♪」
「いや、返すものに差はつけられない。一律で用意する」
「はぁ〜?」
先生を上目でじろっと睨み、不服!みたいな表情を作って誤魔化したはいいものの、私は内心、猛烈な焦りを感じる。
だってこのままではまずい。私は現在では16分の1の存在なのだ。多分この後、もっと数が増えて20分の1とか、30分の1の存在にすらなってしまうかもしれない。そう思ったら、昨日一生懸命用意したチョコレートと、一晩ドキドキしつくした気持ちの行き場がなくなって、泣きそうになる。
だから、奥の手。精一杯の悪あがきだ。
「先生、気持ちの大きさは人それぞれだよ?ほ、ほら、お祝いだって、もらったものに応じてお返し変えたりするじゃん!私、めちゃめちゃ気持ち込めて用意したんですけど〜!それを一律に返すって、いかにも頭が固くてイベントに疎いって感じ、しません?」
少し意地悪な言い回しになったことは承知の上。でも効果はてきめんだ。冨岡先生は、心外!と言わんばかりに口を四角に開いた。
「俺がイベントに疎……いや、そんなことはない。生徒指導としては没収したい菓子を受け取り、生徒の想いに応えるよう努めている。記録を取ってまで」
「だから!その一律対応に頭固い感じが出てるんですっ」
「なっっ……!」
「イベントに疎くないなら、ホワイトデー、楽しみにしてますねっ♪」
これ以上喋ってたら本当は私が傷ついてしまう。「やれやれ」で済むようにおちゃらけた雰囲気を出して、私はその場を去った。あとのことは、もう知らないもん。所詮私は、大勢のうちの一人だ。
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そうは、思っても。
昼休み。友チョコ交換に盛り上がる声に交じって冨岡先生の名前をキャッチしてしまい、私は教室で盛り上がる女子達の会話についつい耳を傾けてしまった。
「トミーにチョコ渡してきた!」
「どうだった!? あいつ没収とかしないの?」
「しないしない。なんか『どれくらいの気持ちがこもっているかパーセンテージで教えろ』とか言われて」
「えっっ!?」
「メモっててやばっ!ってなった」
「なんて答えたん?」
「1000%!」
「ちょ、待って何それ面白すぎる!! 私も渡してこよ!!」
駆けだした数人の女の子を目にして思わず胸がぎゅっと痛んだ。
冨岡先生よ……。私の言ったことを真に受けてはくれたんだ。でもそうじゃない、そうじゃないよーーーー。今さらもう、弁解や訂正の余地もない。沢山のチョコを受け取る方向へアシストしてしまうという自ら掘った墓穴に、私は言葉を失った。
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今年のバレンタインは完敗だ。
放課後は今度、部活動で注目を集めている子に人気が集中する時間。友人に別れを告げた私は、誰それに渡すという居残り組の女子達の盛り上がりを背に、人のいない廊下をとぼとぼと進む。西日のきついオレンジが、窓を抜けて私を射す。背中があったかいけど、昨夜からの期待を喪失した胸の中は寒くて痛い。
「なまえ」
「冨岡、先生」
階段を下りて風紀委員室の前を通りがかったところで、冨岡先生に呼び止められた。
難しい顔をした先生に促され、委員室に入る。先生は少しむっとしていた。
「気持ちの大きさも確認するようにしたが、余計に混乱を極めた。これを見ろ」
そう言って、証拠を突き出すかのように先生はバインダーごと私にA4用紙を差し出す。
何年何組、誰々。555%!
何組担任、誰先生。感謝の気持ちいっぱい。
何部、誰子ちゃん。お返しは金一封でよろしく〜
冨岡先生の用紙は途中から女子達のいいようにされたのか、彩り豊かな手書きの文字と落書き、面白い文言で埋め尽くされている。
改めて見てみると、私はいよいよ大勢の中の一人だ。
同じ委員会で活動を共にしていたなら。同じ教師で大人の女性だったなら。私が先生の目を見張るほど体育で活躍できたなら。それなら少しくらい気にかけてもらえたかもしれないけど、そのどれも、私には当てはまってない。
我ながらばかな提案をしてしまった。悪あがきなんてするからだ。
「もう、やめやめ! 私が間違ってました!」
「なまえ……?」
空回った期待をして、素直になれない自分が悔しくて情けなくて、ぽろっと涙がこぼれてしまった。一粒落ちたことを自覚すると、もうだめだ、堪えられない。
「気持ちなんて、数字で測れませんけど。わ、私は、泣くほど、ですからねっ」
先生に呆れられるのを覚悟して、もう破れかぶれである。けど先生も負けてなかった。
「それは……感涙というやつか?」
声にならなくて、こくんと頷く。
先生はしみじみと続けた。
「俺も、はじめてのおつかいは観ると必ず泣く」
「はぁ……。そうです。もう、それと同じです」
一体この人は何を考えてるんだと思いながら、どうでも良くなって話を合わせた。しかし逆に、これは功を奏したらしい。
「あれと同じなら、お前の気持ちは特大だ」
「そうなん、ですか……」
「返すものはやはり一律にするが、とにかくお前の気持ちは伝わった! これで涙を拭くといい」
冨岡先生は曇りのない瞳で強く頷き、ジャージのポケットを探る。そしてポケットティッシュを取り出すと、こちらへ差し出した。便利屋さんが駅前で配ってるポケットティッシュだ。とりあえず受け取って、2枚ほど拝借する。
それから私は手元をじっと見た。
先生の普段の厳しい態度と、流麗な身のこなしと、黄色と黒が際立つ広告入りのチープなポケットティッシュがアンバランスで、今度は何だか笑えてくる。
多分、冨岡先生は心から「便利だな」と思ってこのティッシュを受け取ったんじゃないかと推測されて、その一見分かりにくいながら素直なところが、やっぱり特別に愛らしくて好きだなと思う。
手に持つティッシュは先生のぬくもりでほんのりと温かく、涙をぬぐうと先生の匂いがふわっと香るような気がした。清潔な、大人の男の人の匂い。
「ありがとうございます」
ティッシュを返したら、もう会話することもないから付け加える。
「あれから何年後ってやつも面白いですよね」
すると先生は例の曇りなき眼を輝かせ「なまえもそうか」と興奮の色を頬にのせた。
何やら語りたいことが色々とあるようで、先生は口元をうずうずさせている。バレンタインのことは分かったのか分かっていないのか……多分分かっていないけれど。
ちょっとズレたことを口走る美しい横顔を眺めながら、私は先生から直々にいただいたぬくもりのホワイトをカーディガンのポケットにしまった。すると、今度はポケットの中が特別に温かい気がしてくるから不思議。
私の気持ちが伝わるまで、まだまだ道のりは険しそうだけど。
これがあるから、まぁいっか。
ポケットに突っ込んだ片手でティッシュに触れて、今日のところはそう思うことにした。